第2話 私の返事を、先に決めないで
翌朝、ヴァラン伯爵は私を見るなり、気遣うように会釈した。
「イゼル嬢。先に私へ相談してくれればよかったのだが、息子から二人で決めたことだと聞いたのでね。互いに納得した別れなら、私から引き留めることもできない」
私は父の隣へ座らず、一つ空いていた肘掛け椅子を選んだ。ディディエと妹の両方が、よく見える場所だった。
「その説明は、事実と違います。私が婚約を解消したいと言われたのは、昨日です。妹とのことを聞いたのも、昨日でした」
伯爵は息子へ目を向けた。ディディエが答えるより早く、父が笑い声を挟んだ。
「娘も少し動揺しておりまして。気持ちが落ち着けば、二人のために――」
「私の返事を、先に決めないでください」
父の笑いが途切れた。
昨夜、何度も口の中で練習したのに、声は震えた。それでも言えた。私は膝に置いた手を握り、伯爵を見た。
「ディディエ様とミレーヌは、半年前からお付き合いしていたそうです。私は昨日まで、来春に彼と結婚するつもりでおりました」
「ディディエ。それは本当か」
伯爵は、私の顔をうかがっていた息子を名指しした。ディディエは妹の横で身を起こす。
「イゼルを傷つけまいとして、伝えるのが遅くなったのです。気持ちばかりは、どうにもならず……」
「私へは、先月、双方納得のうえで解消したと言ったな」
部屋が静かになった。壁時計の音がやけに近かった。
ディディエは自分の父親を見て、それから私を見た。いつものように、私が間へ入るのを待っていた。彼が訪問の約束を忘れた時にも、贈り物を取り違えた時にも、私は父に「私がそうお願いしたのです」と言ってきた。
今日は何も言わず、彼の返事を待った。
「……先にお許しを頂きたかったのです。イゼルも、最後には分かってくれると思いました」
ミレーヌが彼の袖を掴んだ。昨日、私を置き去りにして寄り添っていた二人が、今は私の顔をうかがっている。
助けてやりたくはなかった。それを恥ずかしいとも思わなかった。
「イゼル嬢、息子に代わってお詫びする。望むなら、従来の婚約を維持する方向で話し合いを――」
「いいえ。婚約は解消してください」
言葉にすると胸が痛んだ。来春の窓辺も、彼と並んで選んだ食器も、自分で諦めるのだ。
けれど、妹を抱いて私に我慢を求めた人と、これから何十年も暮らしたくはなかった。
「そのうえで、理由を正しくお伝えください。私との婚約中に、お二人がお付き合いを始めたからです。先に円満に別れたのではありません。私は二人を祝福してもいません」
「そこまで言わなくてもいいだろう、イゼル」
ディディエが身を乗り出した。
「理由を広めたら、ミレーヌが何を言われるか。君も知っているだろう、噂をする人間は容赦がないんだ」
「私が噂になるのは、構わないの?」
彼は言いかけた口を閉じた。
「婚約者を妹に譲って平気だった姉だと、笑う方もいるでしょう。私には別に好きな人がいたのだと、勝手に考える方もいるでしょう。あなたたちのために、私が黙って引き受けるの?」
昨日の紙が、机の上にあった。父が用意していたのだ。
私はそれを取り、伯爵の前へ置いた。署名欄は空白のままだった。
「私はこれを書くように言われました。こんな気持ちではないと、昨日もお伝えしました」
伯爵が読み終える前に、父の顔が赤くなった。
「家族の中の話を、わざわざお見せすることはない。妹の将来もあるのだぞ」
「私の将来は、昨日なくなってもよかったのに?」
父は眉を寄せた。言い過ぎだと言おうとしているのが分かった。
でも、言い過ぎたのではない。今まで言わなかっただけだ。
「結婚できないことだけではありません。私は、好きな人と暮らすのを楽しみにしていたのです。お父様もご存じだったでしょう。私が食器の見本を持ってきた時、場所を取るから片づけなさいとおっしゃったでしょう」
涙が出た。今度は手巾を持っていたけれど、取り出すのが遅れた。
「一度でも、つらいかと聞いてほしかった。ミレーヌの心配をする前に、私が泣いているのを見てほしかった!」
最後は声が掠れた。伯爵が目を伏せ、ディディエは座り直した。父だけが、困ったように私を見ていた。
その顔に、また妹を慰めるよう頼まれるのだと思った。
「お姉様、お願い。私だって、こんなふうになるとは思わなかったの」
