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終章(エピローグ) 橋の上の音


 結ばあちゃんが倒れた、と母から聞いたのは、夏休みの昼過ぎだった。


 リビングでは、エアコンの冷たい風が天井近くで静かに回っている。


 テレビでは昼の情報番組が流れていたが、誰も見ていなかった。


 母は電話を切ったあと、しばらくスマホの画面を見つめていた。


「結ばあちゃん、倒れたみたい」


「え?」


 たけしは、リビングの床に寝転がったまま顔を上げた。


「大丈夫なの?」


「命に別状はないって。でも、少し顔を見せてあげたいの」


 母は一度息を吐いた。


「たけし、お見舞いに行ってきてくれない?」


「え、俺が?」


「結ばあちゃん、たけしが来たら喜ぶと思うし」


「明日、電車で行ってきて。お母さん、仕事休めないから」


「えー……夏休み、予定あるんだけど」


「予定って、ゲームでしょ」


 たけしは黙った。


 母はため息をつき、それから少しだけ声を低くした。


「行ってくれたら、あの新作、考えてもいいけど」


「……」


 たけしの指が止まった。


 新作。


 母はいない。


 移動中も、向こうでも、かなり自由。


 ほぼ、やり放題。


「……結ばあちゃん、心配だし。行くよ」


 母は何も言わず、切符の入った封筒をテーブルの上に置いた。



 翌朝。


 たけしは一人で列車に乗った。


 リュックの中には、着替えと、母に持たされた見舞いの菓子折りと、財布が入っている。


 スマホはある。


 でも、母に持たされた見守り用のやつだ。


 ゲームもできない。


 動画も見られない。


 そして肝心のゲーム機は、家のソファの上に置きっぱなしだった。


 駅のホームで気づいたときには、もう母に連絡する気にもなれなかった。


「最悪……」


 たけしは座席に沈み込み、リュックを膝の上に抱えた。


 いつもなら、四国へ行くときは親の車だった。


 後部座席でゲームをして、飽きたら寝る。


 窓の外なんて、ほとんど見たことがない。


 橋を渡っていると言われても、ふうん、としか思わなかった。


 今回の楽しみは、讃岐うどんだけだった。


 駅に着いたら、母が調べてくれた店に行く。


 冷たいぶっかけ。


 天ぷら。


 できれば、ちくわ。


 たけしはそれだけを考えながら、窓際の座席で頬杖をついた。


 車内は静かだった。


 適度に冷やされた微かな空調の音だけが、密閉された空間に満ちている。


 通路を挟んだ向こう側では、背広を着た男が静かに新聞をめくっていた。


 カサリ、と乾いた紙の音が時折響く。


 前方では数人の乗客が、背もたれに頭を預けて眠っていた。


 揺れはほとんどなかった。



 やがて、窓の外の光が強くなった。


 たけしは何となく顔を上げた。


 朝の光は、海面のすべてを白銀色の破片に変えていた。


 瀬戸内の海は、どこまでも深く、透き通った青色に染まっている。


 風は穏やかだった。


 小さな波頭が陽光を浴びては砕け、きらきらと規則正しいまたたきを繰り返している。


 大小の島々が、青い海の上に静かに浮かんでいた。


 濃い緑をまとった島。


 白い岩肌をのぞかせる島。


 朝もやの向こうで、淡い影のように霞む島。


 そのひとつひとつの間を縫うように、細い航跡が白く伸びていた。


 列車が主塔の横を通過する。


 鋼鉄の太いワイヤーが作る濃い影が、車内を真横から鋭く切り裂いた。


 光と、影。


 光と、影。


 それはストロボの点滅のように、等間隔の時間を刻んで座席の上を、乗客たちの顔の上を、繰り返し通り過ぎていく。


 白い鉄骨の隙間から、青い海が次々と現れては消えていった。


 島が現れる。


 海が現れる。


 また、鉄骨の影が横切る。


 たけしは、いつの間にか頬杖をやめていた。


 窓ガラスに額を近づける。


 冷たいガラスが、肌に触れた。


 目の前いっぱいに、瀬戸内の島々が広がっていた。


 緑の島々。


 白く光る航跡。


 水面に散った、無数の光。


 遠く霞む山並み。


 それらが、ひとつの大きな絵のように、窓の外いっぱいに広がっていた。


 たけしは、うどんのことを忘れていた。


 ゲームのことも、少しだけ忘れていた。



 その子は、かつてこの海に連絡船が走っていたことを知らない。


 この海の上を、重いディーゼル音を響かせた船が、何度も何度も往復していたことを知らない。


 古い展示室のガラスケースの中に、黒ずんだ真鍮のボタンと、閉じられた日誌が眠っていることも知らない。


 それでも、窓の外に広がる青い海から、目を離せなくなっていた。


 海はどこまでも青かった。


 橋は、その景色を結ぶように、当たり前の顔で海を跨いでいた。


 列車は進む。


 速度を落とすことなく、迷うことなく、四国へ向かって。


 白い鉄骨の隙間から、光る海が現れては消えていく。


 青い海。


 緑の島。


 白い航跡。


 また、青い海。


 たけしは、窓の外を見ていた。


 ゴトン。


 ゴトン。


 ゴトン。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


橋は、人と人を繋ぐものです。


そして物語もまた、時代や場所を越えて、人の想いを繋ぐものだと思っています。


この作品が、皆さまの心に少しでも残る橋になれたなら幸いです。


面白かったと思っていただけましたら、いいねやブックマークをいただけると嬉しいです。

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