第10話 停車場のない夜
速度が、落ちていく。
足の裏で、それが分かった。
七年間、揺れの上に立ってきた。ワゴンを押すとき、体は勝手に列車の速さを読んでいた。加速、減速、止まる前のあの沈み込み。目をつぶっていても分かった。
その体が、いま、言っている。
――止まる。
窓の外を見た。
何もなかった。
星も、線路の光も、ホームの灯りもない。ただ、黒い。夜という言葉ではまだ足りない、色のない黒だった。
車輪が、最後にひとつ、きしんだ。
止まった。
揺れが、消えた。
東海道でも、この世界でも、ずっと足の裏にあった細かな振動。それが、ふつりとなくなった。
こんなに静かなのは、初めてだった。
自分の息の音だけが、やけに大きく聞こえた。
窓に手を当てた。
ガラスは冷たくなかった。
あの日、初めてこの世界に降りたとき、頬に触れる空気は冷蔵庫を開けた瞬間のように冷たかった。いまは、その冷たささえ伝わってこない。外に、何もないからだ。寒さも、風も、夜の匂いもない。ただ、黒い。
このまま動かなければ、どこにも着かない。永遠に、この黒のなかにいることになる。
窓から手を離した。
「チャイ」
振り返って、呼んだ。
銀の人形は通路の真ん中に浮いていた。
いつもの位置。いつものように、盆を抱えている。
でも、様子が違った。
盆の上に、湯呑みがひとつ載っている。それがかたかたと鳴っていた。
チャイの手が震えている。盆を支える力が抜けかけている。
「どうしたの」
「……申し訳、ございません」
「なんで謝るの」
「分かりません」
いつもの、あの声だった。抑揚のない、車内アナウンスの声。
でも、その下に、何か別のものが混じっていた。
「動かないの、この列車」
「……はい」
「満たしたよね。ゴルダさんも、ハキムさんも。あなたも、満たされてるって言った」
「はい。みなさま、満たされておいでです」
「じゃあ、なんで」
チャイは答えなかった。
湯呑みが、また鳴った。
わたしは厨房へ向かおうとした。
止まったなら、また誰かを満たせばいい。体が、そう動いた。誰かが腹を空かせているなら、作る。それが、わたしの仕事だ。
三歩、歩いて、止まった。
――誰を。
この車内に、客はいない。ゴルダもハキムも、駅に残った。乗っているのは、わたしと、チャイだけだ。
振り返った。
銀の人形が盆を抱えて、震えている。
「……あなた、なの」
わたしは言った。
「満たされてないの、あなたなの」
チャイの手が止まった。
湯呑みの音が、やんだ。
「わたくしは」
初めて、この子が「わたくし」と言うのを長く聞いた気がした。
「わたくしは、器でございます」
「器」
「みなさまの『ありがとう』を、入れていただくための。……器は、中身が満ちれば、役目を終えます」
ことり、と何かが胸に落ちた。第1話で聞いた燃料が灯るあの音に、少し似ていた。
「今日、満ちたの」
「……はい。たぶん」
「なんで、今日」
チャイは少し黙った。
それからゆっくりと言った。
「あの駅長さんは、あとを継ぐ人を、見つけられました」
「ハキムさん」
「はい。もう、あの駅は、わたくしどもが行かなくても、続きます。あの方は、満たされて、それから、わたくしを、必要となさらなくなりました」
抑揚のない声のまま、チャイは続けた。
「わたくしは、ずっと、そうでした。みなさまを満たすほど、みなさまは、わたくしを要らなくなってまいります。満たすというのは、そういうことです」
「……」
「うまく働くほど、わたくしは、要らなくなる」
泣いてはいなかった。
声を荒らげもしなかった。ただ、事実を並べるように、そう言った。
それが、いちばん、こたえた。
わたしはこの子のことを何も知らなかった。
九つの駅を、ずっと一緒に回ってきた。どの駅でも、この子が扉の前で「次は――」と言って、わたしを降ろしてくれた。料理を出すあいだ、盆を抱えて待っていてくれた。
なのに一度も、この子が満たされているかを考えたことがなかった。満たすのは、いつも駅の客だと思っていた。
この子も、客だったのに。
「お腹、空いてる」
わたしは聞いた。
馬鹿な質問だと言った自分でも思った。チャイは付喪神で、九つの駅をともに回って、一度も食べたところを見ていない。食べられないのだ。
「わたくしは、食べられません」
「知ってる」
「では」
「でも、作る」
わたしは厨房に入った。
棚を開けた。
月光の穀物がまだ少し残っていた。バハルさんが積んでくれたものだ。
いびつな丸型を出した。コッペルさんがくれた、縁のひしゃげた菓子の型。もう何度も、鍋の代わりに使っている。
革の水筒を出した。バハルさんの餞別。「一つは、人にやるためのもの」と言って、渡された革。
火を熾した。
止まった列車の中でも、かまどの火はついた。それだけが、揺れない車内で動いているものだった。
月光の穀物を、型に入れた。
油はひかない。から炒りにする。
型を火にかけると、しばらくして、穀物が音を立てはじめた。
ぱち、ぱち、と。
小さく、跳ねる。乾いた、明るい音だった。
「……音が」
チャイが言った。
「はい。炒れてる音です」
香りが立った。
