第13話 私の場所がない部屋
翌日、アドリアンの机には、都の部屋の間取りが広げてあった。私が椅子へ座ると、彼は紙の角をこちらへ回した。窓が二つ並び、その手前には食卓を置けそうな空きがある。
「思ったより、広いのね」
「僕もそう思った。ここを作業に使っても、窓の前は空けられる」
「食卓を置いたら、朝、明るそう」
言うと、彼は嬉しそうに頷いた。朝食の途中で手を伸ばし、彼の髪の寝癖を直すところを考えてしまった。私が気づいていないだけで、彼もこんなふうに二人の暮らしを想像していたのかもしれない。
「もう、借りると決まっているの?」
「まだ。空いていると聞いて、案内を送ってもらっただけだよ。君が見る前に契約するつもりはない」
私は息をつき、窓の前へ指を置いた。彼は仕事場まで歩いて行ける距離だと説明し、帰るのが遅くても楽だと言った。
「遅い日は、多いの?」
「最初は続くと思う。現場から戻って、次の日の図面を直すこともあるし」
「食事は?」
「先に食べていてくれていいよ。待たせる日ばかりにはしたくないけれど」
私は窓から手を離した。朝と夜に会えると思っていた。その夜にも、一人で食べ終えて、冷めた皿を片づける時間がある。働くのだから当然なのに、彼の話す便利さの中に、私が昼を過ごす場所はまだなかった。
「私も、調べたの」
鞄から紙を出した。工房のある通りと、貸間を探せそうなあたりを説明する。彼が選んだ建物の位置を重ねて確かめようとしたが、私が写した地図の範囲からは少し外れていた。
「ここなら、教えてもらえるかもしれない。まだ曜日は聞いていないのだけれど」
「少し遠いな。もっと近くにもあるんじゃないかな」
「あるかもしれないわ。でも、この工房には一度行ってみたいの。それで、こちらに小さい部屋を借りる案も考えたのよ」
彼が私の紙を押さえていた指を止めた。
「別に住むの?」
「それも、一つの案として」
「一緒に来るのに、わざわざ?」
がっかりした声だった。私は慌てて、毎日会いたくないのではないと言った。彼の仕事場から遠すぎるなら、間にある通りも調べられる。休日には一緒に過ごせるし、私から訪ねていくのだって楽しみだと思う。
説明するほど、彼の顔から笑みが消えた。私は別の部屋で何をしたいのかを話したかったはずなのに、あなたが嫌なわけではないと、何度も言っていた。
「同じ家にいて、自分のことをすればいいと思っていた。君の机だって置けるよ」
「ええ。それもいいと思う。でも、一緒に住むと決める前に、別の部屋ならどうかも話したかったの」
「僕の帰りが遅いから?」
「それだけではないわ」
彼と同じ家へ帰りたい気持ちは、今もあった。肩を寄せて本を読み、眠くなったら話の途中でも目を閉じてみたい。それを伝えれば、ではそうしようと、この紙を片づけられてしまいそうだった。
私は自分の紙を手前へ引いた。彼の間取りの下に半分入り込んでいた角が折れ、指で伸ばしても跡が残った。
「家賃を二つ払うのは、もったいないだろう」
「費用は、調べるつもりよ」
「そこまでしなくても、僕が払える。この部屋なら、君を困らせずにやっていけると思うんだ」
彼は真剣だった。仕事の条件を聞いて、計算もしたのだろう。自分が働けば私を連れていけると、嬉しく思ってくれたのかもしれない。
私はその気持ちまでいらないとは言えず、しばらく茶碗を見ていた。彼が淹れてくれた茶は、ほとんど減っていなかった。
「私にも、貸家からの収入があるわ。今の暮らしも、それで払えているの」
「知っているよ。でも、都では出費も増える」
「それを、私も考えてきたのよ」
少し強い声になった。彼は口を閉じ、私の紙へ目を落とした。右端には、仕事が終わる時刻を聞きたいと書いてあった。その一つは、今日初めて分かったところだった。
「あなたに何もしてほしくないわけではないの。一緒に行ったら私がどんなふうに暮らすか、話す時間が欲しい。払えるから大丈夫と、先に終わらせないで」
「終わらせているつもりはないよ。心配を一つ減らせると思ったんだ」
「私が心配しているところを、まだ聞いていないでしょう」
彼は眉を寄せ、間取りの端を畳みかけた。私はそれを見て、もう見せるのも嫌になったのかと思った。彼の手が途中で止まり、紙は半分浮いたままになった。
「困ることがないようにしたかっただけなんだけれど」
「私も、困らせたくて別の案を持ってきたのではないわ」
言葉が強くなるたび、彼が遠くなった。笑って肩へ触れれば、少なくとも今夜はまた近づける気がした。彼の指を見ると、本当に触れたくなった。けれど今そうしたら、相談したかったことを置いたまま帰ることになる。
「今日は、決められない」
彼は頷いた。私は自分の紙だけ畳み、鞄へ入れた。玄関で頬へ触れられるのを待ちかけたが、彼もその手を出さなかった。
部屋へ帰り、棚から青い器を下ろした。都へ持っていくなら、どれくらい布が要るだろう。机に布を広げて器を載せ、端を持ち上げたところで手が止まった。
あの部屋の窓に置いたら、底の青はどう見えるだろう。彼の帰りを待つ間、この器で一人分の茶を飲むだろうか。想像した途端、午後に言いきれなかったことが、また喉へ戻ってきた。
今の窓とも、いずれは別れる。ここだけが好きだから動きたくないのではなかった。知らない町でしてみたいことはあるし、彼と暮らしてみたいとも思った。それなのに、今日の私は、持ってきた案を説明するより、彼を安心させることに忙しかった。
私は布を開き、器を棚へ戻した。今話している形のままなら、一緒には行けない。そう伝えればまた彼をがっかりさせると分かっていて、しばらく便箋へ手を伸ばせなかった。
明日、もう一度会って話したい。短く書き、封をした。同行を断る言葉は、紙の中に隠して送らず、自分の声で言うことにした。
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