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『環状霊脈線、つばめ食堂はじめます』~元・車内販売員の異世界各駅停車~  作者: 夕凪 鏡介


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第9話 錆鉄駅の二杯目のポタージュ


「次は――」


 チャイの声がした。

 わたしは、また止まるのだろうと思って、聞き流しかけた。


「次は、錆鉄駅。錆鉄駅です」


 手が止まった。


「言えたの」

「……はい」

 銀の人形は、自分の口のあたりを見るような仕草をした。

「なぜでしょう」

「分からない?」

「分かりません。ただ、出てまいりました」


 窓の外が、明るくなった。



 降りたホームに、灯りがあった。


 第一に、それが違った。

 最初に降りた日、この駅には灯りがひとつもなかった。風が錆びた鉄板を鳴らす音だけがしていた。

 いまは、ランプが三つ点いている。ホームの端と、改札の脇と、階段の下。


 人がいた。

 多くはない。荷を担いだ旅人が二人、階段を上っていく。そのうしろから、若い夫婦らしい二人連れ。

 それだけだ。市が立つわけでもない。声が飛び交うわけでもない。


 それでも、ゼロとは違った。


 山の斜面に、大きな影があった。


 止まったままの巻き上げ機の、その隣。

 灰がかった緑のうろこが、月明かりを鈍く返している。翼は畳まれていた。


 わたしは足を止めた。


 ――来たんですね。


 声はかけなかった。かける必要がなかった。

 喉の奥で、低い音が鳴った。乱れていない、太い低音だった。それだけで、じゅうぶんだった。



 ホームの端に、ひとりだけ、動かない人がいた。


 背中の丸い、老婆だった。

 灰色の制帽。色のあせた駅員の上着。

 その人は、階段を上っていく旅人たちに向かって、深々と一礼していた。


 最初の日は、誰も乗らない列車に礼をしていた。

 いまは、人に礼をしている。


「駅長さん」


 振り返るのに、前より時間がかかった。


「……来たね」

 ゴルダは言った。

「来ました」

「遅い」

「すみません」

「どれだけ回った」

「七つです」

 わたしは答えた。

「ここを入れて、八つ目」


 ゴルダが、笑った。

 笑うと、しわの入り方が前と変わっていた。


 わたしは、その人の上着のボタンを見た。

 いちばん上まで、留まっている。



 改札を抜けるとき、掲示板を見た。


 時刻表が、新しくなっていた。

 最初の日は、消えかけた文字の上から何度もなぞり書きされた紙だった。いまは、白い紙に濃い墨で書かれている。列も増えていた。


「誰が書いたんですか」

「若いのが書いた。字がうまくてね」

「わしの字は、もう震えて読めん」


 その紙の、いちばん下。

 欄外に、小さく署名があった。


 ――駅長 ゴルダ。


 そこだけ、古い紙のままだった。

 新しい紙を貼るときに、その部分だけ切り抜いて、貼り継いである。文字はかすれていた。


 ゴルダが、指でそこをなぞった。

 なぞる指が、震えていた。


「書き直さないんですか」

「いい」

 短かった。

「これでいい」


 それ以上、聞かなかった。



 ホームの脇の畑を見に行った。


 最初に降りた日、そこは誰にも収穫されないまま育ちすぎた畑だった。白い根菜が、地面から肩をいからせるように顔を出していた。

 いまは、畝ができていた。


 列が揃っている。雑草が抜かれている。育ちすぎたものは間引かれ、小ぶりのものが行儀よく並んでいた。

 葉が、青い。

 最初の日は、葉のことなど気にも留めなかった。伸び放題で、土をかぶって、灰色をしていた。


 いま、それは青かった。


「手を入れてるんですね」

「あの人がね」


 ゴルダが顎で示したほうを見た。


 ランプの前に、男がひとり立っていた。



 獣人だった。


 ラクダに似た顔立ち。バハルさんと同じ種族だと、すぐに分かった。

 ただ、体つきが違った。バハルさんより肩が薄く、背が高い。外套は継ぎ当てだらけで、それを丁寧に繕った跡があった。


 男は、ランプの油を差していた。


 わたしは、その手つきを見た。

 油の缶を傾ける。少し入れる。やめる。ランプの中を覗く。また少し入れる。

 なみなみとは、入れない。


「もっと入れていいんですよ」

 声をかけると、男の肩が跳ねた。


「……いえ」

 振り返った顔は、思ったより若かった。いや、若いのではない。疲れているせいで年が読めない顔だった。

「これは、自分の油ではないので」


 自分。


「駅長さんのですか」

「そうです」

 男は缶の蓋を閉めた。

「駅長は、なみなみと入れろとおっしゃいます。切らしたことがないのが自慢だと。ですが、自分が勝手に減らすわけには」


 ランプの中で、火が細く揺れていた。

 入れ足りないから、細い。


「お名前を聞いても」

 男は、少し黙った。


「ハキム、と申します」



 息が止まりかけた。


 顔に出さないようにした。出さないようにしたつもりだったが、たぶん出た。


「ご存じですか」

 ハキムさんが言った。

「……いえ」

 嘘をついた。


 わたしは、この人の名前を、砂漠で聞いている。

 二十年連れ添った相棒がいた。砂嵐で隊が足止めされ、三十人が飢えかけたとき、その人は相棒の積荷を無断で売った。誰も死ななかった。相棒の顔を見るなり、地面に頭をつけて詫びた。

