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妹を泣かせないために、私が泣くのは終わりです【連載版】  作者: 堀吉 蔵人


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第8話 約束のない午後ではなく

 

 翌週の休日、服を着替えたのは二度だった。三度目に手をかけたところで、ロザリーに笑われる顔が浮かんだので、やめた。青灰色の服の襟を直し、鏡へ近づいて、白い布に皺がないことを確かめた。

 待ち合わせの場所には早く着きすぎた。手袋を外して指先を温め、またはめた。教会の鐘が鳴り終わってからは、通りの向こうを見る回数が増えた。

 五分ほど過ぎた頃、家に帰ればいいのではないかと思った。まだ五分なのに、帰って何をするかまで考えてしまった。その時、角から彼が走ってきた。


「遅れて、すみません」


 息を整えるより先にそう言い、私の前で足を止めた。いつもの図面袋はなく、上着の襟が片方だけ折れていた。


「待ちました」

「はい。申し訳ありません。仕事は置いてきました。今日は、もう戻りません」


 私は彼の襟を指さした。彼が直そうとして反対側を触ったので、思わず笑ってしまう。ほっとしたように笑い返されると、待っている間に用意した文句の続きを忘れた。


「どちらへ行きますか」

「川へ。菓子を買ったあと、僕の好きな橋を見せたいんです」


 橋、と繰り返すと、彼は建物を調べるつもりではないと付け足した。私は、それはもう聞きました、と答えた。


 川の近くの店で、私は林檎、彼は胡桃の焼き菓子を買った。袋を一つずつ持って石橋へ出ると、水の上を渡る風が冷たかった。彼は欄干へ手を置き、橋の下を覗いた。


「子供の頃、ここに別の橋を架けたくて」

「壊して?」

「隣に。真ん中に菓子屋がある橋です。川を渡る途中で買えて、店の下を舟が通る」

「真ん中まで歩かないと買えないのね」

「そう言われると、不便ですね」


 彼は欄干を軽くたたいた。店の窓はこちら、舟の通るところは下、と、何もない空間へ指で形を描く。菓子屋を大きくしたら客が立つ場所も必要になり、最後には橋より店のほうが立派になったという。


「模型まで作ったんだ。木片をつないで。でも、菓子屋を載せたら、真ん中から折れた」

「お菓子を置く前に?」

「残念ながら」

「では、お客は助かったのね」


 彼が声を立てて笑った。あまり楽しそうに笑うので、私まで得意になった。もっと聞かせて、と袋を持ったまま欄干へ寄ると、彼は折れた橋をどう直そうとしたか話し始めた。

 うまくできなかった話なのに、少しもつまらなさそうではなかった。長い指が動き、眉が上がる。私は説明より、その顔をよく見ていた。分からなくなって尋ねると、彼は橋の向こうを指し、今ある石の組み方から話してくれた。

 欄干に、黒い点が一つ落ちた。顔を上げた時には頬にも当たり、すぐに雨の匂いがした。


「走れますか」

「袋さえ無事なら」


 彼が笑い、二人で橋を渡った。角の店の軒下へ駆け込む頃には、髪の先から水が落ちていた。


 軒は二人で立つには少し狭かった。私は菓子袋を胸へ抱え、壁へ背を寄せた。彼の肩からも雫が落ち、片方の袖はまだ雨の下に出ていた。


「もう少し、こちらへ」


 彼が近づくと、肩が触れそうになった。雨が石畳をたたく音に、言葉が紛れる。彼は聞き返すために顔を寄せ、そのまま私の額の辺りへ目を留めた。


「髪に、水が」


 上がりかけた手が止まった。彼は自分の手巾を差し出し、少し離れた。上着の肩が、また雨で濡れた。

 私は受け取った手巾で額を押さえた。離れた場所が、急に広すぎるように思えた。彼の濡れた袖を見てから、私は自分のほうから半歩寄った。


「そこでは、ずっと濡れてしまうわ」


 肩が触れた。厚い上着越しなのに、どこに彼の腕があるか分かった。彼は動かずに私を見た。目を逸らしたかったが、逸らすと今の半歩までなかったことになりそうで、そのまま見返した。


「近くても、大丈夫?」

「私が寄ったのよ」


 返事のあとで、顔が熱くなった。彼は小さく笑ったが、からかいはしなかった。私も笑おうとして、うまくできなかった。

 雨が弱くなるまで、私たちは菓子袋が濡れていないか確かめたり、通りを走る人を目で追ったりした。何を見ていても、肩のところだけは気になった。彼が息を吸うと袖が動き、そのたびに、もう少し寄ってもいいのだろうかと思った。

 雨の隙間から向かいの屋根がはっきり見え始めても、すぐに外へ出る気にはなれなかった。彼も、もう歩けるとは言わなかった。


 * * *


 帰り道、私たちは焼き菓子を一つずつ食べた。彼が歩く速さを落とすので、林檎のこぼれそうなところから、ゆっくりかじることができた。借りた手巾は洗って返すと言い、鞄へしまった。


「楽しかったわ」

「僕も」

「でも、最初は、少し怖かったの」


 彼がこちらを見た。聞かれる前に、私は菓子を包み直した。


「相手が楽しければそれでいいと、何でも笑ってしまうのは、もう嫌なのです。今日は、私も楽しかったと言いたくて」


 少し面倒な話をしただろうかと思った。彼はすぐに立派な返事をせず、何歩か一緒に歩いてから、口を開いた。


「橋の店は不便だと言われたのが、今日は一番可笑しかった」

「そこなの?」

「うん。あなたが黙っていたら、僕は今も、よい店だと言い張っていたと思う」


 私たちはまた笑った。部屋へ向かう角が見え、歩く速さがさらに遅くなった。別れる場所が来る前に、今度は私から言った。


「次は、私の部屋でお茶を飲まない?」


 彼は、ぜひ、と答えた。日を決める間にも雨の雫が髪から落ちたけれど、もう寒いとは思わなかった。


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