第21話 あなたに会いに行く
二日後の朝、部屋には荷物の包みばかりが並んでいた。管理人と決めた引っ越しの日だというのに、私は最後の紐を結ぶだけで何度も手を止めた。
アドリアンが都へ行くまで、あと五日。次にこの町へ戻る時、私はもうここには住んでいない。
扉が鳴ると、胸がどきりとした。開けた先に彼がいて、私の顔を見てから、足元の包みへ目を移した。
「早すぎなかった?」
「いいえ。荷物を運ぶ人が来るまで、まだ時間があるわ」
中へ招いて扉を閉めた。彼が空いた場所に立ち、何から話そうかと迷うように私を見る。私は返事を書いた紙も、あの費用の紙も出さず、彼のところへ歩いた。
「私、ここで暮らすわ。新しい部屋も、楽しみにしているの」
「うん」
「それで、あなたに会いに行きたい。あなたにも、私に会いに来てほしい」
近づいたら、用意していた言葉の続きがうまく出なかった。彼が瞬きもせずに聞いている。私は息を吸い、今度こそ顔を上げた。
「もう一度、あなたと付き合いたいの。離れていても」
「僕も、君と付き合いたい」
思っていたより早く返事が来て、私の方が黙った。アドリアンは少し笑ったけれど、声は真剣なままだった。
「都へ一緒に来る人が欲しいんじゃない。君が好きなんだ。イゼルに、会いたい」
名を呼ばれた途端、指先まで熱くなった。目の前の袖へ手を置き、彼を見る。ずいぶん久しぶりに触るような気がして、布の厚さまで懐かしかった。
彼が私の手を包んだ。引き寄せられる前に、自分から少し背伸びをした。
唇が触れた時、息を止めていたことに気づいた。一度離れると、彼の目がすぐそこにあった。もう一度近づこうとして、同じように動いた彼と鼻が触れ、二人で小さく笑った。
「笑わないで」
「君も笑った」
言い終わらないうちに、今度は彼の唇が重なった。背中へ回った腕が、さっきより強く私を抱く。私は襟元を掴み、指を滑らせて、その肩に両腕をかけた。
会いたかった。石橋で話した時にも、店で紙を読んだ時にも、この人に抱きしめてほしかった。口にしたら泣いてしまいそうで、額を肩へ寄せた。
「イゼル?」
「もう少し、こうしていて」
彼の手が背中をゆっくり撫でた。上着の下で息をするたびに胸が動き、その近さに、私も呼吸を合わせた。離れる日を思い出すのが嫌で、今だけでも忘れたくて、抱く腕に力を込めた。
彼も、急いで放そうとはしなかった。窓の外で何かを呼ぶ声がしても、どちらもそちらを向かなかった。私は彼の肩に頬を乗せたまま、もう一度、名を呼んだ。すぐ耳元に返事があって、それが嬉しくて、用もないのに呼んでごめんなさいと小さく笑った。
顔を上げた時には、彼の襟が片方折れていた。私が直すと、アドリアンも頬にかかった髪を指で払ってくれた。その指が耳のそばに残り、また胸が騒ぐ。
「せっかく結んだのに、きっと乱れているわね」
「少し」
「少しなら、そのままでいいわ」
彼は髪ではなく、私を見て笑った。嬉しくて、今度は私がその頬に触れた。
外から荷車の音がして、私はようやく窓へ顔を向けた。管理人と約束した時刻が近い。彼を抱いたまま引っ越すわけにはいかないので、名残惜しく腕を下ろした。
「小さい荷物を一つ、運んでもらってもいい?」
「もちろん。どれを持てばいい?」
運ぶ人も費用も、管理人と話を済ませていた。大きな荷物を任せたあと、私は青い器と大皿を入れた箱を持ち、彼には鳥の包みを入れた小箱を渡した。
彼が両手で受け取るのを見届け、空いた床を見回す。まだ鍵を返す前に、最後の確認に戻ってくると管理人へ伝えた。
新しい部屋への階段は、やはり急だった。上の段へ着いて私が息をつくと、後ろの彼も同じように息を吐いた。鳥二羽なのだから軽いはずだと言いかけて、その小箱を胸の前で大事そうに抱えているのを見てしまった。
「落としたらいけないと思うと、手すりを持てなくて」
「片手でも大丈夫よ」
「ここまで来たから、もう遅い」
笑いながら鍵を開けると、朝の光が床に届いていた。運び込まれた荷物で狭くなった部屋を、二人で横向きになって通る。
「どこへ置こうか」
「その窓へ。箱を開けて、布をほどくから、持っていて」
彼の手の上で小箱を開け、布をほどいた。白い鳥を一羽ずつ取り出した。二羽を並べたあと、少しだけ向きを変える。こちらの窓からは、朝の通りが見下ろせた。
アドリアンを隣に呼ぶと、彼は私が立つ場所を空けて、窓辺に寄った。
「朝、こんなふうに光が入るの」
「うん。よく見えるね」
私が見せたかったものを、彼も眺めている。嬉しくなってその手を取り、しばらく二人で立っていた。
* * *
旧い部屋へ戻ると、自分の足音が大きく聞こえた。戸棚の奥も、荷物を置いていた場所も空になっている。忘れ物はなかったけれど、すぐに扉を閉める気にはなれなかった。
窓辺に指を置くと、鳥の底があったところに薄い跡が残っていた。布で拭けば消える。それを消したくなくて、手を下ろした。
「ここ、好きだったのよ」
隣のアドリアンは、頷いただけだった。彼が描いた改築の図面を思い出した。明るくなる通路も、安全になる梁も知っているのに、この窓がなくなるのは惜しかった。
彼は、代わりに残すとは言わなかった。私が窓の取っ手から手を離すまで、黙って立っていた。
初めてこの部屋で目を覚ました朝には、誰も私を呼ばなかった。自分で湯を沸かして、何を食べようかと考えた。それだけの朝が嬉しかったことを、私は忘れたくなかった。
窓を閉め、戸締まりを確かめた。廊下へ出ても振り返ったが、アドリアンは先へ歩かずに待ってくれた。
管理人へ鍵を返したあと、手のひらに鍵の形が残っているような気がした。寂しくて、少しだけ泣きたかった。
彼の手を握り直し、私は新しい部屋の方へ歩いた。
面白かったら評価、ブックマークいただけると嬉しいです。




