第10話 私の知らない彼
アドリアンが迎えに来たのは、約束より少し早かった。手袋をはめながら階段を下りると、彼は待ちきれなかったように一段上がってくる。
「この間話した便りのことなんだけれど、都の仕事を紹介してもらえることになったんだ」
「前からやってみたいと言っていたもの?」
「そう。まだ詳しい条件を聞くところだけれど、僕の図面を見て、会いたいと言ってくれた」
彼の声が弾んでいた。私も嬉しくなり、下りきる前にその手を取った。頬を寄せられて、誰かに見られると思うより先に笑ってしまう。
「よかったわ。本当に」
「今日は、その話を持ってきてくれた人に会うんだ。前に一緒に仕事をした、レオニーという人なんだけれど。君も来ない?」
邪魔にならないかと尋ねると、彼は首を振った。先方にも私の話をしていて、会ってみたいと言われたのだそうだ。それを聞けば、行かない理由はなかった。
道の途中で菓子を買った。先週作り始めた大皿には、焼き上がったらこの店のものも載せたい。そんな話をする私の手を、彼が握り直した。歩調がいつもより速く、少し急いでついていくことまで楽しかった。
レオニーは、宿の食堂の奥にある卓で待っていた。立ち上がって挨拶をする時、椅子の上の図面袋が倒れかけ、彼女は慌てて片手で押さえた。
「また詰め込みすぎたのか」
「あなたに見せたいものを入れたら、こうなったのよ」
二人は笑った。私にも椅子を勧め、茶を頼むまでは、三人で話していた。持ってきた菓子を出すとレオニーは礼を言い、あとで頂こうと袋を卓の端へ置いた。
広げられた図面は、向かいの椅子にまで届いた。アドリアンは上着を脱ぎ、身を乗り出す。私はその横顔を見ながら茶を飲んだ。こんなに嬉しそうな彼を、一日中見ていられると思っていた。
「この梁を、もう少し上げられないか」
「上は屋根の勾配があるでしょう。ここの断面を見て」
「それなら、支える位置を変えれば……」
彼女が鉛筆を走らせ、彼が別の紙を引き寄せた。一本の線について話していたはずが、いつの間にか隣の図へ移っている。私は今指していたところを目で探し、見つける前に二人の笑い声を聞いた。
「そこを高くすると、何が変わるの?」
「中へ入った時に、ずっと広く見えるんだ。窓からの光も奥まで届く」
彼は私へ向き直り、手で高さを示した。分かった気がして頷くと、レオニーが別の方法を口にし、彼はすぐに図面へ戻った。
分からないところは、また聞けばよかった。けれど、そのたびに彼をこちらへ向かせるのが嫌になった。私への説明には一度言葉を選ぶのに、彼女とは思いついたまま話せるらしい。
橋の上で、両手を大きく広げていた彼を思い出した。あの顔を見せてくれるのは私だけだと、いつ決めたのだろう。彼の鉛筆の先を見るふりをして、私は茶の残りを飲み干した。
「イゼルさんは、こちらと、こちらなら、どちらの入口が分かりやすいと思いますか」
レオニーが紙を回した。建物の前に立った人が最初にどこへ目を向けるか、知りたいのだと言う。私は二つの絵を見比べた。右のほうが入りやすそうだったけれど、入口の手前に柱があり、反対側から来たら見落とすかもしれない。
そう答えるだけのことなのに、声が出るまで間が空いた。彼に教わったことを覚えているか、確かめられているような気がした。
「私には、詳しいことは分かりませんから」
「ええ。説明を受ける前ならどう見えるか、と思って」
「お二人なら、説明がなくてもお分かりになるでしょうけれど」
言い終えて、私は茶碗を持ち上げた。空だったことを忘れていた。レオニーは困ったように瞬きし、アドリアンが私の顔を見た。
胸が熱くなった。今になってこちらを見てもらっても、何を言えばいいのか分からない。レオニーはただ、私にも分かることを尋ねてくれたのだ。
「……右だと思います。けれど、柱の陰から来たら、少し迷うかもしれません」
「そうね。ここに立つ人のことを、もう少し考えたほうがいいわね」
彼女は私の指した場所へ小さく印をつけた。取り繕った礼ではないと分かり、なおさら居づらくなった。卓の端の菓子袋は、まだ紐も解かれていなかった。
「私、そろそろ失礼するわ。お話を続けて」
「送るよ」
「通りまででいいの。帰り道は分かるから」
アドリアンはレオニーに断り、私と店を出た。外は思ったより冷えていた。彼が上着の襟を直すところを見て、さっきまで私のために留まっていた温かい場所から、自分で出てきたのだと気づいた。
「長くなってごめん。あの案を本当に形にできるかもしれないと思うと、つい」
「ええ。よかったわね」
「都なら、相談できる相手もいる。今まで図面に描くだけだったことを、試せるんだ」
彼は建物の広さを、通りの向こうまで手で示した。道行く人が一人振り返り、彼が照れたように腕を下ろす。いつもなら笑ってその手を取るところで、私は手袋の縫い目を押した。
いつからなの、と聞こうとした。いつ都へ行き、いつこちらへ戻るのか。まだ何も決まっていないと言われたら、私は安心してしまいそうだった。
「また、ゆっくり聞かせて」
彼は頷き、別れ際に私の頬へ触れた。その指の温かさは変わらなかったのに、店へ戻っていく背中を見送ると、急に足が冷たくなった。
部屋へ帰り、湯を沸かした。棚から茶碗を二つ出してから、一人なのだと思い出す。彼が毎日来ているわけでもないのに、二つ目をしまうのが寂しかった。
陶器の冷たさが指に残った。好きになった人の仕事がうまくいくと聞いて、私は喜んでいた。それも嘘ではないのに、今は、あの図面がなければいいとまで思ってしまう。
茶を注いで椅子へ座った。次に会ったら、いつ行きたいのか聞こう。よかったわねだけでは、もう話せなかった。
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