第十二話 青い制服の絶望
1
大型台風が去った港には、容赦のない西日が照りつけていた。
プレハブ詰所の中は、逃げ場のない熱気が重くこもっている。
現場は動き出していた。
浜村たち作業員は無言のままクレーンの点検をし、泥をかぶった機材をホースの水で洗い流している。
誰も「再開しよう」とは口にしなかった。
けれど、手は確実に動いていた。
詰所の机で、石山もまた無言のまま指先を動かしていた。
広げられているのは、海水で引き裂かれた図面だった。
石山はセロハンテープを引き出し、破れた箇所を一枚一枚、静かに繋ぎ合わせていく。
テープの透明な帯が、青図の裂け目をまたいで貼られていく。
ずれた線は、完全には戻らない。
それでも石山は、指で上から押さえた。
泥を掴んだときの汚れが、彼の爪の奥をまだ黒く染めたままだった。
外では、浜村たちが流された足場の残骸を選別していた。
曲がった鉄材。
泥を噛んだワイヤー。
海水を吸って重くなった木板。
浜村がホースの水を止め、一本の鉄材を持ち上げた。
「ここ、まだ使えます」
別の作業員が、無言で頷いた。
「なら残せ」
それだけだった。
壊れたものを捨てるのではなく、残せるものを探していく。
それが、この日の現場のすべてだった。
足元の泥だけは、なかなか落ちなかった。
2
詰所の片隅で、真壁は一枚の書類を見つめていた。
国鉄本局から届いたばかりの公文書だった。
そこには「宇高連絡船の深夜便削減」および「人員配置の見直し」の文字が並んでいる。
真壁は書類を裏返した。
もう一度、表へ戻す。
何も変わらない。
乾いた紙の上に、均一な活字だけが並んでいた。
あの嵐の日、彼の手の中で安全基準書は濡れて読めなくなった。
だが、この紙は濡れていない。
破れてもいない。
泥もついていない。
だからこそ、ひどく遠かった。
真壁は、しばらくその紙を見つめていた。
やがて、折り目をつけないように机の上へ置いた。
机の向こうでは、石山が破れた図面を繋いでいる。
こちらの紙は乾いている。
あちらの紙は海水で歪んでいる。
同じ紙なのに、まるで別のものだった。
真壁は書類の端に指を置いた。
深夜便削減。
人員配置の見直し。
それは整った言葉だった。
だが、その言葉の向こうに、真壁は連絡船の甲板を思い出していた。
黒い雨の中で揺れていた巨体。
舫い綱を引く船員。
誰に褒められることもなく、次の便の準備へ移っていく岩崎の背中。
真壁は、書類から手を離した。
紙は、乾いたままだった。
誰かは繋ごうとしている。
誰かは削ろうとしている。
真壁は、その間に座っていた。
3
夜の桟橋は、潮風が冷たかった。
暗闇の中で、波の音だけが規則正しく響いている。
売店の灯りはついていたが、人の声は少ない。
売店の鍋からは湯気が上がっていた。
けれど、その匂いは潮風にすぐほどけていった。
結の目の前で、若き航海士の海斗が激しく肩を揺らしていた。
その手には、国鉄の青い作業服が握られている。
何度も洗われ、潮を吸い、袖口は少し色が抜けていた。
海斗が、その青い服に袖を通した頃のことを、結は覚えていた。
あの日、海斗は何でもない顔をしようとしていた。
けれど、襟元を何度も指で直し、袖を通した腕を不自然に伸ばしていた。
照れくさそうに笑いながら、「似合いますかね」とだけ言った。
その青は、海で生きていくための色だった。
少なくとも、その時の海斗にはそう見えていた。
今、その青い布は、彼の拳の中でねじれていた。
「俺たちは逃げてないんですよ」
海斗の拳が震えた。
「嵐の日だって戻した」
「船を捨てなかった」
「なのに……」
そこで言葉が詰まる。
握りしめた青い制服だけが、ぎしりと音を立てた。
結は、何も言えなかった。
その怒りが、石山に向けられるものではないことを分かっていた。
真壁一人にぶつけられるものでもない。
橋を造る人間たちも、船を動かす人間たちも、それぞれの場所で逃げていなかった。
それなのに、紙の上では片方が削られていく。
海斗は制服を胸元に押しつけた。
青い布に、彼の指の跡が残っていた。
結は何も言わなかった。
言葉にしてしまえば、少しだけ軽くなる気がした。
4
「次の便の、燃料の確認をしとけ」
操舵室の薄暗がりのなかで、岩崎の声が響いた。
岩崎は怒鳴らなかった。
海斗の言葉を否定することも、慰めることもしなかった。
ただ淡々と、いつもと同じように計器を点検し、次の運航の準備を続けている。
机の上には、運航日誌が開かれていた。
風向き。
波の高さ。
到着時刻。
欠けた文字も、乱れた線もない。
岩崎は、ゆっくりと鉛筆を走らせる。
その横顔に、悔しさは見えなかった。
怒りも見えなかった。
けれど、平気なはずがなかった。
この船は、岩崎の人生そのものだった。
何十年も海を睨み、風を読み、乗客を運んできた。
その船の便が減る。
船員の居場所が減る。
その事実を前にしても、岩崎の鉛筆は止まらなかった。
船長が揺れれば、船員が揺れる。
だから、揺れないだけだった。
やがて岩崎は鉛筆を置いた。
運航日誌を閉じる。
窓の外には、夜の海が広がっている。
何も変わらない顔だった。
岩崎は窓の外の海を見た。
「時間や」
短く言った。
海斗は青い制服を握ったまま、唇を噛んだ。
それでも、足は動いた。
5
深夜、岩崎家の結の自室。
小さな卓上ライトだけが、開かれた日誌の白いページを照らしている。
結は万年筆を握り、机に向かっていた。
橋は必要だ。
しかし、船も間違いなく必要だった。
どちらの痛みも、どちらの正しさも、結には否定することができなかった。
だから、書いた。
余計な言葉を足さずに。
今日、見たものだけを。
浜村班長。
石山主任技師。
真壁英二。
高橋海斗。
その横に、短い事実だけを置いていく。
泥を洗う手。
破れた図面。
乾いた通達。
青い制服。
運航日誌。
そこで万年筆が止まった。
父。
結は、その文字をしばらく見つめていた。
袖で目元を押さえる。
涙ではなかった。
そう思いたかった。
窓の外から、波の音が聞こえた。
橋ができた先のことは、まだ分からない。
誰が残り。
誰が去り。
何が失われるのかも分からない。
それでも今日という日は確かにあった。
結はもう一度、白いページへ視線を戻した。
そして、何も書かなかった。
ページを閉じることもしなかった。
その夜も、波の音だけが続いていた。




