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第十六話 削られる未来


 一九八六年、冬の深夜。


 児島・坂出の公団推進室プレハブは、凍てつくような潮風の中に孤立していた。


 東京から最終便で戻った真壁は、外套も脱がないまま、事務机の上に膨大な資料の束を広げた。


 ガサリ、と重い音がして、乾いた紙の匂いが室内に広がる。


 頭上では、古い蛍光灯がジジジと低く唸っていた。トタン屋根を叩く風が、窓ガラスを細かく震わせる。ストーブは点いていたが、プレハブの隙間から入り込む冷気が、真壁の足元を容赦なく冷やしていた。


 机の上にあるのは、橋を架けるための設計図ではなかった。


 各ゼネコンとの工事契約書。


 製鉄会社への鋼材発注書。


 地元自治体の道路整備計画書。


 漁業協同組合との補償交渉議事録。


 すべてが、今ここで工事を止めた場合の精算書類だった。


 耳の奥で、霞が関のあの部屋で聞いた宗像の声が、まだ冷たく残っている。


 ――出せるなら出しなさい。数字で。


「数字、か」


 真壁は低く呟き、かじかんだ指で電卓を引き寄せた。


 パチ、パチ、パチ。


 硬いプラスチックのキーを叩く音が、深夜のプレハブに規則正しく響き始める。


 それは建設の音ではなかった。


 もう止められなくなった現実を、数字に変える音だった。



 夜が更けるにつれて、真壁の手元で算出される額は、億の単位を軽々と超えていった。


 工事中断に伴うゼネコンへの違約金。


 すでに製造が始まっている主塔用鋼材の廃棄・保管コスト。


 地元自治体が進めてきた関連事業の補償費用。


それらはすべて、宗像へ提出するための数字だった。


 勝てるかどうかは分からない。


 霞が関で突きつけられた三十七兆円という数字の重みを、真壁は理解している。


 だが真壁には、ひとつだけ確信があった。


 橋は、もう計画の段階を過ぎている。


 海底には基礎が沈み、主塔は空へ伸びている。


 港も町も、橋が架かる前提で動き始めていた。


 今さら止めるという選択肢そのものが、少しずつ現実から外れ始めている。


 それを証明するためには、止めた場合に発生する損失を、一つ残らず数字にするしかなかった。


 書類をめくる真壁の目は、次第に赤く濁っていく。


 指が、一枚の地方自治体の計画書の上で止まった。


 橋ができる前提で周辺道路を整備するため、すでに数億円の地方債を発行してしまった小さな町の数字が並んでいた。


 工事が凍結されれば、その負債はそのまま町に残る。


 次にめくったのは、漁業補償の議事録だった。


 ようやく合意に漕ぎ着け、海を譲る決断をした漁師たちの名前が、そこに並んでいる。


 白紙撤回となれば、彼らの生活の保証も、これまで積み重ねた交渉も、すべて宙に浮く。


 数字は、ただの記号ではなかった。


 真壁が電卓に打ち込む「億」という桁の裏側には、地元の土木業者、町役場の職員、網を置く決意をした老漁師たちの顔が張り付いていた。


 橋を止めれば、この地域の今が壊れる。


 真壁は、自分が他人の人生の解体費用を一つひとつ計算しているような、嫌な感覚に囚われていた。


 ペンを握る手のひらに、じっとりと汗がにじむ。



 深夜二時。


 猛烈な勢いで電卓を叩いていた真壁の指が、ふいに止まった。


 白黒の書類を見つめたまま、呼吸が浅くなる。


 宗像の凍結論を覆すには、止めた場合の損失を積み上げるしかない。


 大きく。


 より大きく。


 国費の無駄を何よりも嫌う宗像に、止める方が高くつくと思わせるだけの数字が必要だった。


 だが、その数字を積み上げ続けた先にある未来を考えた瞬間、真壁の手が止まる。


 脳裏をよぎったのは、海斗の顔だった。


 夜の甲板。


 連絡船の灯り。


 港で働く人々の姿。


 橋が架かれば、世界は変わる。


 その変化の先で、消えていくものもある。


 真壁はゆっくりと目を閉じた。


 橋を止めれば、動き出した地域の今が壊れる。


 橋を進めれば、別の誰かの居場所が失われる。


 どちらを選んでも、傷つく人間がいる。


 その事実だけが、重く胸に沈んでいた。


 激しい眩暈がした。


 視界の端が暗くなり、胃の奥から不快感がせり上がる。


 キーを押す指が震える。


 だが――。


 真壁はもう一度、目を開いた。


 かじかんだ右手を、再び電卓の上へ戻す。


 パチ、パチ、パチ。


 感傷で手を止めることこそが、実務家としての敗北だった。


 彼は黙って、数字を積み上げ続けた。



 どれだけの時間が経ったのか、分からなかった。


 真壁はふと、部屋の隅にある気配に気づいた。


 顔を上げる。


 薄暗いプレハブの隅に、結が座っていた。


 パイプ椅子に深く腰掛け、暖房の消えかけた部屋で小さく肩をすくめながら、真壁を見ている。


 いつからそこにいたのか、分からない。


 結の膝の上には、一冊の黒い日誌が抱えられていた。


 それは、寄せ書きのような感傷のノートではなかった。


 結が港で拾い集めてきた声と、消えゆく連絡船の一日一日を、淡々と記録してきた黒い日誌だった。


 結は何も言わない。


 日誌を差し出すわけでもない。


 慰めるわけでもない。


 ただ、冷たい帳簿を睨み、電卓を叩き続ける真壁の姿を、その目に焼き付けるように見つめていた。


 真壁は、結の膝の上の日誌に気づいていた。


 そこに書かれた声の重さも、分かっていた。


 だが、今の自分には、それを受け取る資格も、感傷に浸る時間もなかった。


 真壁は日誌から目を離した。


 手元の帳簿へ視線を戻す。


 今、自分が握るべきなのは、人の温もりではなかった。


 電卓だった。


 真壁はまた、キーを叩いた。


 パチ、パチ、パチ。


 液晶画面には、冷え切った確定損失の数字が、緑色の光を放って点滅している。


 結は黙って見ていた。


 真壁は黙って計算した。


 液晶画面の数字だけが、緑色の光を放っていた。

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