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第十七話 最後の査定


 東京・霞が関の本省庁舎、特別会議室。


 部屋の隅に置かれた加湿器が、シューというかすかな音を立てて白い煙を吐き出していた。


 その煙の向こう側で、中央に据えられた長い会議机を挟み、二つの集団が向かい合っている。


 片方は、仕立ての良い衣服に身を包んだ本省の幹部たち。


 もう片方は、瀬戸内から呼び出された公団の幹部たちだった。


 部屋を支配しているのは、張り詰めた沈黙だった。咳払いひとつにも意味が生まれそうなほど、空気は重く沈んでいる。


 財政・査定担当参事官の宗像は、手元の資料を一枚めくった。


 その指先には、迷いも、感傷もなかった。


「一九八七年四月一日。翌春に控えた国鉄分割民営化において、新会社が引き継ぐべき累積債務の総額は、およそ三十七兆円に達する見込みです」


 宗像の声は淡々としていた。


 だが、その声が持つ質量は、会議室の空気をゆっくりと圧迫していった。


「オイルショック以降の我が国の財政状況、ならびに国鉄の経営実態を鑑みれば、これ以上の過大な財政投融資の継続は、国家そのものの信用に関わる。本四備讃線を含む大規模プロジェクトに関しては、抜本的な見直しが不可避である――というのが、大蔵、ならびに本省の共通した見解です」


 宗像は視線を上げた。


 公団側の席を、冷徹に見据える。


「したがって、今回の査定会議における結論として、本四備讃線事業の一時凍結、および無期延期を正式に提示します」


 完璧な論理だった。


 国家破綻を防ぐという、誰にも簡単には否定できない巨大な正義がそこにあった。


 本省の幹部たちが、静かに頷く。


 公団側の幹部たちは、一様に下を向いていた。


 三十七兆円。


 誰も口を開かなかった。


 会議室は、宗像の築いた正論によって、完全に押さえ込まれていた。



 その沈黙を破ったのは、低く、硬い音だった。


 ガタッ。


 椅子の脚が、絨毯の下の床板を軋ませた。


 会議室の末席から、一人の男がゆっくりと立ち上がる。


 周囲の視線が、一斉にその男へ集まった。


 仕立ての良いウールスーツや、磨かれた革靴が並ぶ部屋の中で、その姿はあまりにも異質だった。


 石山だった。


 児島・坂出の潮風と、コンクリートの匂いと、乾いた泥を染み込ませた作業服。


 そのままの姿で、この最高査定の場に乗り込んできていた。


 石山は、分厚く荒れた手のひらを磨き上げられた机についた。


 木目を押し込むようにして、上体を支える。


 周囲の官僚たちが、わずかに眉をひそめた。


 だが、中央に座る宗像だけは、表情を変えなかった。


 机の上で、宗像の指が資料の角を一度だけ揃えた。


 感情を削ぎ落とした目だけが、まっすぐに石山へ向けられる。


「何度も言わせないでくれ、石山君」


 石山が口を開く前に、宗像は静かに言った。


「国家は夢では動かんのだ」



 会議室の空気が、一段と冷えた。


 それでも石山は、声を荒らげなかった。


 技術者の夢を語ることもなかった。


 ただ、腹の底から押し出すような低い声で応じた。


「知っとる」


 その一言で、ざわつきが止まった。


「……夢やないから、ここに立っとんや」


 石山は、宗像を見返した。


 その目には、東京の会議室からは決して見えない、瀬戸内の海と、島と、泥にまみれた現場が映っていた。


「あんたがこの東京の部屋で、帳簿の数字を睨んどる間に、海にはもう主塔が立ってしもた。港の売店はシャッターを下ろして、船の深夜便も減らされた。町も、人も、もう『橋ができる前提』で生活を変えて、戻れんところまで動き出してしもとるんや」


 石山の手のひらが、テーブルをわずかに軋ませた。


 誰も口を挟まない。


「止める言うんなら、十年前に言うべきやった」


 低く沈み込むようなその声が、会議室に落ちた。


 石山が言っているのは、橋を造らせてくれという懇願ではなかった。


 今さら止めるな。


 ただ、それだけだった。


 一度動かしてしまった人間の時間は、書類一枚で巻き戻せるほど軽くない。


 そのことを、石山は誰よりも知っていた。


「今さら止めてみろ」


 石山は、宗像の目を真っ向から見据えた。


「動き出してもうた人間の現実の責任は、あんたの帳簿のどこに書いとんや」



 会議室は、完全に静まり返った。


 加湿器のシューという音だけが、やけに大きく聞こえる。


 本省の幹部たちは、次の言葉を失っていた。


 宗像は、わずかに目を細めた。


 石山の言葉を、感情論として切り捨てることはできなかった。


 それは夢ではない。


 既に動き出してしまった現実だった。


 その沈黙の中で、カタ、と小さな音が響いた。


 公団側の席で、真壁が手元の鉛筆を机に置いた音だった。


 真壁はゆっくりと立ち上がった。


 その目に、迷いはなかった。


 児島のプレハブで、深夜まで電卓を叩き続けた、あの夜を越えてきた目だった。


 感傷は、すでに削ぎ落とされている。


 ただ、冷たく研ぎ澄まされた実務家の顔だけが、そこにあった。


 真壁の脇には、分厚い帳簿の束が置かれている。


 あの夜、液晶画面に緑色の光を放っていた数字たち。


 真壁は宗像を見据え、静かに告げた。


「参事官。石山主任技師の言う『動いてしまった現実』を、すべて数値化してきました」


 石山が現場の言葉で開いた隙間へ、真壁は静かに数字を差し込んだ。

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