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第十四話 主塔の影


 冬の瀬戸内海は、陽光の下でも冷たかった。


 出港前の甲板。


 乗客たちが手すり越しに海を眺めていた。


「ずいぶん高うなったな」


 年配の男が言う。


 隣の女が目を細めた。


「前は向こうの島が見えよったんやけどな」


 男も海を見たまま頷く。


「もう見えんな」


 二人はしばらく主塔を見上げたあと、何事もなかったように客室へ入っていった。


 宇高連絡船のブリッジは、いつも通り、エンジンの微振動に満ちている。


 床から伝わる震えが、航海士である海斗の足裏を小刻みに揺らしていた。


 だが、海斗は正面の窓を見ようとしなかった。


 手元の作業台へ、視線を落とし続けていた。


 広げたのは、縮尺の細かい海図だった。


 使い慣れたコンパスを置き、航路を確認しようとした瞬間、冬の低い太陽光が窓から斜めに差し込んだ。


 白い海図の上に、太い黒の帯が落ちる。


 海の上にそびえ立つ、巨大な主塔の影だった。


 海斗が指先でなぞろうとした青い航路の線を、その影が冷たく横切っていた。


 海図を少しずらしてみる。


 影は、動かなかった。


 海斗は小さく息を吐き、視線を逸らした。


 目を向けたのは、正面の計器板だった。


 速度計。


 回転計。


 丸いガラス面。


 その反射の中にも、海面から天へ伸びる鉄骨の輪郭が、歪んで映り込んでいた。


 さらに横の窓ガラスへ視線を逃がす。


 塩を噛んで白く曇ったガラスの表面にも、巨大な主塔の影が焼き付いたように映っていた。


 窓枠に切り取られた灰色の骨組みは、船を閉じ込める檻のようにも見えた。


 諦めて、海斗は外を見た。


 そこには、あの秋に通り過ぎた灰色の土台とは比較にならない高さの主塔が、海の真ん中に立っていた。


 青い空を無理やり切り裂くように。


 潮風を浴びた鉄の塔は、鈍く光っている。


 船が前へ進むにつれ、その影はゆっくり海面を滑り、連絡船の白い船体へ近づいてきた。


 海斗は、着古した青い制服の袖口を握りしめていた。


 肘の擦り切れた布地が、指先に触れる。


 指先が白くなる。


 爪が布地に食い込む。


 隣に立つ岩崎船長は、何も言わなかった。


 窓ガラスに映る主塔の影を、ただまっすぐに見ている。


 驚きもない。


 落胆もない。


 視線の揺れすらない。


 岩崎は一定の速度で舵輪を回し続けていた。


 船長が舵を切るたび、エンジンの音が低く変わる。


 船は、主塔の落とす巨大な影の中へ、静かに滑り込んでいった。


2


 同じ昼の下。


 瀬戸大橋の海上足場には、吹きさらしの風が鳴っていた。


 ごうごうという風の音に混じって、鋼鉄を打つ金属音が響いている。


「昨日より伸びとるな」


 若い作業員が首を反らした。


「三メートルや」


 別の作業員が答える。


「そのうち空に届くんちゃうか」


 小さな笑い声が上がる。


 石山は何も言わなかった。


 ヘルメットを深く被り直し、足場の上に一枚の図面を広げた。


 真新しい図面ではなかった。


 何度も海水に濡れ、泥に汚れ、一度は引き裂かれた。


 それを透明なセロハンテープで幾重にも繋ぎ合わせた、あの日の図面だった。


 バタバタと風に暴れる図面を、分厚い指で押さえつける。


 指の腹が、テープの硬い段差をまたいだ。


 一度。


 また一度。


 石山は、ゆっくりと図面から顔を上げた。


 テープの段差の先。


 現実の空間に、巨大な主塔が立っていた。


 クレーンが低くうなる。


 鉄骨のブロックが宙を移動する。


 それが、海底の基礎の上に、少しずつ組み合わさっていく。


 ガチィン、と重い音が足場を揺らした。


 ボルトが締め付けられる。


 紙の上で引き裂かれ、テープで繋ぎ止められていた線が、目の前で現実の質量になっていく。


 石山は何も言わなかった。


 ただ、図面の端をもう一度強く押さえた。


 風に煽られる紙の震えだけが、指先に残っていた。


3


 夜。


 港の外れ、埋め立て地の端に建つ、本四公団推進室のプレハブ詰所。


 昼間の金属音は消えていた。


 古い蛍光灯の低いうなりだけが、部屋に残っている。


 真壁のデスクの上には、東京の本局から送られてきた書類の束が置かれていた。


 表紙には、乾いた文字でこう印字されている。


 人員整理対象者名簿。


 ページをめくると、国鉄の船員や、港の売店、桟橋で働いてきた人間たちの名前が、びっしりと並んでいた。


 真壁は、卓上ライトの下で一本の鉛筆を握っていた。


 あの夜、ナイフで鋭く尖らせた鉛筆だった。


 その一点を使い、名簿に並ぶ名前の横へ、淡々と斜線を書き入れていく。


 カリ、カリ、と。


 黒鉛が紙を引っかく音だけが、静まり返ったプレハブに響いた。


 線を一本引く。


 それだけで、その人の行き先が少し変わる。


 別の港へ行くのか。


 海を降りるのか。


 真壁は表情を変えなかった。


 ただ、右手だけが動いていた。


 チェックを重ねるごとに、鉛筆の芯先は少しずつ押し潰されていく。


 角が取れ、丸く、鈍くなる。


 紙に残る黒い線も、少しずつ太くなっていった。


 やがて、線が名前の文字を潰しそうになったところで、真壁の手が止まった。


 彼は何も言わなかった。


 溜息も漏らさない。


 静かに引き出しを開け、小さな折りたたみナイフを取り出した。


 カリ、カリ、と。


 今度は、木肌が削られる音が響く。


 新しい削りカスが、白い机の上に落ちていく。


 黒い芯の粉が、机の隅に小さく積もった。


 真壁は、再び鋭さを取り戻していく芯先だけを見つめていた。


 削り終えると、彼は鉛筆を握り直した。


 何事もなかったかのように、次のページを開く。


 そしてまた、名前の横に冷たい線を一筋、引いた。


 窓の外では、遠くの海から、夜の連絡船の汽笛が一度だけ重く響いていた。


 真壁は顔を上げなかった。


 鉛筆の先が、また一つ、名前の横を横切る。


 部屋にはただ、鉛筆が紙を擦る乾いた音だけが残っていた。

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