第11話 行ってほしくない
次に会ったのは、三日後の夕方だった。アドリアンは仕事場から出てくるなり、待たせたかと尋ねた。首を振ると、彼が私の頬へ触れようとして、いったん手を止める。
「寒かった?」
「少し。それより、都のことを聞きたいの」
彼は頷き、私と並んで歩きだした。前に会った時より落ち着いていたけれど、話し始めるとやはり声が明るくなる。仕事が始まるのは、ひと月余り先だという。
「こちらの引き継ぎを済ませて、その頃には向こうへ行きたい。条件も聞けたし、僕は引き受けようと思っている」
「もう、お返事をしたの?」
「まだだよ。君にも、ちゃんと話したかったから」
よかったわね、と言おうとして喉が詰まった。ひと月余りあれば、まだ何度も会える。それなのに、次の菓子、次の散歩、その先へ思い浮かべていたことが、急に数えられる量になった。
彼が立ち止まったので、私は視線を上げた。ポケットの中で手袋を握り、少し川のほうを歩きたいと言った。
川辺は人が少なかった。石の段を水面近くまで下り、足元が濡れていないところを選ぶ。彼は一段上で待ってから、私の隣へ来た。
「何かあった?」
「行ってほしくないの」
言ってしまうと、彼の顔を見ていられなくなった。流れる水を目で追ったが、同じ場所ばかり見ている気がした。
「都へ?」
「ええ。あなたが楽しみにしているのは、分かっているわ。でも、ここにいてほしい」
「その仕事を、断ってほしいということ?」
違うとすぐに答えられなかった。彼の上着の袖が視界にあり、少し手を伸ばせば触れられる。ひと月後には、それもできなくなるのだと思った。
「断ってくれたら、嬉しいと思う。たぶん、とても」
彼は息を吐いた。責めるようではなかったのに、私は肩を固くした。そんなことを望むなら言わなければよかったと、一度は思った。
「でも、私がそう言えば断るでしょうと、決めてかかりたくはないの。行っても平気だとも、言えなくて」
「……平気でいてほしいわけじゃない」
「それなら、私が寂しいと言ったあと、何を話せばいいの?」
声が尖った。彼が答えを探している間、水の音ばかりが聞こえた。私は泣きそうになり、慌てて唇を結んだ。涙を見た彼が、やはり残ると言ってくれないかと思った自分に気づいたからだった。
顔を上げると、彼も困ったままだった。今すぐ私が笑って、気にしないでと続けるのを待っているのかもしれない。けれど、そう言えるほど軽い気持ちで会っていたわけではなかった。
「ずっと、やってみたかったんだ」
彼は川の向こうを見た。
「大勢が行き来するような場所で、どこまで柱を減らして、広い空間を作れるか。紙の上で考えるだけじゃなくて、実際に作る人たちと話したい。あの計画なら、それができる」
レオニーと図面を覗き込んでいた顔を思い出した。私を黙らせるために仕事の話をしているのではない。そのことが分かるから、聞いているのがつらかった。
「レオニーさんは、その話がすぐ分かるのね」
「一緒に似た計画を見てきたからね」
「私、あの人にも嫉妬したのよ」
言うつもりのなかったことまで出てきた。彼がこちらを向き、私は今度こそその袖をつかんだ。引き寄せはしなかったけれど、指を離すこともできなかった。
「あなたが、あんなに楽しそうだったから。私の知らない話で笑って、何も説明しなくても、次の話ができて」
「彼女は仕事の仲間だよ。恋人だったこともないし、そうなりたいと思っているわけでもない」
「そうでしょうね。あの人、私にも親切だったもの」
あの時の自分の言い方を思い出し、頬が熱くなった。嫌な人だったら、もう会わないでと言えたかもしれない。何も悪くない相手に、私は感じの悪い返事をしてしまった。
「君がついてこられていないことにも、気づかなかった。招いたのは僕なのに。ごめん」
彼は袖を持つ私の指へ触れた。隠していた気持ちを嫌がられなかったことに、少し息がしやすくなる。けれど、彼女は恋人ではないと分かっても、都へ行く人を見上げている寂しさは消えなかった。
「今は、私にも分かるように話してほしい」
「うん」
彼が、私の手を袖からほどいて握った。素肌の指に彼の温かさが移ってきた。手袋をはめずにいてよかったと思いながら、こんな小さなことで喜んでしまう自分が悔しかった。
川沿いを戻るうちに、空の色が薄くなった。通りへ出ればそれぞれの家へ曲がらなければならない。いつも帰り際には次の約束をしていたのに、今日は何曜日という言葉が出てこなかった。
私は歩く速さを落とした。つないだ手を少し引く形になり、彼も足を止める。顔を見なくても、こちらを見ているのが分かった。
「イゼル。一緒に来てほしい」
私は彼を見上げた。聞き間違えたのではないかと、つないだ手を見て、もう一度顔へ戻る。
「私も、都へ?」
「うん。君と離れたくない。仕事を終えた時に会えるところに、いてほしいんだ」
さっきまで寂しかった道が、急に違って見えた。都へ行く馬車にも、知らない通りにも、彼の隣にいる私を想像できた。玄関が開いて彼が帰ってくるところまで浮かび、胸がいっぱいになる。
「来てくれたら、嬉しい」
彼が言い足した。私は頷きそうになって、それより先に彼の手を両手で包んだ。嬉しかった。仕事へ行く彼を、ここで一人で見送るしかないのだと思っていた。
「考えさせて。今、すぐに返事をしたら、ちゃんと考えないままになりそう」
「分かった。待っている」
彼は私の額へ短く唇を当てた。目を閉じるのが遅れ、近すぎる襟元を見てしまった。笑うと、彼もようやく笑った。
帰り道、手を離したあとの指まで温かかった。まだ家賃も、住む場所も聞いていない。それでも夜、寝台へ入った私は、都の朝に彼と何を食べるだろうと考えずにはいられなかった。
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