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第十五話 凍結案


 一九八六年、冬。


 東京・霞が関の官庁街は、底冷えのする灰色の空の下に沈んでいた。


 真壁が息を吐き出すと、白い塊がすぐに排気ガスを含んだ乾いた風に掻き消された。瀬戸内の海を渡る風には必ず混ざっていた、あの生臭い潮の匂いはここにはない。あるのは、凍てついたアスファルトと、絶え間ない自動車の騒音だけだった。


 本省庁舎の重厚な玄関をくぐり、大理石の長い廊下を歩く。


 真壁の右肩には、長年の使用で角が擦り切れた茶革の鞄が重くぶら下がっていた。その中には、児島・坂出の公団推進室で石山たちが泥にまみれ、徹夜を重ねて書き上げた最新の『橋脚・主塔進捗報告書』が収まっている。


 暖房の効きすぎた廊下は、驚くほど乾燥していた。インクと古い紙の匂いが鼻腔を突く。


 真壁の着ている外套は、どれだけブラシをかけても瀬戸内の塩分が繊維の奥に残っているのか、東京の乾いた空気の中ではどことなく湿気を帯びて重く感じられた。


 コツ、コツ、と前方から硬い足音が近づいてきた。


 磨き上げられた床を正確な歩調で刻むのは、本省の財政・査定担当参事官、宗像だった。


「待たせたな、真壁君」


 宗像の声には、高低も抑揚もなかった。


 彼の三つ揃えの高級なウールスーツには、シワ一つついていない。それは瀬戸内の烈風に晒される真壁の衣服とは決定的に異なる、まるで彼自身の冷徹な理性を保護するための、乾いた皮膚そのもののようだった。


 宗像は真壁の挨拶を軽い会釈だけで受け流すと、無言で木製の重厚なドアを開けた。


 第一応接室。


 中央に、黒光りする長い会議テーブルが置かれた、窓の小さな、四方を壁に囲まれた空間だった。



「さっそく始めよう。時間が惜しい」


 宗像はコートも脱がず、テーブルの奥の席に腰を下ろした。


 真壁が鞄の真鍮の金具に手をかけ、分厚い進捗報告書を取り出そうとした、その瞬間だった。


 宗像は真壁の手元を一瞥もせず、胸ポケットから取り出した一枚の薄い紙を、テーブルの滑らかな木目の上へ滑らせた。


 真壁の指が止まる。


 差し出された書類の表題には、冷たい明朝体でこう印字されていた。


『本四連絡橋建設事業に関する緊急凍結案』


 部屋の隅で唸りを上げる加湿器の音が、急に大きく聞こえた。


 真壁は書類を見つめたまま、動けなかった。


「一九八七年四月一日」


 宗像が、感情の失せた声で数字を口にし始めた。


「来春、国鉄は解体され、分割民営化される。そのスタートラインにおいて、新会社が引き継ぐべき累積債務の総額がいくらか、君は知っているか」


 真壁は答えなかった。


 宗像も答えを求めてはいなかった。


「三十七兆円だ」


 宗像の手元にある資料のページが、乾いた音を立ててめくられる。


「三十七兆円という数字が、何を意味するか分かるか。国家規模の負債だ。オイルショック以降、日本経済はかつてのような右肩上がりの成長を前提には動いていない。これ以上、巨額の政府保証と財政投融資を続ければ、国家財政そのものを食い潰しかねない段階に来ている」


 宗像の発する言葉は、どれも冷酷なまでに整然としていた。


 主観も、偏見も、現場への嫌がらせもない。


 ただ、国家の財布を預かる財務官僚としての、一分の隙もない正しい現実がそこにあった。


「したがって、本四連絡橋事業における未完成区間、特に現在施工中の第三工区を含む架橋工事については、一時凍結。事業規模の縮小、および投資の無期延期を上申する」



「……お待ちください」


 真壁は喉の渇きを覚えながら、なんとか声を絞り出した。


 自分の声が、本省の高い天井に吸い込まれていくのが分かった。


「海底の基礎は、すでに完成しています。石山たちが、あの荒海の中で命を削って沈めた土台です。主塔も、予定通り空へ伸びている。今ここで工事を止めれば、これまでに投入した数千億の国費が、文字通りすべて海の藻屑になる。それこそ巨額の損失ではありませんか」


 宗像は真壁の言葉を遮らなかった。


 反論を怒るでもなく、憐れむでもなく、ただ静かに最後まで聞いた。


 やがて、宗像は手元の資料を閉じた。


 パタン、と乾いた音が狭い部屋に響く。


「真壁君」


 宗像の視線が、初めて真壁の目を真っ向から射抜いた。


「君は数千億と言ったな」


 真壁は動かない。


「その感覚が、すでに現場の人間なんだ」


 宗像の声はどこまでも平坦で、それゆえに圧倒的な質量を持っていた。


「国家は数千億では動かん」


 宗像は、閉じた資料の上に指を置いた。


「兆だ」


 加湿器の白い蒸気が、二人の間で薄く揺れている。


「君たちは橋を見ている。私は国を見る。その橋を完成させるために、あとどれだけの金をこの海に注ぎ込むつもりだ。国鉄の解体を目前にして、これ以上の債務負担を積み上げるだけの鉄の塊を海に架けて、その負債は一体誰が支払う。ここで止める。それが、この国を預かる人間の現実だ」


