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第十一話 海はそういうもんだ


 大型台風が通過したあとも、瀬戸内の雨は優しくならなかった。


 すべての作業が停止した港には、叩きつける雨音だけが異常な音量で満ちていた。プレハブ詰所の脇、水たまりが濁った泥水に変わっていく地面に、石山は片膝をついたまま動けずにいた。


 カッパの隙間から雨が入り込み、作業ズボンを重く濡らしていく。


 それでも石山は、動かなかった。


 視線は、自分の手に落ちていた。


 崩れ落ちる足場へ向かおうとして、浜村に「行くな!」と引き留められた手だった。


 まだ、その感触が残っている。


 あれは、止める手だった。


 これ以上、何も失わせないための手だった。


 拳は固く握られたまま開かない。


 海底に沈んだ三ヶ月分の鉄骨の重さが、まだ指先に残っている気がした。


 基準は満たしていた。


 数字も確認していた。


 現場も、自分を信じて潜った。


 誰も無理だとは言わなかった。


 誰も間違った手順を踏んではいなかった。


 それでも、海は持っていった。


 その事実だけが、石山の身体を泥の上へ縫い付けていた。



 白く煙る雨の向こうから、低い音が響いた。


 ――ボォォォ――。


 霧笛だった。


 黒く荒れた海に船体を激しく揺さぶられながら、一隻の巨大な影がゆっくりと岸壁へ近づいてくる。


 岩崎船長が舵を握る、宇高連絡船だった。


 それは、嵐に勝った船の姿ではなかった。


 波に揉まれ、船体をきしませ、容赦なく海水を浴びながら、それでもどうにか岸壁へ戻ってきた船だった。


 海にしがみつくようにして、いつもの位置へ滑り込んでくる。


 舫い綱が投げられた。


 雨に濡れた船員が、声を張り上げながらそれを受け取る。岸壁の男たちが、無言でロープを引いた。


 船体が、ぎしりと音を立てて岸壁へ寄る。


 重い音を立ててタラップが下ろされた。


 雨に濡れた乗客たちが、次々と岸壁へ降りていく。


「今日は遅れたな」


「仕方ないですよ、この天気じゃ」


「風がひどかった」


「それでも着いたんだから十分だ」


 誰も足を止めなかった。


 濡れた鞄を抱え、それぞれの家へ急いでいく。


 岩崎もまた、それを気にする様子はなかった。


 甲板で短い指示を出し終えた岩崎が、ゆっくりとタラップを降りて岸壁に立った。


 黄色い雨合羽。


 ポケットの奥に突っ込まれた、不自由な左腕。


 雨粒が帽子のつばから落ち、頬を伝った。


 岩崎は、泥の上に座り込む石山を見つけると、無言のまま近づいてきた。



 石山のすぐ前で、泥に汚れた長靴が止まった。


 岩崎は何も言わなかった。


 叱らない。


 慰めない。


 ただ、泥水の跳ねる地面に、石山と同じ目線になるまで腰を落とした。


 岩崎の右手が動いた。


 何十年も瀬戸内の海で舵を握り続けてきた、分厚く、硬く、傷だらけの右手だった。


 その手が、石山の固く強張った右手を、上から静かに掴んだ。


 乱暴ではなかった。


 けれど、絶対に拒ませない質量があった。


「基準は満たしていた。……現場も、俺を信じて潜った」


 石山は、地を這うような声で言った。


「知っとる」


 岩崎は短く答えた。


「三ヶ月かけた。なのに、何も残らなかった」


「知っとる」


 雨が二人のカッパを叩いていた。


 石山は、握られた右手を見つめたまま、喉の奥を震わせた。


「……俺は、何を立てさせてたんでしょうね」


 岩崎は、すぐには答えなかった。


 ただ、石山の右手を掴んだまま、昏い海を見つめていた。


 連絡船の船体が、岸壁に繋がれたまま、小さく軋んだ。


「知らん」


 短い言葉だった。


 意味づけもしない。


 慰めもしない。


 ただの事実として、その言葉は雨の中へ落ちた。


 石山は、きつく唇を噛んだ。


 岩崎は続けた。


「それでも、また掘るんやろ」


 石山は答えなかった。


 答えられなかった。


 容赦なく体温を奪う雨の中で、岩崎の手の熱だけが、驚くほどはっきりと伝わっていた。


「なら、立てるか」



 詰所の影に、結が立っていた。


 傘も差さず、雨に濡れたまま、泥の中の石山と、その手を掴む父を見つめている。


 橋を造る側の絶望も。


 海から戻ってきた父の言葉の重さも。


 どちらも結の胸に冷たく突き刺さっていた。


 その少し後ろで、真壁が黒い傘を差したまま立っていた。


 スーツの裾は泥に汚れ、カッパのポケットには、雨に濡れて読めなくなった白い安全基準書がねじ込まれたままだった。


 真壁は、老船長の背中を見ていた。


 その向こうには、激しい波に揺さぶられながらも、なお岸壁に繋がれている連絡船があった。


 完璧な数字も。


 確率論も。


 本局の確認印も。


 黒い海の前では、ただ濡れて読めない紙だった。


 だが、あの船は確かにそこにあった。


 海に勝ったのではない。


 ただ、何度も揺さぶられ、何度も裏切られながら、それでも戻ってきた。


 そして誰かに褒められることもなく、当たり前のように、次の支度へ移っていく。


 真壁は、その冷厳な事実から目を離せなかった。



 岩崎は「なら、立てるか」と言ったあと、石山の返事を待たずに、すっと右手を離した。


 そして、ゆっくりと立ち上がる。


 一度も振り返らず、再び連絡船の方へ戻っていった。


 泥の上に、石山が一人残された。


 父は答えをくれなかった。


 海が何なのかも。


 自分たちが何を立てていたのかも。


 何一つ教えてはくれなかった。


 ただ、「また掘るのだろう」という事実だけを置いていった。


 石山は、ゆっくりと右手の指をひらいた。


 強張りが、わずかに緩む。


 五本の指で、冷たい泥を強く掴んだ。


 泥は冷たかった。


 指の間に入り込み、爪の奥まで黒く染みていく。


 誰の手も借りなかった。


 誰の肩も借りなかった。


 石山は、自分の体重を、濡れた安全靴の底へと移していく。


 グズリ、と泥が小さく音を立てた。


 石山は、ゆっくりと立ち上がった。


 雨の向こう。


 半分だけ残された鉄骨が、黒い海の上で、へし折られたまま立っていた。


 石山はそれを見た。


 何も言わなかった。

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