ミレーヌが長椅子から立ち、私のところへ来た。昔、壊してしまった玩具を隠してほしいと頼みに来た時と同じ、鼻にかかった声だった。
「私が悪かったわ。謝るから、伯爵様にはもう気にしていないとおっしゃって。お姉様の言うことなら、きっと聞いてくださるもの」
袖へ伸びてきた手を、私は避けた。妹は宙に残った指を見て、傷ついたように唇を歪める。
「謝るのと引き換えに、嘘をついてほしいのね」
「嘘だなんて。これから、そうなれるでしょう。私たちのために、少しだけ……」
「なれないわ。あなたが私の婚約者と会っていた半年間、私は何も知らずに、あなたの相談に乗っていた。私が選んだリボンをつけて、彼に会いに行った日もあったのね」
ミレーヌは「あのリボンは」と言いかけて、口をつぐんだ。私は色まで覚えていた。妹が喜んだから、同じ色の髪飾りも探してやった。
胸が痛いのに、言葉は止まらなかった。
「あなたに、幸せになってほしかったのよ。それなのに、私から奪っておいて、祝ってくれと言うの? 私はそんな姉にはなれない」
「では、私たちが不幸になればいいの?」
ミレーヌの声が尖った。父がその名を呼び、妹は慌てて俯いたけれど、私は聞こえなかったふりをしなかった。
「昨日は、そう思ったわ。私と同じくらい泣けばいいと思った。今も、あなたのために嘘をついてあげたいとは思わない」
妹が後ずさった。
こんなことを言う姉が、自分にもいるのだと初めて知ったようだった。
「イゼル、ミレーヌを責めるのはやめてくれ。最初に気持ちを伝えられた時、僕が断ればよかったのだから」
ディディエの言葉に、妹が振り向いた。彼は気づかず、私に向かって説明を続けようとする。
「最初に言ったのがどちらでも、あなたが会い続けたのでしょう。私には、あなたにしか守れない約束があったのよ」
私は指輪を外した。昨夜、何度やっても途中で止まったのに、今は最後まで抜けた。
机へ置くと、小さな音がした。ディディエの視線がそこに落ちたまま、戻らなくなった。
伯爵が、署名のない紙を父へ返した。
「この説明は使えません。既に私が知らせた親戚には、息子の説明が事実と違っていたと訂正します。婚約解消の通知も、イゼル嬢のお話に沿って出しましょう」
父は紙を受け取ったまま、伯爵を見た。
「ですが、次の婚礼まで取りやめる必要は。両家の間で話がつけば、花嫁の名を替えるだけで準備は――」
「私が費用を出すのは、息子が誠実に事情を話したからという前提でした。新居の支度も、来春の婚礼も、このままは進められません」
妹が小さく息を吸った。自分が住むつもりだった家の話になって、顔を上げた。
ディディエは父へ近づき、声を落とす。
「父上。もうミレーヌには、東の館を使えると話してしまっています」
「お前自身の館ではない。私へ嘘をついて得た許しだと、今認めたばかりだろう」
伯爵は息子を座らせず、立ったまま説明を聞かせた。家の費用で新居を整える手配は今日止める。婚礼について改めて相談するなら、二人で事実を話し、費用も含めて最初から考えること。
父が間へ入ろうとしたが、伯爵は、まず自分の息子と話すと言って退けた。
「イゼル。君からも、そこまでは望んでいないと言ってくれないか」
ディディエはまた私を頼った。私は自分の指輪を見て、それから彼を見た。
「望んでいないことは、もう自分でお伝えしました。あなたがどうしたいかは、あなたがお話しください」
彼は指輪へ手を伸ばし、拾い上げた。
「こんなふうに終わるとは思わなかった。君とは、穏やかに話ができると思っていたんだ」
「私が我慢すれば、穏やかだったのでしょうね」
声がまた震えた。悔しくて、まだ好きだった自分にも腹が立って、泣きやんだ顔では言えなかった。
「もうしません。婚約も、あなたの代わりに謝ることも、終わりです」
ディディエは指輪を握った。ミレーヌは隣に立っていたけれど、先ほどのようには彼の腕を取らなかった。
私は伯爵に、婚約解消の書面と通知の案文を、今後は自分にも直接送ってほしいと頼んだ。宛先を伝え、席を立つ。父は知らない住所を聞いて、初めて私の荷造りに気づいたようだった。
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