香ばしい。炒った穀物の、香ばしくて奥のほうが少し甘い匂い。米を炒ったときの、あの匂いに似ていた。
じゅうぶんに色づいたところで、革の水筒の水を注いだ。
じゅっ、と大きな音がして、湯気が一気に立った。
白い湯気が止まった車内をゆっくり昇っていく。
わたしはそれを二つの器に注いだ。
ひとつを、自分の前に。もうひとつを、チャイの前に置いた。
香ばしい、穀物の茶だった。
「わたくしは、飲めません」
「うん」
「なぜ、二つ」
「わたしが、飲むから」
わたしは自分の器を持ち上げた。
――そういえば。
七年と、この世界での旅。わたしはずっと、人に出してきた。缶を渡し、袋を渡し、器を渡した。
自分のために、一杯を淹れたことは、あっただろうか。
なかった。
たぶん、一度も。
初めて自分のために淹れた一杯をひと口飲んだ。
香ばしくて、甘くて、少しだけ土の匂いがした。
――おいしい。
「あなたは、飲めない」
わたしは言った。
「でも、湯気は、分けられる」
器をチャイのほうへ、少し傾けた。
白い湯気が銀の人形のほうへ、細く流れていった。
チャイはそれを見ていた。
ふと、足の裏に気づいた。
揺れていない。
ずっと、揺れの上にいた。東海道でも、この世界でも。立っているだけで、体のどこかがいつも小さく揺れていた。
止まって、初めて分かった。
わたしはあの揺れが、好きだったのだ。あの揺れの中に、いたかったのだ。
「チャイ」
わたしは言った。
「わたし、ずっと考えてた。どこで降りればいいんだろうって」
第1話で暖簾を掛けたとき。終点のない線路の上で、わたしはそれを、口に出せなかった。
「でも、分かった。降りる駅なんて、なかったんだ」
「……」
「わたしの駅は、この列車だった。走ってる、これが」
棚から、詩人の紙束を出した。
まだ、誰にも渡していない。ずっと、そのままだった。
開いてみた。
知らない文字が並んでいた。詩人の字だ。読めない言葉もあった。
でも、一枚だけ見覚えのある言葉があった。
――ゆきて、かえらぬものばかり。
チャイがいつか口にした言葉だった。誰の言葉かも、いつのものかも分からない、と言っていた、あの断片。
「これ、ここにあったんだね」
わたしはその紙を見せた。
「あなたの言葉、ここから来てたんだ」
チャイはしばらく、その字を見ていた。
「あなたは、わたしを、お客様って呼ぶよね」
「……はい」
「でも、お客さんは、いつか降りる。あなたが満たした人は、みんな、降りていった」
「……はい」
「わたしは、降りない」
チャイがこちらを見た。
「あなたは、これからも、誰かを満たす。満たすたびに、その人は降りていく。あなたは、また、ひとりになる」
わたしは銀の人形の前に、しゃがんだ。
「そのたびに、寂しくなるなら。その隣に、わたしがいる。ずっと。わたしは、降りないから」
「それは」
チャイの声が、少しかすれた。
「それは、お客様の、なさることでは」
「うん。だから、わたし、お客さんじゃない」
わたしは手を差し出した。
「あなたのお客さんじゃなくて。……一緒に走る人だよ」
銀の小さな手が、わたしの指に触れた。
冷たかった。金属の冷たさだった。
でも、その手が、ゆっくりと、わたしの指を握り返した。
握られたところから、わたしの熱が、少しずつ、その手に移っていった。
チャイの、盆を持つ手に、力が入った。
傾きかけていた盆の縁を、銀の指が、ぎりっと握り直した。小さな、擦れる音がした。
「……お客様」
「うん」
「いえ」
チャイは言い直した。
初めて聞く、間だった。
この子が、言葉を探しているように見えた。借り物ではない言葉を。自分の中の、どこにもしまわれていない言葉を。
「……ご乗車、ねがいます」
それが、チャイの言葉だった。
いつも次の駅を告げるときに添える、あの定型。降りる人へ向けた言葉。
それを、初めて、逆に使った。
降りないでほしい、と。乗っていてほしい、と。
ことり、と。
車両の奥で、何かが灯る音がした。
第1話で聞いた、あの音だった。
「……灯りました」
チャイが言った。
声はいつものアナウンスに戻っていた。でも、震えは止まっていた。
「燃料が、灯りました」
揺れが、戻ってきた。
足の裏に、あの細かな振動が、ゆっくりと。
列車が動き出した。
窓の外が白みはじめていた。
黒だけだった外に、遠く地平線のようなものが見えた。そのむこうが、うっすらと明るい。
夜が明けようとしていた。
わたしは厨房の入り口の暖簾に触れた。
つばめ食堂。あの日、何者でもなかった布に、墨で書いた名前。
――終点のない線路。だったら、わたしはどこで降りればいいんだろう。
あの問いに、いま、答えられる。
降りなくていい。
ここが、わたしの駅だ。
「次は――」
チャイの声が、車内に響いた。
いつものアナウンス。でも、そのあとが、少し違った。
「次は――、どこでしょうね」
「分からないの」
「はい。分かりません」
銀の人形は、明るくなっていく空を見ていた。
「でも、行きます。二人で」
朝の光が、銀色の肩に差した。
わたしは笑った。
器に残った茶を飲み干した。
まだ、あたたかかった。