 その相棒は、いま、この人を探している。


 言えばいい。

 三十秒で終わる話だ。バハルさんは怒っていない、探している、と伝えれば、この人の何年かが片づく。


 喉まで出かかって、飲み込んだ。


 ――わたしが言ったら、この人は、わたしのために受け取ってしまう。


 根拠のない直感だった。

 でも、七年ぶん人の顔を見てきた目が、そう言っていた。この人は、他人の善意を断れない。断れないから、受け取ったふりをする。そういう顔をしている。


「厨房を貸してもらえますか」

 わたしは言った。

「かまどが、車内にあるので。そちらへ来てください」



 棚を開けた。


 月光の穀物の穂の束。バハルさんが積んでくれたものだ。もう光ってはいない。ただの丸い粒だった。

 砂漠の塩の塊。布に包んである。

 それから、ずっと使わずにいるものが、いくつか。


 いびつな丸型。縁がひしゃげている。

 革の水筒。

 詩の紙束。


 指先で、紙束の端に触れた。

 まだ、誰にも渡していない。


 棚を閉めて、コーンスープの素を探した。


 ない。

 分かっていた。あれは、わたしが元いた世界から持ってきた最後のひと袋だった。賞味期限は、あの日の翌日までだった。もう、どこにもない。


 二度と、同じものは作れない。


「お客様」

 チャイが、盆を傾けた。

「あの日と、同じものをお出しになるのですか」

「無理だよ」

「では」

「近いものなら、作れると思う」



 鉄蕪を抜きに行った。


 ゴルダとハキムさんが、ついてきた。

 抜き方をゴルダが教えてくれた。葉の付け根を持って、まっすぐ上に。斜めに引くと折れる。


「葉は」

 わたしが聞くと、ゴルダの手が止まった。

「捨てるよ。硬いだけだ」

「もらっていいですか」

「好きにおし」


 畑の土は、湿っていた。

 最初の日、この土は乾いて白かった。



 かまどに火を入れた。


 月光の穀物を、鍋に入れる。水を多めに。

 穀物の粒が、水の中でゆっくり回りはじめた。


「これは、炊くのですか」

 ハキムさんが聞いた。

「炊くというか、崩します」

「崩す」

「粒がなくなるまで煮ます。時間がかかります」


 ゴルダが、火の前に腰を下ろした。

 ハキムさんも、少し離れて座った。


 わたしは、説明をやめた。


 言葉で言っても、たぶん伝わらない。この人たちに渡したいのは手順ではなかった。


「音が変わるまで、待ちます」


 それだけ言った。


 鍋の中で、水が沸いた。最初は、ぱたぱたと軽い音がしていた。

 しばらくして、その音が重くなった。粘りが出はじめた合図だった。


「変わった」

 ゴルダが言った。

「そうです」

「なんで分かるんだ、こんなもので」

「わたしも、最初は分かりませんでした」


 鉄蕪を切って、入れた。

 ひと口大に。最初の日と同じ大きさに。


 白い根菜が、白い粥の中に沈んでいく。境目が、だんだん分からなくなった。


 匂いが立った。


 ――甘い。


 砂糖の甘さではない。穀物と根菜が、どちらも自分の奥にしまっていた甘さを、火に急かされて出しているような匂いだった。


「これは」

 ハキムさんが、鍋を覗き込んだ。

「これは、何の匂いですか」

「あなたの畑の匂いですよ」


 彼は、答えなかった。

 ただ、少しだけ、鍋に近づいた。


 塩を入れた。砂漠の塩をひとつまみ。

 味を見た。まだ足りない。もうひとつまみ。


「なめてみてください」

 ゴルダに小指を差し出した。老婆は素直になめて、渋い顔をした。

「しょっぱい」

「そうです。ここでやめます。これ以上入れると、明日には塩の味しかしなくなります」


 嘘ではなかった。冷めてから塩気は立つ。

 でも、本当に伝えたかったのは、そこではなかった。


 ――足りないくらいで、やめる。


 最後に、鉄蕪の葉を刻んだ。

 細かく、細かく。青い匂いが指に移った。


 白い粥の上に、それを散らした。

 熱に触れて、青い匂いが、湯気と一緒に立ち上がった。


 最初の日、わたしはここに、凍りかけた岩塩を削って散らした。冷たいものだった。

 今日は、青いものを散らした。



「……あったかい」


