第14話 この部屋と、あなた
アドリアンは、私の手紙を机の脇へ置いていた。訪ねるとすぐに椅子を引き、茶を淹れようとした。私は鞄を持ったまま、先に話したいと言った。
「今の話のままでは、都へは行かないわ」
彼が茶碗を置いた。小さな音がして、私まで肩を揺らした。昨日から考えていた言葉なのに、続けるには息を吸い直さなければならなかった。
「あなたといるのが嫌なのではないの。でも、自分がどう暮らすか決められないまま、一緒の部屋へ移るとは言えない」
「別の部屋を借りればいい、ということ?」
「それも含めて考えたかったわ。昨日は、ほとんど話せなかったから」
彼は机の縁へ手をついた。私が座らないので、彼も立ったままだった。向かい合っている距離が、いつもより広く感じられた。
「そこまで、今の部屋を離れたくないのか」
「今の部屋の話はしていないわ」
「でも、ここを離れることになると、君はいつも……」
彼は言いかけて口を閉じた。私は続きを待った。聞かずに済ませたほうがいい気もしたけれど、一度止まった言葉が耳から離れなかった。
「何?」
「僕といるより、あの部屋のほうが大事なのかなと思う」
鞄の持ち手が、指に食い込んだ。食卓をどこへ置くか考え、朝食を半分ずつにしたいと笑った私を、この人は何だと思っていたのだろう。
「それを、比べるの?」
「そういう意味じゃない。ただ、君と一緒にいたくて考えたことを、全部だめだと言われているようで」
「全部だめとは言っていないでしょう。私の案も見てほしかったのよ」
「見たよ」
「見ただけよ。私がそこへ行きたい理由も、別に部屋を持ちたい理由も、もったいないの一言で済ませたわ」
彼が何か言おうとして、また口を閉じた。その沈黙を、私は言い返せないのだと思ってしまった。いったん強くなった声を戻せず、昨日言えなかったことまで続けた。
「あなたは私が来ることだけ決まれば、安心なのね。そのあと、私がどんな一日を過ごすかは、行ってからどうにかすればいいの?」
「そうは言っていない。近くにいれば、一緒に考えられるだろう」
「ここでも、一緒に考えられるでしょう。あなたが残れば」
彼の目が変わった。言ってしまったと分かっても、私は止まれなかった。部屋より大事かと聞くなら、そちらにも聞いてやりたかった。
「この町でも仕事はできるわ。建物を作るのでしょう。わざわざ都へ行かなくても、同じように……」
「同じじゃない」
彼は図面から手を離した。大声ではなかった。けれど、それまで私へ説明しようとしていた声が、急に平らになった。
「何をやりたいか、君には話したつもりだった」
私は彼の手を見た。橋の欄干をたたき、子供の頃に考えた形を空中へ描いた手だった。あの時、私はそんなものができたら歩いてみたいと笑った。彼が何を好きなのか、もっと聞きたいと思っていた。
仕事などどこでも同じだと、私が本当に思っているわけではなかった。傷ついた顔を見て、取り消す言葉が喉まで来た。それでも、先に私を傷つけたのはあなたでしょうと、別の言葉が押し戻した。
「私にだけ、離れるものが何もないみたいに言わないで」
「何もないとは言っていないよ」
「私は、あなたといたいのよ。ここに来たのだって、その話をしたかったからでしょう。それなのに、ついていかなければ、部屋のほうが大事だということになるの?」
彼は目を伏せた。茶碗の脇に置かれた私の手紙が見えた。明日会いたいと書く時には、まだ、彼が抱きしめてくれるところを少し期待していた。
「私が行かなくても、あなたの仕事はもう決まっているのね」
「うん。引き受けた」
「それは、あなたがしたいことだからでしょう。だったら、どうして私が行くかどうかで、好きかどうかを測るの」
最後の言葉は、思ったより大きくなった。隣の部屋で誰かが動く気配がして、私は唇を噛んだ。彼も少し声を落とした。
「応援してくれると思っていたんだ」
「よかったと思ったわ。最初に聞いた時、本当に嬉しかったのよ」
「でも、今は断ってほしいと言っている」
違う、と言おうとして止まった。さっき私は、ここでも同じだと言ったばかりだった。彼が残ると答えれば、傷ついた気持ちを忘れたように抱きつく自分まで、はっきり浮かんだ。
それを見透かされた気がして、顔が熱くなった。私を選んでほしかった。そのために彼が失う仕事を、さっきまで大切だと思って聞いていたのに。
「あなたが行きたいことと、私が寂しいことを、一緒に話したかったの」
「僕だって、君と離れたくない。そのつもりで誘った」
「でも、私が答えを変えるまで、どの話をしても同じところへ戻るでしょう」
彼は答えなかった。私も、自分が彼の違う返事を待っていることを言えなかった。椅子へ座ればもう少し話せるかもしれないのに、膝を曲げることさえできなかった。
彼の袖口が少し折れていた。いつもなら直してやるところだった。こんな時にまで、その腕の中へ入りたいと思うことが、ひどく悔しかった。
「イゼル、少し落ち着いてから」
「今日は、もう一緒にいたくない」
言った途端、彼の顔を見るのがつらくなった。ここを出ても、彼は仕事を断らない。追いかけてきてほしいと言う代わりに帰るのだと、思われたくもなかった。
「帰るわ」
彼は道を空けた。扉へ手をかけた時、背後で私の名を呼ばれたが、その先は続かなかった。私は振り向かず、廊下へ出た。
帰り道のことは、あまり覚えていなかった。階段を上り、鍵を開けたところで足から力が抜けた。鞄を下ろすより先に、床へ座ってしまった。
しばらくして立ち上がり、窓を開けた。冷たい空気が頬に当たり、通りの声が入ってきた。好きだった匂いも、鳥を置いた窓辺も、ちゃんとここにあるのに、息を吸うたび胸が痛んだ。
次にいつ会うか、決めていなかった。机へ手をつくと、彼が座った椅子が見えた。あそこへ戻ってきてほしい。でも、今日の言葉を聞かなかったことにはできない。
窓を閉めようとして、指が留め金にうまくかからなかった。もう片方の手で押さえ、ようやく閉じてから、私は声を出して泣いた。
面白かったら評価、ブックマークいただけると嬉しいです。




