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妹を泣かせないために、私が泣くのは終わりです【連載版】  作者: 堀吉 蔵人


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第22話 行かないで、行ってらっしゃい

 

 五日もあったはずなのに、アドリアンの出発はもう明日の朝だった。新しい部屋の荷物はほとんど片づいて、彼がどの椅子へ座るかも、考えなくてよくなっていた。

 食事の皿を下げると、彼が重ねた皿を受け取りに立った。小さな流しで二人の腕がぶつかり、片方が動くたびにもう片方が待つ。それさえ面白くて、私は笑いながら彼を食卓へ追い返した。


「今度は、これを運ぶのを手伝って」


 棚から出した大皿には、林檎と胡桃の菓子を載せた。私が片方の縁を持ち、アドリアンが反対側へ手を添える。

 卓へ置いても、彼はしばらく皿を眺めていた。


「こんなに大きかったんだね」

「焼く前は、もう少し大きかったの。台から持ち上げる時が大変だったわ」


 出来上がった日に、一番に見せたかった。そう言うと、彼の指が皿の縁で止まった。


「その頃は、会いたくないとも思っていたのよ。どちらなのか、自分でも分からなくて。でも、これを見たら何て言うか、考えてしまった」

「見せてもらえて嬉しい」


 彼が私を見る。私は頷き、菓子を一つ口にした。林檎の酸っぱさがして、あの日と違って、向かいには食べる人がいた。

 都ではどんな胡桃の菓子があるだろうと彼が言い出し、私は、持ち帰る前に全部食べないでほしいと頼んだ。そんなに食べないと答えたすぐあとで、彼は最後の林檎の菓子に手を伸ばした。


「あ、それは私も食べたい」

「じゃあ、半分にしよう」


 彼が割ると、少し大きい方ができた。どちらを取るか目が合って、私が先に大きい方を摘む。彼は抗議するように笑い、それでも自分の半分を食べた。

 食べ終えてからも、しばらく明日のことを忘れていた。彼が私の頬を指し、菓子がついていると言ったので、手で払った。それでも取れないらしく、彼が身を乗り出して親指で拭った。


「取れた?」

「うん」


 それだけで離れるのが惜しくて、私は卓の上に置かれた彼の手へ自分の手を重ねた。皿を挟んでいるせいで、少し窮屈だった。彼は皿を横へずらし、私の椅子を自分の方へ寄せた。


 通りの時計が鳴った。アドリアンが窓の方を見て、私も残った茶へ目を落とした。彼は帰って荷物を確かめ、朝には都へ発つ。

 もう少しと頼めば、あと少しはいてくれるだろう。その少しをいくら重ねても、明日は来る。


「そろそろ、行くよ」


 立ち上がった彼に、私は抱きついた。椅子を避ける余裕もなく、膝に触れたのが少し痛かった。


「行かないで」


 言った途端に涙が出た。彼の服を掴み、顔を胸へ押しつけた。こんな言葉を言わずに、楽しかったと笑って帰したかったのに、腕が離れなかった。


「分かっているの。明日行くことも、あなたがしたい仕事のことも。でも、行ってほしくない」


 アドリアンは私の背中へ腕を回した。髪に触れた息があたたかくて、今ここにいるのに、もう寂しかった。


「僕も、ここにいたいよ」


 その声に、反射のように顔を上げてしまった。彼は私を見つめたまま、抱く手に少し力を込めた。


「でも、明日は行く。君が泣いていても、行くんだ」

「……ええ」


 頷いて、また彼の胸へ額を戻した。今なら行かなくなるかもしれないという期待を、簡単には消せなかった。それでも、掴んでいた指は自分で緩めた。

 彼はすぐには離れず、私が息を整えるのを待った。最後に唇が触れた時、涙のせいか、少し塩辛い味がした。


「朝、乗り場へ行くわ」

「寒いから、手袋を忘れないで」

「忘れない。あなたこそ、今夜眠ってね」


 その会話まで、もう少し続けていたかった。扉が閉まったあと、私は菓子のなくなった大皿を片づけた。


 * * *


 翌朝の乗り場には、旅鞄と包みを抱えた人たちが集まっていた。馬の吐く息が白い。アドリアンを見つけて近づくと、彼は荷物を預け、すぐ私の手を取った。

 ちゃんと眠れたかと聞きたかったのに、顔を見ただけで喉が詰まった。彼も何か言いかけて、私の手袋の上から親指を動かした。


「最初に帰るのは、六週間後だね」

「ええ。便が決まったら、知らせて」

「着いたら、先に手紙を書く」


 何度も確認したことしか話せなかった。都の宿も、届く宛先も知っている。聞いておかなくてはいけないことを探して、少しでも長く目の前にいてほしかった。

 御者が乗るように声をかけた。私は手巾を出し、頬を拭いた。涙は拭いても止まらず、彼が握っている方の手まで震えた。


「アドリアン」

「うん」

「行ってらっしゃい」


 言えたのに、泣きやめなかった。彼は私の額に唇を寄せ、もう一度手を握った。


「行ってくる。イゼル」


 最後に指先が離れた。彼は馬車へ乗り、窓を開けた。私が見上げると、そこから手を伸ばし、届かないと分かっているのに、私も手を上げた。

 馬車が動き出しても、彼は顔を見せていた。曲がり角に近づいた時、私は手を大きく振った。彼が振り返すのが見え、それから窓も馬車も見えなくなった。


 通りがいつもの音に戻っても、しばらく歩けなかった。下ろした手が冷えて、手袋の中で指を握った。さっきまで、彼の手に包まれていたところだった。

 帰り道にパンを一つ買った。店の人に聞き返され、やっと声が小さすぎたと気づいた。


 部屋へ戻り、湯を沸かした。棚から茶碗を二つ出して並べたところで、手が止まった。今朝は、私しかいない。

 もう一つをしまおうとしたのに、底を持ったまま涙が落ちた。あの人の分の茶を淹れたかった。椅子を引く音がして、向かいに座ってほしかった。


 茶碗を棚へ戻し、自分の分に湯を注いだ。買ってきたパンを割って、一口食べた。飲み込む時に喉が痛み、茶を飲んでも、また泣けた。

 湯気の向こうの椅子は、いつまでも空いていた。


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