 ゴルダは、そう言わなかった。


 器を受け取って、ひと口すすって、それから、笑った。

 泣かなかった。

 湯気の向こうで、目を細めて、いかにも普通に笑った。


「うまい」

「よかったです」

「前より、うまいよ」


 わたしは、少し驚いた。


「前のは、なんというか」

 ゴルダは、言葉を探した。

「効いた。薬みたいに効いた。あれがないと、わしはあの晩、死んでたかもしれん」

「……はい」

「今日のは、効かない」

 もうひと口すすった。

「ただ、うまい」


 それは、たぶん、いちばんいい言葉だった。


 ハキムさんも、器を持っていた。

 持ったまま、少しのあいだ、口をつけなかった。



「駅長」


 ゴルダが、器を置いた。


 膝の上に、布の包みがあった。いつの間にか持ってきていた。

 包みを開いた。


 制帽だった。

 灰色の、ゴルダのものと同じ形。ただし、こちらは色があせていない。使われた跡がない。


「取っておいたんだ」

 ゴルダは言った。

「わしのが古くなったとき用に、昔もらった予備でね。使わずにきた。今日まで」


 制帽を、ハキムさんのほうへ押した。


 ハキムさんは、動かなかった。


「……いただけません」

「あんた、もう油を差してるじゃないか」

「差しています。ですが、それは、勝手に手伝っているだけです」

「同じことだ」

「違います」


 声が、初めて強くなった。


「自分は」

 彼は、器を両手で持ったまま言った。

「人の荷を、勝手に売った男です」


 ゴルダは、黙っていた。


「二十年、一緒に砂を渡った相手がいました。その男の積荷を、断りもなく売りました。事情はありました。ですが、事情があれば勝手に売っていいことにはなりません」

 器の中で、湯気が細くなっていた。

「あれから、待っていました。あの男が追ってきて、自分を殴るなり、切るなりしてくれるのを。そうしてくれたら、終われた」


 ――終われた。


「でも、来ませんでした。誰も、自分を罰しに来ない」

 彼は、笑おうとして失敗した顔をした。

「そのうちに、こういうところに流れ着いて。駅長は、自分に飯を食わせて、寝る場所をくれて、いまは帽子までくださろうとしている」


 声が、震えた。


「怖いんです」

「何が」

「罰されないまま、あたたかいところに置かれるのが」


 誰も、何も言わなかった。


 わたしは、口を開かなかった。

 開きかけて、やめた。


 ――言うな。


 言えば、この人は受け取ってしまう。わたしのために。

 この人が受け取るべき言葉は、わたしの口から出るものではない。



 ハキムさんが、器を持ち上げた。


 そして、飲んだ。

 最初はゆっくり、途中から、止まらなくなったように。


 一度も口を離さなかった。

 喉が動くのが、外套の襟の上から見えた。


 器が空になった。


 コトン、と。

 彼はそれを、板の上に置いた。



 その音を合図にしたように、ゴルダが口を開いた。


「わしはね」


 最初の日と、同じ出だしだった。

 でも、そのあとに続いた言葉は、あの晩とは違った。


「二十二年、この駅を開けた」

 ゴルダは、自分の手のひらを見ていた。

「鉱山が枯れて、みんな出ていって、それでも毎朝、開けた。ランプに油を差して、ホームを掃いて、来ない列車に礼をした」

「……はい」

「あのころ、わしに何の資格があった」


 ハキムさんが、顔を上げた。


「駅を預かる資格なんぞ、とっくになかったよ。乗る者も降りる者もいない駅の駅長なんて、ただの、片づけられない年寄りだ」

 ゴルダは、そこで少し笑った。

「わしは、この駅を看取るつもりだったんだ。最後の一人として、こいつが死ぬのを見届けて、それからわしも終わる。そういう筋書きだった」


 わたしは、器を持つ手に力が入った。


「ところが、こいつは生き返っちまった」

 ゴルダは、ホームのほうを見た。灯りが三つ、点いている。

「生き返ったなら、順番が逆になる。わしのほうが先に死ぬ。わしが死んだら、ここはまた、誰も開けない駅に戻る」


「それは」

 ハキムさんが、何か言いかけた。


「だから、あんたに帽子をやりたいんだ」

