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第十話 基準の外


 気象図の上で、その渦は確かに瀬戸内海を外れる軌道を描いていた。


 本局から送られてきた最新の気象資料、気圧配置図、過去三十年の統計データ。現場詰所の木製机に広げられたそれらの書類を、石山は何度も指でなぞっていた。真壁もまた、その横で腕を組み、数値を追っていた。


 第三工区では、海底岩盤の確認と橋脚基礎の掘削が続いていた。


 潮が変われば作業船は動けない。潜水夫も下ろせない。鉄を沈める順番も、コンクリートを流す日取りも、すべて後ろへずれていく。


 一日止まれば、一日遅れるだけでは済まない。


 後ろの工程が、雪崩のように崩れていく。


 風速、潮流の予測値、波高。どれ一つとして、国鉄が定めた施工中止基準の線には達していない。


「許容内だな」


 真壁の声には、揺らぎがなかった。


 石山は答えなかった。ただ、短くなった鉛筆を握り直し、作業日誌の「続行」の欄に小さく印をつけようとした。


 その時だった。


 詰所の引き戸が、乱暴に開いた。


 雨を吸った油カッパの男が、濡れた長靴のまま中へ踏み込んでくる。浜村班長だった。現場の作業員たちを束ねる男で、石山よりも海に近い場所で、毎日鉄と泥にまみれている。


 肩から落ちた雨水が、床に黒い点を作った。


「石山さん」


 浜村は、息を整える間もなく言った。


「橋そのものが凍結になるって話、本当なんですか」


 詰所の空気が止まった。真壁が静かに顔を上げる。石山は鉛筆を握ったまま、浜村を見た。


「まだ決まったわけじゃない」


「現場じゃ、その話で持ちきりですよ」


 浜村の声は荒れていなかった。けれど、濡れたカッパの奥で、肩がわずかに上下していた。


「みんな、今さら何だって言ってます」


 詰所の外で、誰かが咳をした。誰かがヘルメットの顎紐を締め直している音がした。誰かが、何も言わずに海の方を見ている気配があった。


 浜村は、その全員の顔を知っていた。酒に弱く、すぐ顔を赤くする若い作業員。来月、子どもが生まれる男。昨日、破れた手袋を黙って縫っていた年配の潜水夫。


 その全員が、ここまでこの橋のために海へ出てきた。


「俺たち、何度この海に出てきたと思ってるんです」


 浜村は、真壁ではなく石山を見ていた。


「測量もやった。海底も掘った。杭も打った。やっと橋の形が見え始めたんです」


 濡れたヘルメットを握る手に力が入った。


「それを今さら止めるなんて話、現場は飲み込めません」


 石山は黙っていた。


 浜村は続けた。


「家に帰れない日もあった。台風の日も潜った。冬の海に腰まで浸かって、手の感覚がなくなっても鉄を支えた」


 そこで初めて、浜村は真壁の方を見た。


「それでもやってきたんです」


 真壁は答えなかった。浜村の濡れた袖口から、ぽたぽたと水が落ちている。


「真壁さん」


 浜村は低く言った。


「俺、あんたのことを嫌いだと言いたいわけじゃないです」


 真壁の眉が、わずかに動いた。


「数字で戦ってくれてるのも知ってます。こっちのために削れるところを削ってくれたのも、現場は見てます」


 浜村は、濡れた手でヘルメットを握りしめた。


「でも、現場は数字だけじゃ動かないんです」


 詰所の中に、雨の音だけが残った。


 石山は机の上の気象図へ目を落とした。風速、波高、潮流。どれも中止基準には届いていない。止める理由は、書類の上にはなかった。


 浜村は、濡れたヘルメットを握り直した。


「石山さん」


 石山は顔を上げなかった。


「あんたも、続けたいんでしょう」


 一拍。


「中止基準は出てない」


 石山は、その一言だけ言った。


 机の上の気象図だけが、風に震えていた。


 浜村はしばらく石山を見ていた。


「……分かりました」


 それだけを言うと、浜村は踵を返した。


 引き戸が閉まる直前、外の風が一気に吹き込み、机の上の気象図を震わせた。石山はしばらくその紙を見つめていた。


 それから、作業日誌の「続行」の欄に、小さく印をつけた。



 仮設足場の上から見る瀬戸内海は、数日前までの姿を完全に消し去っていた。


 島々の輪郭は厚い雨雲に遮られて見えず、視界のすべてが重い灰色に塗り潰されている。押し寄せる波は、もはや白く砕けることさえしなかった。うねりは巨大な塊となって押し寄せ、足場を支える鉄骨の隙間を抜けるたびに、低く地響きのような音を立てた。


