第7話 その窓から見えるもの
引っ越して五日目、意見を聞いてもらう場所へ、私は紙を三つ折りにして持っていった。移る先の条件が書かれた紙とは、別にしておいた。家賃や運搬の相談をしたいのではなかった。
建物の一階に置かれた机で、アドリアン様が待っていた。顔を見ると、冷めた茶を持って帰った朝のことまで思い出した。彼も覚えているのだろう、挨拶をしたあと、少し間が空いた。
「今日は、ここが好きな理由をお話ししてもいいですか」
「はい。聞かせてください」
私は紙を開いた。朝の光、パンの匂い、店先の声。書いてある順に読んだら、買い物の覚え書きのようになった。
「窓を開けると、お店の方が挨拶している声が聞こえるのです。何を話しているかまでは分からないけれど、それで朝だと分かります」
紙から顔を上げると、彼はまだ私を見ていた。続きを促される前に、言葉が出てきた。
「部屋の中へ光が入るだけなら、ほかの窓でもいいのかもしれません。でも、ここから見えるものも好きなのです」
「新しい案では、窓から通りまでの距離が少し変わります。そこは、考え直せるかもしれません」
「今のままには、できませんか」
彼が頷くのを期待していた。けれど、彼は図面を私のほうへ回し、裏側の線を指した。
「こちらの壁は、残せません。一度、外を見ながらお話ししましょう」
裏へ回ると、先日は綺麗だと思わなかった石の壁にも、乾いた部分と濡れた部分があった。彼が示した継ぎ目は黒くなり、その下の石は表面が崩れていた。近づきすぎないように立ったまま、私は暗い筋を目で追った。
「水路が詰まりやすい形なのです。雨のたびに、この辺りへ水が回る。窓の形だけを戻すと、下の通り道が十分に取れません」
「そこは、直さなくてはだめですね」
「ええ。こちら側は」
彼は、こちら側は、と言い直した。全部同じだとは言わなかった。表の入口脇の石は使える見込みで、窓も、位置は変えても幅をもう少し取れるという。
私は自分の紙を開き直した。好きなところを並べれば全部残してもらえるような気が、どこかでしていた。無理だと分かったのは残念だったが、話をやめるほどではなかった。
「位置を変えても、朝は明るくなりますか」
「この高さなら、向かいの屋根より上から入ります。ここで少し、横へずらすと」
彼は鉛筆で短い線を足した。すぐに消して、もう一度引く。私が紙へ顔を寄せると、机の代わりに持っていた板を、見やすい高さまで下げてくれた。
線がずれるたび、実際の窓から何が見えるかを想像した。私の部屋ではなくなるのかもしれない。それでも、朝食の時に空が見えるかどうかは気になった。
「水路の出口は、向こうです。あそこから見れば、通りの高さも分かります」
彼は紙をまとめ、細い路地へ入った。私は少し遅れてついていった。今度は置いていかれなかったが、彼は歩きながらも向こうの壁を指していた。
「勾配を変えるのなら、こちらを――」
彼の靴が、飛び出した石の端に引っかかった。体が傾き、私はとっさに袖をつかんだ。大きく転ぶほどではなく、彼は片足を踏み直してすぐに姿勢を戻した。
「足元の設計も、ご覧になったほうがいいと思います」
「……今、よく分かりました」
真面目な返事に、笑ってしまった。彼も笑いながらこちらを向いたので、思っていたより顔が近くなった。袖をつかんでいるのは私なのに、彼のほうから近づいてきたように感じた。
厚い布の下で、腕が動いた。私は手を放した。指がまだ袖を握る形のままだったので、そっと伸ばす。
「助かりました」
「転んだら、図面が濡れてしまいますもの」
「心配してくださったのは、図面ですか」
違います、と言いかけて、今度は私の踵が石の隙間にはまった。歩き出せずに足を抜くと、彼が口元を押さえている。
「笑ってくださって構いません」
「いえ、私には笑う資格がないので」
そう言いながら笑った。私も結局、笑ってしまった。路地を抜けるまで、二人とも妙に慎重に足を置いた。
表へ戻ると、パン屋の窓が曇っていた。焼きたてのものが出たらしく、扉が開くたびに甘い匂いがした。彼は図面袋の口を閉じ、私の紙を返そうとして、受け取ってもよいかと尋ねた。
「ほかの方の意見と一緒に、案を検討します。全部は採り入れられませんが」
「はい。私の部屋だけを、よくしてほしいわけではありません」
「分かりました。前は、残したいとおっしゃっているのに、新しいほうがよいとばかり説明してしまいました」
私は頷いた。すぐに許すとも、もう気にしていないとも言えなかった。でも、もう一度あの朝のお茶を淹れ直したいとは思った。
彼は紙を丁寧に畳んだあと、パン屋へ目を向けた。
「林檎の菓子は、お好きですか。最初の日に選んでいらしたので」
「好きです。甘いだけでなく、少し酸っぱいものが。アドリアン様は?」
「私は胡桃のものを。焼いたところが、少し焦げているくらいがいい」
言い方が、好きな壁を説明する時に似ていた。私は、胡桃にもずいぶん注文がおありなのね、と笑った。
「川の近くに、林檎の菓子を置いている店があります。次の休日、午後は空いていらっしゃいますか」
図面袋は、もう閉じられていた。それを見てから彼の顔を見るまでに、少し時間がかかった。
「建物を調べに行くのですか」
「いいえ。あなたと、菓子を食べに行きたいのです」
私は返事をする前に頷いてしまった。可笑しくて、恥ずかしくて、そのあとで、私も行きたいです、ときちんと言った。
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