 ゴルダは、遮った。

「でもね。これは、ひどい話なんだよ」


 老婆は、制帽を見下ろした。


「わしが勝手に生き返らせた駅を、わしが死んだあとに、あんたが背負うことになる。あんたはただ、流れてきただけなのに。

 わしのわがままだ。人ひとりの残りの一生を、わしの都合で縛ろうとしてる」


 ――そういうことか。


 わたしは、そこで初めて分かった。

 この人が制帽を渡せなかったのは、渡す相手がいなかったからではない。渡すこと自体が、この人にとって、後ろめたいことだったのだ。


「だから」

 ゴルダは言った。

「断ってくれてよかった。……と、思ったよ。さっき」

「駅長」

「でもね」


 老婆は、顔を上げた。


「資格の話を、あんたがするなら、わしは言い返す」


 しわの奥の目が、まっすぐハキムさんを見ていた。


「わしには資格がなかった。それでも開けた。二十二年、誰も来ない駅を開け続けた。

 ――そうしたら、来たんだよ」


 その言葉が、湯気の上を渡った。


「資格があったから、来たんじゃない。開けてたから、来たんだ。順番はそっちだ」

「……」

「あんたは、罰されるのを待って、ここにいる。待つのは、わしの専門だ」


 ゴルダは、制帽をもう一度、押した。


「待つなら、開けながら待ちな。そのほうが、来る」



 ハキムさんは、しばらく動かなかった。

 肩が、一度だけ大きく上下した。


 それから、両手を出した。

 受け取る手つきではなかった。押し返すのでもなかった。ただ、出した。


 ゴルダが、その手に載せた。


 彼は制帽を膝の上に置いて、しばらく見ていた。

 そして、かぶった。


 少し、大きかった。

 耳のところで止まった。


 ゴルダが、声を出して笑った。



 外に出ると、山の斜面の影が、少しだけ動いていた。


 喉の奥の低い音が、こちらまで届いた。

 乱れていない音だった。


 ゴルダが、その方角に向かって、頭を下げた。


「あの人はね」

 老婆が言った。

「毎晩、あそこで空の話をしてくれるんだ。何を言ってるかは、半分も分からんがね」

「分かるんですか、半分は」

「音でね」


 それだけだった。


 わたしは、少し笑った。



 発車のベルが鳴った。


 ホームに立ったハキムさんが、大きすぎる制帽を押さえながら、深く一礼した。

 ゴルダが、その隣で同じように礼をした。


 二人ぶんの礼だった。

 最初の日は、一人ぶんだった。


 列車が動き出したとき、階段の下に、影が見えた。


 荷を担いだ、背の低い獣人。

 肩幅の広い、外套の男。


 荷紐が、一重に結ばれていた。

 その端が、歩くたびに揺れていた。


 わたしは、窓から離れた。


 ――見なくていい。


 あれは、わたしが見るものではなかった。



 車内に戻った。


 棚に、鉄蕪が積んであった。運びきれないほど。ゴルダはいつもそうだ。

 葉のついたまま、置いてある。青い匂いがした。


 かまどの前を通った。


 足が止まった。


 ――寒い。


 手を伸ばした。

 鉄の壁に触れた。


 冷たかった。


 さっきまで火を入れていたのだから、まだ熱が残っているはずだった。残っていなかった。冷蔵庫の扉のように、指が吸いつくほど冷えていた。


 炉を覗いた。


 灯っていなかった。

 完全な、暗がりだった。


「チャイ」

 わたしは呼んだ。

「チャイ。燃料が」


 銀の人形は、盆を抱えたまま、そこに立っていた。

 窓の外を見ていた。


「……申し訳ございません」

「なんで。今日、二人とも」

「はい」

「満たしたよね。ゴルダさんも、ハキムさんも」

「はい。満たされておいでです」


 チャイは、こちらを見なかった。


「では、なぜ」

 わたしは聞いた。


 答えは、なかった。


 列車は、惰性で走っていた。

 速度が、少しずつ落ちていくのが、足の裏で分かった。


「次は――」


 チャイが言った。


 そのあとは、何も続かなかった。


 車両の奥は、ことりとも鳴らなかった。





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