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第十二話 青い制服の絶望


 大型台風が去った港には、容赦のない西日が照りつけていた。


 プレハブ詰所の中は、逃げ場のない熱気が重くこもっている。


 現場は動き出していた。


 浜村たち作業員は無言のままクレーンの点検をし、泥をかぶった機材をホースの水で洗い流している。


 誰も「再開しよう」とは口にしなかった。


 けれど、手は確実に動いていた。


 詰所の机で、石山もまた無言のまま指先を動かしていた。


 広げられているのは、海水で引き裂かれた図面だった。


 石山はセロハンテープを引き出し、破れた箇所を一枚一枚、静かに繋ぎ合わせていく。


 テープの透明な帯が、青図の裂け目をまたいで貼られていく。


 ずれた線は、完全には戻らない。


 それでも石山は、指で上から押さえた。


 泥を掴んだときの汚れが、彼の爪の奥をまだ黒く染めたままだった。


 外では、浜村たちが流された足場の残骸を選別していた。


 曲がった鉄材。


 泥を噛んだワイヤー。


 海水を吸って重くなった木板。


 浜村がホースの水を止め、一本の鉄材を持ち上げた。


「ここ、まだ使えます」


 別の作業員が、無言で頷いた。


「なら残せ」


 それだけだった。


 壊れたものを捨てるのではなく、残せるものを探していく。


 それが、この日の現場のすべてだった。


 足元の泥だけは、なかなか落ちなかった。



 詰所の片隅で、真壁は一枚の書類を見つめていた。


 国鉄本局から届いたばかりの公文書だった。


 そこには「宇高連絡船の深夜便削減」および「人員配置の見直し」の文字が並んでいる。


 真壁は書類を裏返した。


 もう一度、表へ戻す。


 何も変わらない。


 乾いた紙の上に、均一な活字だけが並んでいた。


 あの嵐の日、彼の手の中で安全基準書は濡れて読めなくなった。


 だが、この紙は濡れていない。


 破れてもいない。


 泥もついていない。


 だからこそ、ひどく遠かった。


 真壁は、しばらくその紙を見つめていた。


 やがて、折り目をつけないように机の上へ置いた。


 机の向こうでは、石山が破れた図面を繋いでいる。


 こちらの紙は乾いている。


 あちらの紙は海水で歪んでいる。


 同じ紙なのに、まるで別のものだった。


 真壁は書類の端に指を置いた。


 深夜便削減。


 人員配置の見直し。


 それは整った言葉だった。


 だが、その言葉の向こうに、真壁は連絡船の甲板を思い出していた。


 黒い雨の中で揺れていた巨体。


 舫い綱を引く船員。


 誰に褒められることもなく、次の便の準備へ移っていく岩崎の背中。


 真壁は、書類から手を離した。


 紙は、乾いたままだった。


 誰かは繋ごうとしている。


 誰かは削ろうとしている。


 真壁は、その間に座っていた。



 夜の桟橋は、潮風が冷たかった。


 暗闇の中で、波の音だけが規則正しく響いている。


 売店の灯りはついていたが、人の声は少ない。


 売店の鍋からは湯気が上がっていた。


 けれど、その匂いは潮風にすぐほどけていった。


 結の目の前で、若き航海士の海斗が激しく肩を揺らしていた。


 その手には、国鉄の青い作業服が握られている。


 何度も洗われ、潮を吸い、袖口は少し色が抜けていた。


 海斗が、その青い服に袖を通した頃のことを、結は覚えていた。


 あの日、海斗は何でもない顔をしようとしていた。


 けれど、襟元を何度も指で直し、袖を通した腕を不自然に伸ばしていた。


 照れくさそうに笑いながら、「似合いますかね」とだけ言った。


 その青は、海で生きていくための色だった。


 少なくとも、その時の海斗にはそう見えていた。


 今、その青い布は、彼の拳の中でねじれていた。


「俺たちは逃げてないんですよ」


 海斗の拳が震えた。


「嵐の日だって戻した」


「船を捨てなかった」


「なのに……」


 そこで言葉が詰まる。


 握りしめた青い制服だけが、ぎしりと音を立てた。


 結は、何も言えなかった。


 その怒りが、石山に向けられるものではないことを分かっていた。


 真壁一人にぶつけられるものでもない。


 橋を造る人間たちも、船を動かす人間たちも、それぞれの場所で逃げていなかった。


 それなのに、紙の上では片方が削られていく。


 海斗は制服を胸元に押しつけた。


 青い布に、彼の指の跡が残っていた。


 結は何も言わなかった。


 言葉にしてしまえば、少しだけ軽くなる気がした。



「次の便の、燃料の確認をしとけ」


 操舵室の薄暗がりのなかで、岩崎の声が響いた。


 岩崎は怒鳴らなかった。


 海斗の言葉を否定することも、慰めることもしなかった。


 ただ淡々と、いつもと同じように計器を点検し、次の運航の準備を続けている。


 机の上には、運航日誌が開かれていた。


 風向き。


 波の高さ。


 到着時刻。


 欠けた文字も、乱れた線もない。


 岩崎は、ゆっくりと鉛筆を走らせる。


 その横顔に、悔しさは見えなかった。


 怒りも見えなかった。


 けれど、平気なはずがなかった。


 この船は、岩崎の人生そのものだった。


 何十年も海を睨み、風を読み、乗客を運んできた。


 その船の便が減る。


 船員の居場所が減る。


 その事実を前にしても、岩崎の鉛筆は止まらなかった。


 船長が揺れれば、船員が揺れる。


 だから、揺れないだけだった。


 やがて岩崎は鉛筆を置いた。


 運航日誌を閉じる。


 窓の外には、夜の海が広がっている。


 何も変わらない顔だった。


 岩崎は窓の外の海を見た。


「時間や」


 短く言った。


 海斗は青い制服を握ったまま、唇を噛んだ。


 それでも、足は動いた。



 深夜、岩崎家の結の自室。


 小さな卓上ライトだけが、開かれた日誌の白いページを照らしている。


 結は万年筆を握り、机に向かっていた。


 橋は必要だ。


 しかし、船も間違いなく必要だった。


 どちらの痛みも、どちらの正しさも、結には否定することができなかった。


 だから、書いた。


 余計な言葉を足さずに。


 今日、見たものだけを。


 浜村班長。


 石山主任技師。


 真壁英二。


 高橋海斗。


 その横に、短い事実だけを置いていく。


 泥を洗う手。


 破れた図面。


 乾いた通達。


 青い制服。


 運航日誌。


 そこで万年筆が止まった。


 父。


 結は、その文字をしばらく見つめていた。


 袖で目元を押さえる。


 涙ではなかった。


 そう思いたかった。


 窓の外から、波の音が聞こえた。


 橋ができた先のことは、まだ分からない。


 誰が残り。


 誰が去り。


 何が失われるのかも分からない。


 それでも今日という日は確かにあった。


 結はもう一度、白いページへ視線を戻した。


 そして、何も書かなかった。


 ページを閉じることもしなかった。


 その夜も、波の音だけが続いていた。

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