第16話 好きなままで、別れる
約束の店へ入ると、アドリアンは奥の席から立ち上がった。久しぶりに見る顔が少し痩せたように思えて、昼を食べたのか聞きそうになった。私は挨拶をして、向かいへ座った。
彼が頼んだ菓子は、私の好きな、少し酸味のある林檎の菓子だった。運ばれてきた皿をこちらへ寄せてから、彼は困ったように笑った。
「聞かずに頼んでしまった。今日は、別のがよかった?」
「いいえ。これがいい」
ほんの小さなことなのに、嬉しかった。彼が覚えている好みの中に、まだ私がいる。二人で茶を飲んで、ひどい喧嘩だったねと言えば、この間までのように笑える気がした。
「部屋の方が大事なのかなんて、言って悪かった」
彼は茶碗へ手を伸ばさず、私を見ていた。私は卓の下で握っていた手を、膝に置き直した。
「君が何を残したいのか聞かないで、僕と一緒に来たくないんだと決めつけた」
「私も、この町でも働けるのにと言ったこと、謝りたい。何でもいいから仕事があればいい、という話ではなかったのに」
彼は一度だけ頷いた。すぐに大丈夫だとは言わなかったので、今も傷ついているのだと分かった。
私は茶を一口飲み、何を言うために来たのかを思い出した。謝るためだけではない。この先も、彼と会いたかった。
「でも、私は都へは行かないわ」
「うん。僕も、仕事は引き受ける」
さっきまで少し緩んでいた彼の口元が、また動かなくなった。私は菓子を半分に割ったが、食べずに皿へ戻した。仲直りをしても、この返事は変わらなかった。
「都へ行っても、会いには来られる。休みがあれば――」
彼が言葉を切った。先へ進まないので顔を上げると、卓の端を見つめていた。
「ごめん。まだ、どのくらい時間を取れるか聞いていない。移動に必要な日も、ちゃんと数えていないんだ」
私は頷いた。いつなら、と聞こうと思えば聞けた。帰ってこられないなら私が行く日を探せば、と言うこともできた。それなのに、最初に浮かんだのは、そこまでしても行きたいのね、という言葉だった。
彼の仕事を小さく言ったことを謝ったばかりなのに、まだ、ここに残ると聞きたかった。遠くから会いに来てもらうよりも、明日もこの町で会えると言ってほしかった。
「待つと言ったら、あなたは安心する?」
彼が顔を上げた。私はその目を見て、問いかけ方を間違えたと気づいた。安心する、と言われたら、待てない私を責められたように聞いてしまう。
「ごめんなさい。意地悪な聞き方だった」
「安心はすると思う。でも、それだけを言ってもらって出発するのは……」
彼は手を動かし、茶碗の持ち手へ触れた。以前なら、その手に私の指を重ねていた。今日は、二人とも卓の自分の側から動かなかった。
「君が一緒に来ると考えないようにしているのに、帰る部屋を探すと、まだ君に見せようとしてしまう」
「私は、あなたが戻ってくる日より、行かずに済む理由を考えてしまうわ」
言い終えてから、急に悲しくなった。互いのことをこんなに考えているのに、相手の望む暮らしがそのまま始まるところを、まだ見たくなかった。
彼が来てくれる日を、今ここで一つ決めれば済むとは思えなかった。会えない日が増えるたびに、私ならやめたのにと考える自分を想像した。彼も、来てくれればよかったのにと思いながら、私へ手紙を書くのだろうか。
「このまま、恋人でいる約束はできない」
彼の顔を見るのが怖くて、皿を見た。割った菓子の欠片が、私の方へこぼれていた。
「いつかどちらかが考え直すのを、待っていることになりそうなの。私は、あなたに残ってほしい。行くあなたが好きだと言えるほど、今はまだ……」
そこまで言って、違うと思った。行くから嫌いになったわけではない。彼の顔を見れば、手に触れたくなる。話している声がもう少し続けばいいと思う。
「好きなの。でも、好きなまま、一緒にはいられない」
彼は唇を結んだ。しばらくして、息を吐き、私の名前を呼んだ。
「僕も君が好きだよ。だからって、仕事を断るとは言えない。ここでそう言ったら、あとで君に言わなくていいことまで言ってしまう気がする」
泣きそうになった。断ってほしかった。断ったことを一生恨まれるのは、嫌だった。どちらの言葉も喉へつかえて、私は頷くしかなかった。
「別れよう、イゼル」
「……ええ」
はっきり聞こえたのに、もう一度聞き返したくなった。今日だけ帰るという意味ではなかった。出発まで会わないという約束でもなく、恋人としての約束を終えるのだ。
私は鞄を膝へ引き寄せた。引き留めてくれるのを待っていると思われたくなかったが、すぐに立てるほど脚に力は入らなかった。彼も座ったまま、私が留め具を開けるのを見ていた。
「この本、ありがとう」
茶色い布表紙の案内書を両手で出すと、彼の目が表紙へ落ちた。見たかった場所を話した時と同じ本なのに、重ねた紙はもう挟んでいなかった。
「預けたままでもよかったのに」
「持っていたら、返すために会おうとしてしまうわ」
彼は何も言わずに受け取った。椅子を引く音が、静かな店に思いのほか大きく響いた。
店を出る時、彼の手が私の袖の近くへ伸びた。触れる前に下がったその手を見て、私は自分の鞄を握った。ここで握り返したら、言ったことを全部忘れてしまいそうだった。
帰り道は、曲がり角まで長かった。振り返れば彼がまだいるかもしれないと思いながら、前を向いて歩いた。本のなくなった鞄が腿へ軽く当たるたび、返してしまったことを思い出した。
部屋には鳥が二羽いて、大皿も棚に収まっていた。どれも彼に返さなくていいものだった。机の上の移転案内には、返事の期限が書かれている。私はその紙を手前へ引き寄せたが、文字が滲んで、同じ行を何度も読み直した。
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