第1話 私も家族です
「イゼル、そんなふうに泣くな。ミレーヌが困っているだろう」
父にそう言われて、私は濡れた頬を手で押さえた。
向かいの長椅子では、妹が私の婚約者に肩を抱かれている。ミレーヌの目元にも涙が浮かんでいたけれど、そちらにはディディエが手巾を差し出した。
私の手巾は、二階の部屋にあった。彼が訪ねてきたと聞いて、急いで下りてきたから。
「すまない、イゼル。君を傷つけたいわけではなかったんだ。ただ、ミレーヌといると、自然に笑えるようになって……」
つい今しがた、彼は私との婚約を解消したいと言った。代わりに妹と結婚したい、と。
来春には、東の館でこの人の妻として暮らすはずだった。新居の食器を選ぶたびに、朝はどんなものを食べるのか、寝坊をしたら笑われるだろうかと考えていた。そのどれもが、向かいに座る妹の暮らしになる。
息を吸おうとすると喉が痛んだ。けれどディディエは、私が何か言う前に妹の肩を撫でた。
「お姉様、ごめんなさい。いけないとは思ったの。でも、好きになってしまったのよ」
「いつから……?」
妹は彼を見上げ、彼は私の父を見た。誰から話すのが一番穏便か、相談しているようだった。
父が小さく咳払いをする。
「半年前から、互いに気持ちが通じていたそうだ。だが、過ぎたことを責めても仕方がない。幸い、両家の縁が切れるわけではないのだしな」
半年前。
ディディエに頼まれて、妹を町の音楽会へ一緒に連れていった頃だ。まだ社交に慣れないミレーヌが退屈しないようにと、彼は何度も話しかけてくれた。優しい人を好きになったと思っていた。
その後、私が帰ったあとにも二人は会っていたのだろうか。病気で訪問できないと届いた手紙の日にも。
「私には、ずっと何も言わずに?」
「言い出す機会を探していたんだ。君は何事も真面目に受け止めるから」
ディディエの声には、私をなだめるような響きがあった。
真面目に受け止めた。婚約を、結婚の約束を、彼が手を握ってくれたことを。そうしなければよかったのだろうか。
涙が顎から落ち、膝の上の手を濡らした。
「お姉様が泣いていらしたら、私、どうしたらいいの」
ミレーヌが顔を覆った。ディディエは慌てて、君は悪くないと囁く。父は私に向かって手のひらを下げ、落ち着くよう促した。
胸の奥に、涙とは別の熱いものがこみ上げた。
「私が泣くのも、いけないのですか」
「そうは言っていない。ただ、妹にもつらい思いをさせるなと言っているんだ」
私は父を見た。妻を亡くしてから、家の中で誰かが泣くたびに困った顔をしていた人。私が妹を慰めると、ほっとして書斎へ戻っていった人。
母の葬儀の夜もそうだった。泣きじゃくるミレーヌを抱いている間、私は声を出して泣けなかった。父は翌朝、「お前がしっかりしてくれて助かった」と頭を撫でてくれた。
あの手がもう一度欲しくて、私はずいぶん長く、しっかりした姉でいた。
「明日はヴァラン伯爵がいらっしゃる」
父は机から一枚の紙を取り、私の前へ置いた。筆跡は父のものだった。
「ディディエ君から話は通してある。お前からも、これを書き写して署名しておきなさい。親戚方への挨拶状にも同じ説明を使う」
私とディディエは、互いの幸せを願って婚約を解消した。その後、彼と妹が心を通わせ、私は二人の結婚を喜んでいる。
並んでいたのは、知らない私の気持ちだった。
「解消したのが先だと、伯爵様にお話ししたの?」
ディディエに尋ねると、彼は一度唇を結んだ。
「順序を細かく説明すれば、父も必要以上に気を悪くする。明日きちんと話がつけば、結果は同じだろう」
「お姉様が祝ってくださったら、誰も悪く言わないわ。私たち、これからも仲のよい姉妹でいられるでしょう?」
妹はようやく私を見た。涙の残る目には、期待があった。
私が頷けば、父は先方に頭を下げずに済む。ディディエは父親に嘘を知られず、ミレーヌは姉を傷つけた花嫁にならずに済む。
そのために、私は昨日まで楽しみにしていた結婚を、自分から喜んで手放したことにされる。
「書きません」
紙を返すと、父は受け取らなかった。机の端から落ちそうになったそれを、私は平らに置き直した。
「イゼル。今は気が昂っているのだろうが、家族のことだぞ」
「私も家族です」
大きな声が出た。父も妹も、驚いて私を見る。
やっと見た、と思ったら、ますます腹が立った。
「私も、お父様の娘です。結婚するつもりだった人に、妹が好きだと言われたのです。それなのに、どうして私が二人を安心させなければいけないの」
ディディエが立ち上がりかけた。差し出された手を見て、私は自分の手を膝の下へ隠した。今触れられたら、まだすがってしまいそうで、それがたまらなく嫌だった。
「明日、私から伯爵様にお話しします。この文章は使わないでください」
立ち上がった拍子に、椅子が床を擦った。妹が肩を揺らし、父はまた私をたしなめようと口を開く。
私は聞かずに部屋を出た。階段の途中で膝が震え、手すりにすがったけれど、戻りはしなかった。
* * *
部屋の棚には、白い陶器の小さな鳥が二羽並んでいた。
婚約が決まった日に、町の市で買ったものだ。新居の窓辺へ置きたいと言うと、ディディエは「君らしいね」と笑った。私はその声まで覚えている。
一羽を包みかけて、手が止まった。二羽を引き離すのが妙に悲しくて、結局、両方を同じ布にくるんだ。
鳥にまで別れてもらうことはない。
旅鞄に服と本を詰め、机の引き出しから預り証を出した。母が遺した貸家一軒の賃料は、成人した去年から私が受け取っている。屋敷を構えられるほどではないが、部屋を借り、食べていくことはできる。
これまで貯めてきた分は、新居で何か必要になった時のためにと思っていた。
もう、私に必要なもののために使おう。
便箋を探すと、従姉のロザリーから届いた手紙が出てきた。町の陶工が、素人にも器作りを教えてくれるらしい。一緒に行こう、と少し癖のある文字で書いてある。
私は婚礼の準備があるからと断った。あの日はミレーヌに、式で着るドレスを選んでほしいとも頼まれていたのだ。
今思えば、私の結婚式に着るつもりがあったのかさえ、分からない。
ロザリーは二年前に夫を亡くし、ここから馬車で二時間ほどの町に住んでいる。余っている客間を貸してほしい。家を出たい。賃料も払いたい。
事情を書こうとしたら、便箋に雫が落ちた。
ディディエが好きだった、と書いたところで、しばらく先へ進めなくなった。
彼が明日、間違いだったと言ってくれたら。
考えただけで、馬鹿みたいに胸が痛んだ。その言葉が欲しい自分が、まだいた。
けれど彼の隣には、泣くたび私が譲るのを待つ妹がいる。父もいる。私が戻れば、きっと三人とも安心するだろう。誰にも怒らず、傷ついたことを忘れたふりをする私を。
私はその中へ、帰りたくなかった。
濡れたところを避けて、手紙を最後まで書いた。夕方のうちに使いへ託し、翌日の午後に馬車を一台借りる手配も頼んだ。返事が来るまで、荷造りを続けることにした。
夜、父が扉の外から声をかけた。
「一晩よく考えなさい。お前は物分かりのよい子だったはずだ」
返事はしなかった。
考えれば考えるほど、あの紙にだけは名前を書けなかった。
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