第三章 転 ―― 削りあう時間 第十三話 減便の港
夜十時。
いつもなら、夜遅くまで出汁の匂いを漂わせていた高松側桟橋の「連絡船うどん」の売店。
その前で、エプロン姿のおばちゃんが、無言のまま薄い鉄のシャッターに手をかけた。
がらがら、と。
乾いた金属音が、夜の海へ低く転がっていく。
おばちゃんは何も言わなかった。
売店の奥で、プラスチックの鍵をかける音が小さく響いた。
それで終わりだった。
結は、少し離れた待合所の柱の陰からそれを見ていた。
桟橋を照らしていた蛍光灯の列。
その半分以上が、今は消されていた。
間引きされた灯りの下で、コンクリートの床が白く、頼りなく浮かび上がっている。
乗客の気配は薄い。
たまに通り過ぎる革靴の音だけが、硬い床に跳ね返って、妙に高く響いた。
以前なら、その音は人混みのざわめきと、船員たちの声に紛れて消えていた。
今は、音だけが残っていた。
深夜。
岩崎家の二階。結の自室。
卓上ライトの白い光だけが、机の上を四角く照らしている。
開かれた黒い日誌。
結は万年筆を握ったまま、しばらく動かなかった。
彼女は日誌に「寂しい」とは書かなかった。
ただ、見たものだけを書く。
そう決めていた。
ペン先が、紙を引っかく。
昭和五十八年○月○日
曇
二二時
売店閉鎖
ページをめくる。
昭和五十八年○月○日
晴
深夜便なし
さらに、めくる。
昭和五十八年○月○日
雨
二三時
汽笛一回
結は万年筆を置いた。
耳が痛くなるほど、静かだった。
かつては一晩中、窓の隙間から滑り込んできた汽笛が、今はもう聞こえない。
時計の針だけが、少しずつ進んでいた。
同じ夜。
港の最果てにある、本四公団推進室のプレハブ詰所。
古い蛍光灯の低いうなりだけが響く部屋で、石山は机に向かっていた。
作業台の上に広げているのは、真新しい図面ではなかった。
何度も海水に濡れ、一度は引き裂かれ、それを透明なセロハンテープで幾重にも繋ぎ合わせた、あの日の図面だった。
テープの境目が、蛍光灯の光を受けて鈍く光っている。
石山はその凹凸に、分厚い指先をそっと触れさせた。
指の腹が、テープの段差をなぞる。
彼は何も言わなかった。
もう一度、図面の上にコンパスと鋼鉄の定規を置く。
次の工程のための測量数値を追いはじめる。
泥を払った指先は、ミリ単位の線の上を、ただ淡々と動いていた。
その数歩先。
真壁のデスクには、東京の本局から送られてきた「深夜便削減の効果測定」と題された書類が置かれていた。
真壁は、その数字を見ていなかった。
無言のまま、小さな折りたたみナイフで、一本の鉛筆を削っている。
カリ、カリ、と。
乾いた木肌が削られる音だけが、プレハブに響く。
黒い芯の粉が、白い机の上に小さく積もっていく。
ナイフの刃先が、芯を限界まで尖らせていく。
真壁はその鋭い一点だけを、瞬きもせずに見つめていた。
翌日、昼の便。
連絡船のブリッジは、エンジンの微振動で小刻みに震えている。
岩崎船長は無表情に舵輪の前に立ち、航海士の海斗は少し後ろで海を睨んでいた。
深夜便が消えた分、昼の海を見る海斗の目は、どこか鋭かった。
青い制服の襟は、汗が乾いて、少し白く強張っている。
その青を、海斗は昔、格好いいと思っていた。
まだ子どもだった頃。
父に連れられて乗った連絡船で、海斗は甲板の隅から船員たちを見ていた。
太い舫い綱を投げる腕。
濡れた甲板を走る足音。
乗客に短く声をかけ、すぐに次の作業へ移っていく背中。
誰も派手なことはしていない。
けれど、その青い制服の男たちは、海の上で何かを支えているように見えた。
その姿が、子どもの海斗にはひどく大きく見えた。
初めて自分の制服を受け取った日のことも、覚えている。
袖口は少し色が抜けていた。
肘には薄い擦り傷が残っていた。
誰かが海の上で着ていた制服だった。
それでも、海斗はその布を抱えたまま、しばらく言葉が出なかった。
「似合うね」
母に褒められて、海斗はわざと肩をすくめた。
「ただの作業着や」
そう答えた。
けれど、その夜、鏡の前で何度も襟を直した。
袖を通した腕を、不自然に伸ばしてみた。
自分が少しだけ、あの甲板の男たちに近づいた気がした。
船が港を出て、沖へ進む。
瀬戸内海の穏やかな青い海原。
その真ん中に、それはあった。
かつて石山たちが泥にまみれ、守り抜いた海底の基礎。
そこから立ち上がった、巨大な灰色の塊。
コンクリートの土台が、海面を割って、白日の下に姿を現していた。
波が叩きつけても、揺れない。
周囲の青い海の中で、そこだけが冷たく、動かなかった。
海斗の視線が、その土台に縫い付けられる。
右手が、青い制服の袖を握りしめた。
指の跡が、布地に深く残った。
岩崎は何も言わなかった。
ただ、灰色の土台をまっすぐに見つめ、それから舵輪を静かに握り直した。
船は、その土台の脇を、エンジンの音を立てながら通り過ぎていく。
土台は海の上に残った。
連絡船もまた、いつも通り港へ戻った。
夜。
岩崎家の居間。
結が階段を降りていくと、座卓に向かって背を向けている父の姿があった。
岩崎は古い万年筆を握り、自分の運航日誌に文字を落としていた。
欠けた文字のない、四角い筆跡。
結は、その広く、少し左肩の下がった背中を見つめた。
二人の間に、言葉はなかった。
ただ、ペン先が紙を擦る音だけが、茶の間に小さく響いていた。
結は何も言わず、階段を上って自分の部屋へ戻った。
卓上ライトを点け、自分の日誌を開く。
遠くの海で、汽笛が一度だけ鳴った。
重く、低い、連絡船の音。
結はペンを握ったまま、顔を上げた。
窓の向こうの暗闇を見つめる。
次の音は、来なかった。
いつまでも、静寂だけが続いた。
下の部屋では、父のペンがまだ動いている。
結もまた、手元に視線を戻し、万年筆を走らせた。
港から、音が消えていく。
その静けさだけが、二つの部屋に積み重なっていった。