 海が、黒かった。


 光を撥ね返さない、重い黒だった。


 作業員たちは無言に近かった。声を掛け合ってはいる。だが、それは会話ではなく、合図だった。ロープ、足場、波。次に動くべきものだけを短く確認し、それ以外の言葉は雨と風に持っていかれていた。


 浜村は足場の端に立ち、海を見ていた。手には太いロープを握っている。彼の視線は、石山にも、真壁にも向けられていなかった。ただ、黒い海だけを見ていた。


「今日は、海が黙ってない」


 誰に言ったのか分からないほど低い声だった。


 真壁は石山の数歩後ろで、手すりを片手で掴んで立っていた。紺のスーツの上から借り物の黄色いカッパを羽織った彼の顔には、横殴りの雨が叩きつけている。


 石山は何も言わなかった。ただ、足場の端と、海と、作業員たちの位置を順番に見ていた。


 風が、変わった。


 最初に気づいたのは浜村だった。次に石山が顔を上げた。真壁は少し遅れて、その変化を肌で知った。


 突風が防波堤を越え、仮設足場の全体を大きく揺らした。それは資料には記されていない、島と島の間で急に形を変えた風だった。



 真壁は、カッパの内側から一枚の書類を取り出した。


 本局の安全基準が記された、厚手の白い紙だった。だが、開いた瞬間、横殴りの雨が容赦なく紙面を叩いた。


 整然と並んでいた数字。確率論に基づいた計算式。本局の確認印。その上を、雨水が走っていく。


 文字は消えなかった。だが、読めなかった。


 濡れた紙は指先に張りつき、角から重く垂れ下がった。真壁は、しばらくそれを見つめていた。


 その背後で、鉄骨が低く鳴った。


 一度目は、風の音に紛れるほど小さかった。二度目は、足元から響いた。


 浜村が叫んだ。言葉は雨に潰されて聞こえなかった。ただ、彼の口の形だけが大きく開いていた。


 石山が動いた。


 真壁はゆっくりと手を下ろした。濡れた書類は、彼の指から離れることなく、水を吸って重く垂れ下がっていた。



 次の瞬間、耳を裂くような音が響いた。


 重機のエンジン音でも、波の音でもなかった。何十本もの巨大な鉄骨が、同時にねじ切られるような、高い金属の悲鳴だった。


 石山が一歩を踏み出すより早く、前方の視界が大きく歪んだ。


 海底に打ち込まれていた巨大な橋脚足場の中央部が、黒い波の直撃を受けて、不自然に折れ曲がった。完璧に計算され、基準を満たしていたはずの強度が、自然の質量を前にして、細い針金のようにへし折られていく。


 怒鳴り声すら、風にかき消された。


 浜村が、誰かの腕を掴んだ。別の作業員がロープにしがみつきながら、岩盤の方へ転がるように逃げた。


 石山は、足場の端へ向かおうとした。その腕を、浜村が掴んだ。


「行くな!」


 今度は聞こえた。雨と風の中でも、その声だけは石山の耳に届いた。


「もう足場じゃない!」


 石山は振りほどかなかった。ただ、黒い海の中へ折れていく鉄を見ていた。


 真壁もまた、動けなかった。手にした書類から雨水が滴り落ち、黄色いカッパの裾へ染みていく。さっきまで読めていた数字は、もうただの濡れた紙だった。


 死者は出なかった。


 それだけが、かろうじて現場に残された救いだった。


 金属が引き裂かれる鈍い音がもう一度鳴る。へし折られた足場の半分が、黒い濁流の中へと沈んでいった。渦を巻く海面は、一瞬だけ白い泡を立てた。すぐに元の暗い黒へ戻り、すべてを隠した。



 雨は、まだ降り続いていた。


 プレハブ詰所の前に、石山と真壁と浜村が立っていた。


 カッパを伝う雨水が、三人の足元に小さな水たまりを作っている。


 目の前には、半分だけ残された鉄骨の残骸があった。その向こうに、黒い海が広がっていた。


 浜村は、しばらく黙っていた。濡れたヘルメットを右手で握りしめている。


「……あれ」


 黒い海の先に沈んだ足場を見た。


「俺たちで立てた足場なんですよ」


 石山は答えなかった。


「三ヶ月かかったんです」


 雨が、残った鉄骨を叩いていた。


 三ヶ月分の手の痛みも、眠れなかった夜も、黒い海の底へ沈んでいた。


「……俺たち、何を立ててたんですかね」


 真壁も、何も言わなかった。


 基準は満たしていた。


 数字も確認していた。


 判断は、書類の上では正しかった。


 それでも、海は持っていった。


 雨の音だけが、三人の間で鳴り続けていた。

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