第9話 私から、もう一度
お茶の約束は、雨の午後から一週間後にしていた。その前日に、アドリアンから短い知らせが来た。私の移転先や費用の話には、今後は自分は加わらず、管理人に任せることにしたという。設計について尋ねることはできるが、借りる部屋の相談は管理人へ、と書いてあった。
翌日の午後、彼を迎える前に、その点だけ確かめた。
「家賃や補助も、ほかの方と同じ条件なのね」
「うん。僕と会うことが、そちらへ関わらないようにしたい。管理人にも話してある」
「では、今日はお茶の話をしましょう」
彼の手には図面袋がなかった。私は洗って畳んだ手巾を返し、彼が代わりに差し出した小さな包みを、笑って受け取った。中には林檎の菓子と、胡桃の菓子が二つずつ入っていた。
青い器へ移すと、縁の低いほうで一つが傾いた。私が直すより先に彼が手を出しかけ、止めた。
「落ちそう?」
「ええ。でも、こちらへ置けば大丈夫」
器の向きを変えると、菓子は収まった。私が作ったものだと話すと、彼は底の青を覗き込んだ。もう少し大きければ四つとも楽に置けたのに、と言いかけたが、彼が綺麗な色だと言ったので、少し得意になった。
向かいの椅子へ座る人がいると、いつもの机が小さく見えた。茶を渡すたび、彼の手が近くを通った。
「あの鳥も、あなたが?」
彼が窓辺を見て尋ねた。私は首を振った。
「二羽とも買ったものよ。……以前、結婚するはずだった人と住む家に、置こうと思って」
彼の目が、鳥から私へ戻った。私は茶碗の取っ手に指を掛けたまま、続きを探した。
「婚約は、もう解消したの。けれど、鳥は持ってきたのよ。二羽を離すのは、可哀想な気がして」
言ってから、子供っぽかっただろうかと思った。今ここにいる人へ話すには、余計なことだったかもしれない。彼は少し黙り、それから窓辺へ目を戻した。
「一羽は外で、一羽は部屋の中を見ているんだね」
「そうね。並べた時には、気づかなかったわ」
「何か、見張っているみたいだ」
「あなたが胡桃ばかり取らないかしら」
彼は、まだ一つだよ、と自分の皿を見た。私は笑い、ようやく取っ手から指を離した。
彼が立って窓へ近づいたので、私も隣へ行った。一羽を指しかけた手が私のほうを向き、触ってもいいかと尋ねる。頷くと、彼は鳥を持ち上げ、丸い底を見て元へ戻した。置いた向きは、さっきと同じだった。
お湯を沸かして暑くなったので、窓を少し開けてあった。そこから急に冷たい風が入り、机の布の端が揺れた。
「閉めるわね」
伸ばした私の手に、彼の手が重なった。二人とも同じ掛け金へ触ろうとしていたのだ。彼が手を引こうとしたので、私は先に窓を閉めた。そのまま、引いていく指へ自分の指を掛けた。
彼が私を見た。胸が速く動いて、息を吸う音まで聞かれそうだった。
「もう、夕方だね。今日は帰ろうか」
「まだ、いて」
思っていたより早く声が出た。握っているのが指先だけで心細くなり、手のひらまで触れ直した。彼も私の手を握った。
「お茶を淹れ直す?」
「あとで、いいわ」
私のほうから言ったのに、彼が黙って待っていると困ってしまった。顔を見上げる。笑われてはいなかった。彼の親指が一度だけ私の手の甲を撫で、そこから腕まで熱くなった。
「あなたが好きなの」
言ってしまってから、どうしようと思った。彼の顔が近づいたので、なおさらだった。
「僕も、好きだよ」
「……口づけても、いい?」
最後は小さな声になった。彼は聞き返さずに頷いた。空いている手が私の背へ回り、それでも唇が触れるところまでは来なかった。
私は彼の上着へ手を添え、少し背伸びをした。鼻が触れそうになって慌てて顔を傾けると、唇に柔らかなものが触れた。たったそれだけなのに、手に力が入った。離れた時には、何を見ればよいのか分からなくなっていた。
彼もすぐには何も言わなかった。近くで息をつく音がして、私がその口元を見ていることに気づいたらしく、少し笑った。
「今、笑わないで」
「嬉しくて」
「私も、嬉しいわ」
言葉にすると、私まで笑ってしまった。彼の襟に掛けた手を、そのまま首の後ろへ伸ばす。髪の端が指に当たった。もう一度、と言う前に目が合い、今度は彼も顔を寄せた。
二度目は目を閉じることができた。背中を支える手が近くなり、私は彼の服を握った。離れたあとも腕をほどきたくなくて、肩へ額をつけた。上着は窓辺の空気で冷えていたが、その下は温かかった。
茶を淹れ直すまでには、しばらくかかった。彼が椅子へ戻る時にも手をつないでいたので、机を挟んでしまってから二人で笑った。帰る時刻が来ると、次に会う日を決めて、ようやく扉を開けた。
* * *
その夜、寝台に入ってからも、窓の掛け金が目に入った。彼の座った椅子も見えた。一度横を向き、また仰向けに戻って、誰もいない部屋で笑った。
朝になって、残してしまった二人分の茶碗を洗った。昨日は片づけるたびに手が止まり、そのまま寝てしまったのだ。冷たい水に指を入れても、口元が緩むのは止められなかった。
その日、私はロザリーと工房へ行き、大きな皿を作り始めた。広げた粘土を両手で押していると、隣から顔を覗き込まれた。
「今日は、粘土にまで愛想がいいわね」
「そうかしら」
「さっきから、平らにするたびに笑っているもの」
私は俯いた。俯いても笑っているのが分かるらしく、ロザリーまで笑い出した。皿に載せたい菓子の数を聞かれ、少なくとも四つ、と答えた。
工房を出たところで、約束していたアドリアンと会った。都の知人から便りが来たのだと、彼は上着の内側を軽くたたいた。何かよい知らせらしく、声が弾んでいた。
私は、粘土の取れきっていない指を見せた。彼は笑ってその手を取り、歩き出してからも、離さなかった。
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