第九話 現場の血
1
朝の推進室には、まだ夜の冷気が薄く残っていた。
真壁はいつものように、始業の三十分前には席についていた。仕立ての良い紺のスーツのボタンを正しく留め、背筋を伸ばした彼の姿は、地方の出先機関にはいささか不釣り合いなほど端正だった。
彼の前には、結が昨夜のうちに整理し、机上に置いた議事録の束があった。
タイピストが叩いたカーボン紙の文字は、一字の歪みもなく整然と並んでいる。大蔵省主計局・宗像の発言、国鉄が抱える長期債務の正確な億単位の数字、全面凍結という決定に付随する条項。真壁は細い指先でページの端をめくりながら、その無機質な数字の羅列を冷徹に追っていた。これらはすべて、真壁が本局で扱い慣れてきた「正しい書類」の形をしていた。
しかし、最後のページに差し掛かったとき、彼の指が不自然に止まった。
白い紙の右端、公的なタイプ文字が途切れたその余白に、鈍い黒色の筋が走っていた。
それは、短くなった鉛筆で、紙の裏に抜けるほど強く書き付けられた歪な文字だった。
『今じゃなくていい。俺らが生きてる間じゃなくてもいい。けど、いつか誰かがこの道を渡って、助かったと思う日が来る。その時のために、俺は今日もここを掘ってます』
真壁の職業意識からすれば、それは明らかな「異常」だった。
公文書における私的なメモ、あるいは感情的な雑音。上司へ提出する書類としては、一瞥して撥ね付けるべき代物であり、消しゴムで跡形もなく消し去るか、作成者に最初から書き直させるのが当然の処理だった。
真壁は右手にシャープペンシルを握ったまま、その黒い文字をじっと見つめ続けた。
彼の指先が、シャープペンシルの頭部にある小さな消しゴムのキャップへと動く。それを外し、紙面に押し当てようとした、その刹那、彼の動きが止まった。
かすかな衣擦れの音がして、結が真壁の机の端に、湯呑みを静かに置いた。真壁は顔を上げなかった。結もまた、何も言わなかった。
真壁の指先が、消しゴムから離れた。彼はシャープペンシルを机に置くと、まだインクの匂いが残る議事録をゆっくりと閉じ、黒い革の鞄へ収めた。
「……確認してくる」
低く、抑えられた声だった。
それだけを言い残して椅子を引いた真壁の背中に、結は言葉をかけず、ただその静かな退室を見送った。杉の床板が、彼の足音を一度だけ小さく響かせた。
2
離島の掘削現場へと向かう臨航船のデッキは、本局の冷暖房が行き届いた事務室とは、完全に断絶された世界だった。
真壁は紺のスーツの襟を立て、船のへりにある鉄製のフェンスに両手を置いていた。内海の島陰を抜けた瞬間、船体が大きく傾ぎ、押し寄せる濁った波頭が激しく舷側を叩いた。霧のように細かい潮飛沫が吹き付け、彼の端正な横顔を容赦なく濡らしていく。
鼻をついたのは、重油と錆びた鉄の混ざり合った、泥臭い匂いだった。海から吹き上げる容赦のない風がネクタイを激しく跳ね上げ、ウールの生地を何度もバタバタと叩いた。
真壁はポケットから白いハンカチを取り出し、眼鏡を外してレンズを拭った。しかし、一度顔に戻せば、数秒もしないうちに細かな塩の結晶がガラスの表面に付着し、視界を白く曇らせていく。彼は何度かそれを繰り返したあと、諦めたようにハンカチをポケットにねじ込んだ。
濡れた眼鏡のまま、海を見た。
船体が、大きく揺れた。
真壁の眉間に、小さな、しかし深い皺が刻まれていく。
3
離島の仮設足場に降り立った瞬間、真壁の耳は、引き裂くような金属の悲鳴によって満たされた。
海底を穿つ大型掘削機の重低音が、島の岩盤を伝って足元を激しく揺らしている。巻き上がった赤土と海水が混ざり合い、雨のように周囲に降り注いでいた。至近距離にいる作業員たちの会話すら、喉を裏返したような怒鳴り声でなければ、地響きにかき消されて届かない。
仕立ての良いスーツを着た真壁の姿は、その泥と油の世界の中で、滑稽なほどに浮き上がっていた。だが、作業服に身を包んだ男たちの誰一人として、彼に目を留める者はなかった。
真壁の視線は、一人の作業員の手に止まった。
腰まで濁った海水に濡れながら、激しい潮流に足元をすくわれそうになりながらも、巨大な鉄パイプを肩で支え続ける男。防寒用の分厚いゴム手袋をはめているはずの、その指先は、寒さと強張りによって赤黒く変色していた。
一拍置いて、真壁は目を逸らした。
彼が持ってきた数式には、その赤さが算入される余地などどこにもなかった。その事実の前に、真壁はただ立ち尽くした。
4
足場の最奥に建てられた、錆びたトタンのプレハブ詰所。
真壁が引き戸を開けると、中には小さな石油ストーブの熱気と、濡れたカッパが乾く特有の嫌な匂いが充満していた。
部屋の中央にある不格好な木製の机に、石山主任技師が覆いかぶさるようにして座っていた。彼は戸が開いた音で真壁が来たことに気づいたようだったが、顔を上げようとはしなかった。
石山の前には、あの海水で波打ち、昨日彼が推進室の机の上で不器用に向き合っていた、古い青図が広げられていた。
石山は、太く、硬い人差し指を、図面の一点に無骨に突き立てた。
「ここだ」
真壁は、沈黙した。石山の指先は、爪の隙間まで真っ黒な重油の汚れが染み込み、皮膚の皺が硬化している。
「……」
「第三工区」
石山は図面の端を無骨な手で押さえた。海水で波打った紙が、少しだけ平らになった。
真壁は何も答えなかった。石山もまた、それ以上は何も語らなかった。
外で、重い鉄がぶつかり合う鈍い音が鳴った。プレハブの薄い窓ガラスが、その振動でガタガタと短く震えた。
5
夕刻、推進室。
結は一人、薄暗くなり始めた事務室で、静かに残務処理を進めていた。長机の上に置かれた真壁の席は、朝のまま何も変わっていない。書類も、折れた芯の破片も、すべてが真壁の去った時の位置を保っていた。
不意に、戸口の真鍮のノブが重く回り、真壁が戻ってきた。
彼はいつも通り、衣服の乱れを直した端正な姿のままだった。疲れた顔を見せることも、大きなため息をつくこともない。彼は無言のまま、いつもの椅子を引き、ただ黙って座った。
結は何も尋ねなかった。真壁も、何も話さなかった。
結は、ただ静かに彼の足元へ視線を落とした。
朝、鏡のように完璧に磨き上げられていた真壁の黒い本革靴。それは今、波飛沫の白い塩をかぶり、離島の赤土と乾いた泥によって、黒く汚れていた。泥の重みによって、革の端がわずかに押し潰され、歪んでいる。
真壁は、その汚れた靴を隠そうともしなかった。ただじっと、誰もいない暗い空間を見つめていた。
結もまた、何も書かなかった。
遠くで、連絡船の汽笛が鳴った。
汚れた靴だけが、机の下に残っていた。




