終章(エピローグ) 橋の上の音
1
結ばあちゃんが倒れた、と母から聞いたのは、夏休みの昼過ぎだった。
リビングでは、エアコンの冷たい風が天井近くで静かに回っている。
テレビでは昼の情報番組が流れていたが、誰も見ていなかった。
母は電話を切ったあと、しばらくスマホの画面を見つめていた。
「結ばあちゃん、倒れたみたい」
「え?」
たけしは、リビングの床に寝転がったまま顔を上げた。
「大丈夫なの?」
「命に別状はないって。でも、少し顔を見せてあげたいの」
母は一度息を吐いた。
「たけし、お見舞いに行ってきてくれない?」
「え、俺が?」
「結ばあちゃん、たけしが来たら喜ぶと思うし」
「明日、電車で行ってきて。お母さん、仕事休めないから」
「えー……夏休み、予定あるんだけど」
「予定って、ゲームでしょ」
たけしは黙った。
母はため息をつき、それから少しだけ声を低くした。
「行ってくれたら、あの新作、考えてもいいけど」
「……」
たけしの指が止まった。
新作。
母はいない。
移動中も、向こうでも、かなり自由。
ほぼ、やり放題。
「……結ばあちゃん、心配だし。行くよ」
母は何も言わず、切符の入った封筒をテーブルの上に置いた。
2
翌朝。
たけしは一人で列車に乗った。
リュックの中には、着替えと、母に持たされた見舞いの菓子折りと、財布が入っている。
スマホはある。
でも、母に持たされた見守り用のやつだ。
ゲームもできない。
動画も見られない。
そして肝心のゲーム機は、家のソファの上に置きっぱなしだった。
駅のホームで気づいたときには、もう母に連絡する気にもなれなかった。
「最悪……」
たけしは座席に沈み込み、リュックを膝の上に抱えた。
いつもなら、四国へ行くときは親の車だった。
後部座席でゲームをして、飽きたら寝る。
窓の外なんて、ほとんど見たことがない。
橋を渡っていると言われても、ふうん、としか思わなかった。
今回の楽しみは、讃岐うどんだけだった。
駅に着いたら、母が調べてくれた店に行く。
冷たいぶっかけ。
天ぷら。
できれば、ちくわ。
たけしはそれだけを考えながら、窓際の座席で頬杖をついた。
車内は静かだった。
適度に冷やされた微かな空調の音だけが、密閉された空間に満ちている。
通路を挟んだ向こう側では、背広を着た男が静かに新聞をめくっていた。
カサリ、と乾いた紙の音が時折響く。
前方では数人の乗客が、背もたれに頭を預けて眠っていた。
揺れはほとんどなかった。
3
やがて、窓の外の光が強くなった。
たけしは何となく顔を上げた。
朝の光は、海面のすべてを白銀色の破片に変えていた。
瀬戸内の海は、どこまでも深く、透き通った青色に染まっている。
風は穏やかだった。
小さな波頭が陽光を浴びては砕け、きらきらと規則正しいまたたきを繰り返している。
大小の島々が、青い海の上に静かに浮かんでいた。
濃い緑をまとった島。
白い岩肌をのぞかせる島。
朝もやの向こうで、淡い影のように霞む島。
そのひとつひとつの間を縫うように、細い航跡が白く伸びていた。
列車が主塔の横を通過する。
鋼鉄の太いワイヤーが作る濃い影が、車内を真横から鋭く切り裂いた。
光と、影。
光と、影。
それはストロボの点滅のように、等間隔の時間を刻んで座席の上を、乗客たちの顔の上を、繰り返し通り過ぎていく。
白い鉄骨の隙間から、青い海が次々と現れては消えていった。
島が現れる。
海が現れる。
また、鉄骨の影が横切る。
たけしは、いつの間にか頬杖をやめていた。
窓ガラスに額を近づける。
冷たいガラスが、肌に触れた。
目の前いっぱいに、瀬戸内の島々が広がっていた。
緑の島々。
白く光る航跡。
水面に散った、無数の光。
遠く霞む山並み。
それらが、ひとつの大きな絵のように、窓の外いっぱいに広がっていた。
たけしは、うどんのことを忘れていた。
ゲームのことも、少しだけ忘れていた。
4
その子は、かつてこの海に連絡船が走っていたことを知らない。
この海の上を、重いディーゼル音を響かせた船が、何度も何度も往復していたことを知らない。
古い展示室のガラスケースの中に、黒ずんだ真鍮のボタンと、閉じられた日誌が眠っていることも知らない。
それでも、窓の外に広がる青い海から、目を離せなくなっていた。
海はどこまでも青かった。
橋は、その景色を結ぶように、当たり前の顔で海を跨いでいた。
列車は進む。
速度を落とすことなく、迷うことなく、四国へ向かって。
白い鉄骨の隙間から、光る海が現れては消えていく。
青い海。
緑の島。
白い航跡。
また、青い海。
たけしは、窓の外を見ていた。
ゴトン。
ゴトン。
ゴトン。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
橋は、人と人を繋ぐものです。
そして物語もまた、時代や場所を越えて、人の想いを繋ぐものだと思っています。
この作品が、皆さまの心に少しでも残る橋になれたなら幸いです。
面白かったと思っていただけましたら、いいねやブックマークをいただけると嬉しいです。