 宗像の目には、憎しみも蔑みもない。


 あるのは、ただ肥大化した国家というシステムを、破綻させずに軟着陸させようとする実務家の使命感だけだった。


 真壁の脳裏に、にわかに瀬戸内の港の景色が浮かんだ。


 深夜便を削減され、夕暮れには人影の消える宇高連絡船のデッキ。


 すでにシャッターを下ろした連絡船乗り場のうどん屋。


 橋ができるという前提で、すでに戻れない形に変形し始めてしまった町。


 だが、宗像が提示する三十七兆円というマクロの数字の前では、それらの景色はすべて質量を失い、霧のように消えていく。


 真壁の反論は喉の奥に沈み、言葉にならなかった。



「査定は以上だ」


 宗像は椅子を引き、席を立った。


 重厚な木製の引き戸へと向かう足音が、廊下に響きかけた、その時だった。


 宗像はドアノブに手をかけたまま、取り残された真壁の背中に静かに言葉を落とした。


「夢で国家は動かん」


 真壁は、テーブルの上に置かれた『進捗報告書』の角を強く握りしめた。


 手のひらから滲み出た脂汗が、石山たちが命がけで書き上げた白い紙の端を、じわりと湿らせていく。


 このまま引き下がれば、すべてが終わる。


 現場の熱も、港の誇りも、すべてはこの暖房の効きすぎた部屋の空気の中で圧殺される。


「承知しました」


 真壁の声が落ちた。


 宗像の革靴の音が、ぴたりと止まる。


「ですが宗像さん」


 真壁は椅子の背を掴み、ゆっくりと立ち上がった。


 振り返らない官僚の背中を見据える。


「あなたが見ているのは国の帳簿です」


 静寂が落ちる。


「私は現場の帳簿を持ってきました」


 加湿器の蒸気が、白く揺れている。


 宗像は振り返らない。


 真壁は続けた。


「どちらも国の数字です」


 宗像の指が、ドアノブの上で止まっていた。


「工事を途中で放棄した場合の違約金、発注済みの鋼材の廃棄コスト、地元漁協への補償のやり直し、橋を前提に動いてしまった自治体の港湾投資への賠償。建てる金だけでなく、壊すために必要なすべての損失を、私の手で算出します」


 宗像は振り返らないまま、冷たく言い放った。


「出せるなら出しなさい」


 引き戸が、わずかに開く。


「数字で」


 真壁は歪んだ紙の角から手を離し、真っ直ぐに前を向いた。


「ええ」


「それしか、私にはありませんから」


 扉が静かに閉まり、カチリと錠が降りる音がした。


 真壁は一人、暖房の効きすぎた部屋に取り残された。


 自分の指先を見つめる。


 その指はかすかに震えていた。


 だが、もう迷いはなかった。



 夕暮れの児島・坂出の公団推進室プレハブ。


 潮風で錆びついたトタン屋根の下、古い蛍光灯だけがジジジと低い唸りを上げている。


 室内には、セロハンテープで何度も繋ぎ合わされ、いたるところに泥の指紋がついた、あの日の大きな図面が広げられていた。


 石山は、作業服の袖で額の汗を拭いながら、その図面をじっと見つめていた。


 彼の分厚い手のひらは、今日も海底のコンクリートと鉄筋に擦られて荒れている。


 不意に、静寂を破って、卓上の重い黒電話がジリリリリと鋭く鳴り響いた。


 石山は、泥の落ちた太い指で、受話器を静かに持ち上げた。


「……石山や」


 受話器の奥から、真壁の声が聞こえた。


 数秒の沈黙。


 受話器を握る石山の指に、じわりと力がこもる。


 石山の顔から、またたく間に血の気が引いていった。


「そうか」


 それだけ言って、石山は受話器を静かに置いた。


 広げられた大きな図面。


 そこには、彼らが命を削って組み上げてきた無数の数字と線が走っている。


 石山は動きを止めた。


 しばらく何も言わなかった。


 窓の外で風が鳴る。


「ほうか」


 それだけだった。


 蛍光灯が、ジジジと唸る。


 図面の上に落ちた石山の影だけが、少し長く伸びていた。


 瀬戸内の冬の風は、まだ海の上を吹いている。


 工事は、まだ止まっていない。


 ただ、その先に伸びる線だけが、

東京のどこかで、静かに凍り始めていた。


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