第20話 諦めるものを選ぶ
旅費を書き出した紙の上で、同じ数字を三度足し直した。往復の馬車代だけなら、思っていたより出せる。けれど、都で泊まる部屋と食事の分を加えると、毎月会いに行くという案は消えた。
母の貸家から届く賃料は、これからも同じ額だ。新しい部屋の家賃を払って、食べて、冬の残りに使う薪を買う。陶芸を習う分まで引いてみて、私は筆を置いた。
そこをやめれば、もう一度行けるかもしれない。しばらく考えたあと、消しかけた教室の日をもう一度なぞった。
貯めてきたお金を全部持っていく必要はない。都で暮らし続けるのでなければ、季節の変わる頃に、数日訪ねることはできそうだった。普段の財布の隣に小袋を置き、旅に使える分を移すと、硬貨が思いのほか大きな音を立てた。
会うためのお金を分けている。まだ恋人に戻ると決めてもいないのに、そのことが嬉しかった。
アドリアンから、確認したことを話したいと短い便りが来たのは、その日の昼だった。出発まで、あと一週間だった。
私は書き出した紙を鞄に入れ、約束した店へ向かった。
「ここを、一緒に読んでほしい」
彼が広げたのは、都から届いた返答だった。私にも読めるように向きを変え、余白を指で押さえる。六か月という文字の下に、受け持つ仕事の範囲と、こちらの町へ戻る日程が書かれていた。
「六週間ごとに、こちらの現場を確認する。その間の都の仕事は、留守でも進められる範囲にする。最初の半年は、この形で引き受けられることになった」
「戻ってこられるのね」
「うん。ただ、こっちも読んで」
もう一枚には、都に常駐する場合の役割が記されていた。ほかの担当をまとめ、現場で判断をする仕事と、その役割につく手当。彼の指がそこで一度止まった。
「こちらは、受けない。常にいる人が必要だから。手当もつかない」
私は二枚を見比べた。休みを少し融通してもらうだけの話だと、どこかで思っていた。彼が欲しかった仕事の中にも、手放すものがある。
「レオニーにも、役割を広げる機会を逃すことになると言われた。戻ってから、やっぱり受けたいと言っても、その席が空いているとは限らないって」
「それでも、返事をしたの?」
「この条件で頼む、と伝えた。今朝、その返答が来た」
彼は紙を引っ込めなかった。私が続きを読み終えるまで待ち、冷めかけた茶を一口飲んだ。常駐のまとめ役を任されていたら、どんな顔で話しただろう。前に、都の仕事が決まったと聞いた日の声を思い出した。
「後で、私のために諦めたと思わない?」
言ってしまってから、聞き方がずるかったと思った。何も失わないと言ってもらえたら、安心して喜べる。彼が惜しくないはずはないと、もう見ているのに。
アドリアンは少し眉を寄せた。
「惜しいよ。ほかの人がやっているのを見たら、羨ましくなると思う」
私は頷いた。膝の上で、指を組み直す。
「でも、ここの仕事を途中の図面だけで終わりにもしたくない。帰って確かめたいものがある。君にも会いたい。その両方を残せる方を、僕が選んだ」
「私が、やっぱり付き合えないと言ったら?」
「寂しい。でも、それで常駐に変えるとは言わないよ。君の返事を買うために決めたわけじゃない」
胸の奥が痛くなった。これを喜んでいいのか、まだ迷っていた私に、彼は紙の端をそっと寄せた。
「だから、惜しいと言った時に、君が全部悪かったことにしないでほしい。僕も、君のせいにはしない」
「……分かった。私も、何も変えてほしくないって、今さら返さない」
そう答えるまでに、少し時間がかかった。彼は私の返事に頷いてから、六か月のところへ指を戻した。
半年先の担当は、その頃の仕事の進み方でまた相談する。六週間ごとに戻る暮らしを、いつまでも続けられるとはまだ言えなかった。
「その時のことは、その時まで黙っていないでね」
「うん。君も、つらくなったら聞かせて」
私は鞄から自分の紙を出した。彼のものの上へ重ねず、横に並べる。文字が小さくなった費用の欄を見られるのが、少し恥ずかしかった。
「毎月は行けないわ。ここで暮らす分と、教室の分は残したい。でも、あなたが一度帰ってきたあとなら、私も数日、会いに行けそうなの」
彼はすぐには答えなかった。私の筆跡を追い、訪問と書いたところで顔を上げた。その笑い方を見たら、まだ先の旅が急に待ち遠しくなった。
「来てほしい。仕事の終わる時間も確かめる。来てもらって、ずっと一人にはしたくないから」
「昼間に見てみたいところもあるのよ。前に調べた教室も、まだ気になっているし」
「それなら、帰ってきてから教えて。僕の知らない都の話になる」
彼は私の予定を読み終えてから、自分の帰郷の欄を示した。最初に会えるのは、出発から六週間後。その次に私が訪ねる日は、旅の費用と彼の仕事をもう一度確かめて決める。
都合が変わったら、分かった時に知らせる。次の便りまで無理に隠して、近くなってから取り消すことはしない。
「六週間も、会えないのね」
「長いね」
簡単に言われたら怒ってしまったかもしれない。彼も紙を見たままそう言ったので、私はもう一度、六週間を指で数えた。
帰り際、彼は返事を求めなかった。私も、嬉しい勢いのまま頷いてしまわず、自分の紙を鞄へ戻した。
「二日後に、会える? 引っ越しの前に、話したいの」
「会える。君の部屋へ行ってもいい?」
「ええ。来て」
店を出ると、風で髪が頬にかかった。いつものように直してもらいたくて、彼の方を見てしまう。彼も気づいたようだったけれど、今日は手を伸ばさずに笑った。
その笑顔を、二日後にも見たいと思った。
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