第6話 壊すための絵
朝の茶を注いでから、私は窓を見た。まだ誰もいなかったので、パンを切り分けた。二切れ目を皿へ置いた時、通りで革の袋を下ろす人が見えた。
アドリアン様だった。昨日とは違う色の上着を着て、向かいの軒下からこちらを見上げている。私は身を引いたあと、何を隠れたのだろうと、すぐ窓を開けた。
「おはようございます」
彼の顔が上がった。朝の冷たい空気の中で、白い息が見えた。
「本当ですね。言われたとおりの光です」
「少し、待っていらして」
茶をもう一杯注ぎ、小さな盆へ並べた。自分の朝食を先に食べればよかったのに、冷めるほうが気になった。階段を急ぐと茶が揺れ、途中からは一段ずつ慎重に下りた。
彼は私の手元を見て、鉛筆を袋へしまった。
「私の分も?」
「外は寒いでしょう。ちょうど淹れたところでしたから」
器を渡す時、指先へ熱が移った。彼は両手で受け取り、ひと口飲んでから目を細めた。来てくれて嬉しい、と言う代わりに、私は自分の茶を飲んだ。
入口脇の低い塀へ盆を置くと、彼が隣に紙を広げた。朝の光の当たり方を確かめたかったのは、昨日の絵だけのためではないらしい。何枚かの図面のうち、一枚には通りの建物がまっすぐ並んでいた。
「これは、向こうから見たところですか」
「改築後の案です。まだ細部は変わりますが」
パン屋の窓を見つけ、そこから二階へ目を移した。私の窓があるはずの場所には、幅の違う窓が二つ並んでいる。玄関の位置も、屋根の形も変わっていた。
「私の部屋は、どこですか」
紙へ伸ばしかけた指が止まった。彼も茶を下ろし、私の見ている線へ目を落とす。
「その建物は、いったん住人の方に移っていただいて、改築します。私が設計を担当しています」
「移る……?」
「管理人から、明後日に説明があるはずです。私からも、分かる範囲ならお話しできます」
言葉は聞こえていた。けれど、窓辺に並べた鳥と、この図面がうまくつながらなかった。昨日は、自分で選んだ部屋へ帰った。今朝はその窓から、彼を見つけたのだ。
「私は、昨日、越してきたばかりです」
「そう伺いました。ですから、まず時期と条件を――」
「昨日の今日なのです」
繰り返すと、彼の口が閉じた。茶を飲んでいる間にでも、何かが間違いだったことにならないかと思った。けれど紙の線はそのままだった。
彼は別の図を取り、建物の裏手を示した。傷んだ梁があり、水が入り続けている部分もある。今すぐ部屋を空けなければ危険という状態ではないが、傷みを広げる前に直す必要があるのだという。
「梁だけを取り替えることはできないのですか。窓は、どこも壊れていません」
「壁と床を支えるものなので、そこだけ外して済むわけではありません。この側は、水の通り道から変えます」
「では、窓を元の形に戻すことは?」
「同じ位置には戻せません。新しいほうが明るさも、使いやすさもよくなります」
よくなります、と彼はもう一度言った。説明すれば分かるはずだという響きに、頬が熱くなった。さっきまで一緒に見ていた光は、彼にとって、次のものを作るための材料だったのだろうか。
「私は、今の窓が好きだと申し上げています」
「それは分かります。ただ、古い形を残すために、必要な修繕をやめるわけには」
「危ないままでいいとは言っていません。残念だと思うことまで、間違いにしないでください」
声が通りへ響き、私は唇を噛んだ。彼の顔から、説明を続けようとしていた表情が消えた。
器からは、もう湯気が出ていなかった。二つとも半分以上残っている。私は盆を近くへ引き寄せた。
「……お茶を、ありがとうございました」
「失礼します」
彼の手から器を受け取った。今度は指が熱くならなかった。部屋まで上がり、机へ置くと、器が二つ続けて固い音を立てた。
* * *
明後日の説明には、一人で行った。管理人が用意した紙を、話を聞きながら上から順に読んだ。アドリアン様に聞きたいこともあったが、まずは私がいつまでここで暮らせるのかを知りたかった。
工事までには二か月ほどの猶予があり、近隣で移る先を探す手助けもあるという。運搬などの費用には補助が出る。候補の家賃を見せてもらうと、母の貸家から入るお金で払える範囲のものがあった。
「借りる時に、こうなるとは知りませんでした」
言うと、管理人は説明が足りなかったと頭を下げた。改築の日程が定まったのは最近で、入居の時点では知らせが行き届いていなかったという。
謝られたからといって、すぐにまた荷造りをする気にはなれなかった。それでも、行くところがなくなるわけではないと分かり、握っていた紙を少し緩めた。候補の見学と詳しい条件は、改めて管理人と相談することにした。
帰る前に、新しい建物の設計への意見を聞く時間もあると教えられた。私は日時を書き留めた。
部屋へ戻り、窓の前へ椅子を運んだ。紙に、朝の光、と書いた。二つ目は、パンの匂い。窓を開けると店先の声が聞こえて、一人で朝食を食べていても、町が起きたのが分かる。
書くうちに、窓の下で茶を受け取った彼の顔を思い出した。あの時は、私に会いに来たのかもしれないと、少しだけ考えたのだ。腹が立っているのに、その考えを捨てるのも惜しかった。
紙を裏返してしまいそうになり、やめた。彼に伝えたいことは、まだ書き終わっていなかった。
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