第11話 風待ち駅のパン粥
「次は――」
チャイの声が続きを持たないまま、宙に浮いていた。
「どこでしょうね」
「はい。分かりません」
「でも」
「でも、行きます。二人で」
わたしは、それを聞きながら笑った。
窓の外に、灰色の空が見えはじめていた。
列車が、ゆっくり速度を落としていく。
チャイが先に扉のほうへ動きかけて、途中で止まった。わたしを見る。
行き先を決めるのは、もう、チャイひとりの仕事じゃない。
わたしたちは並んで、扉の前に立った。
見知らぬ駅の風が、扉の隙間から、ふたりの間を吹き抜けていった。
降りたホームには、風があった。
強くはない。でも、途切れない風だった。
あちこちに、布の切れ端を結んだ棒が立っている。旗のようなものが、みんな同じ向きにはためいていた。
人が何人もいた。
でも、誰も動いていなかった。荷物を背負ったまま、じっと空を見上げている人。船着き場のような場所に、帆を畳んだ小舟が並んでいる。誰も乗っていない。
「風待ち駅、というそうです」
チャイが言った。
「待つんですか、風を」
「はい。向きが変わるまで、誰も出発できないのだと」
そういう駅もあるのか、と思った。
制約は、いつも列車の外側にある。今日は、風だった。
旗を見上げている老人がひとりいた。
荷を担いだまま、動かない。何日も、そうしているような立ち方だった。
「あの人は」
わたしが聞くと通りかかった別の旅人が答えた。
「もう十日は待ってる。頑固な風向きでね」
「困りませんか」
「困らんよ。風は、風の都合で変わる。わしらの都合じゃない」
旅人はそれだけ言って、自分の荷物のところへ戻っていった。
誰も急いでいなかった。
急いでも、風は変わらない。それを、みんな知っている顔をしていた。
この駅には、鐘もない。砂時計もない。
ただ、待つための場所だった。
その人は、ホームの隅にいた。
長い脚。細い体。外套の下、腕のあたりに灰色の羽根のようなものが見えた。首も、少し長い。鳥に似た種族なのだと分かった。
靴を見た。
真新しい靴だった。革の色が、まだ濃い。でも、底が、もうすり減っている。
変だ、と思った。
新しい靴の底が減るには、それなりに歩かなければならない。でも、この人が長く旅をしてきたようには見えなかった。
よく見ると、減り方が、偏っていた。
つま先の内側と、かかとの右側。同じところばかり、繰り返し擦れている。
――外を、歩いた減り方じゃない。
狭いところを、何度も、行ったり来たりした減り方に見えた。
「あの」
声をかけた。
彼は驚いたように顔を上げた。
「……食堂の、方ですか」
「はい。お腹、空いていませんか」
「いえ」
即座に、そう言った。それから、少し考えて、言い直した。
「……空いているのかも、しれません」
名前は、シリルといった。
外套を脱ぐと、腕に沿って灰色の羽根が並んでいるのが見えた。折り畳まれたまま、広げられていない。
「渡りの季節、なんですよね」
わたしが聞くと、シリルは、こくりと頭を動かした。
「群れは、もう発ちました。三日前に」
「あなたは」
「僕は、残りました」
窓の外を見た。
遠くの空に、鳥の群れらしき影は、もう見えなかった。
「見送ったんですか」
「はい。この駅まで、一緒に来ました。それで、僕だけ、降りて」
「群れの人たちは、何か言いましたか」
「何も。……いつものことなので」
いつものこと、という言い方が引っかかった。
毎年、同じことをしているのだと分かった。渡りの季節が来て、群れが発って、シリルだけが残る。それを、もう何度も繰り返してきた。
「育ての親が、飛べないので」
その言葉には、迷いがなかった。
迷いがないことが、逆に気になった。
「育ての親は、何と言ってるんですか」
わたしは聞いた。
「行けと。何度も」
「あなたは」
「行けません」
シリルは自分の靴の先を見た。
「僕がいなくなったら、あの人は、一人になります」
「……」
「僕を育てるために、あの人は、飛ぶのをやめました。もう何年も前に。だから、僕が今度は」
言葉が、そこで止まった。
「僕が飛んでいったら、あの人がくれたものを、無駄にすることになる気がして」
「無駄」
わたしはその言葉を、そのまま返した。
「はい。あの人は、僕のために、空を捨てました。その分だけ、僕が、地上で何かを返さないと」
「返す」
「……そうしないと、あの人が捨てたものが、ただ捨てただけになる」
それは、恩ではなかった。
恩なら、返せば終わる。
でも、シリルが言っているのは、たぶん、違う種類のものだった。返し終わることのない、続く義務。
「群れのみんなは、いい人だって言います。親のそばに残るなんて」
シリルはそう言って、少しだけ笑った。うまく笑えていない笑い方だった。
「でも、僕は、本当は」
その先を、言わなかった。
わたしは何も言わなかった。
言葉は、たぶん、わたしの仕事じゃない。
――覚えが、あった。
わたしも、駅を出るたびに、少しだけ同じことを考える。ゴルダさんも、ニィナさんも、バハルさんも、置いてきた人たちだ。次の駅へ行くことが、その人たちを置き去りにすることのような気がして、発車のベルを聞くたび、胸の奥が少し痛んだ。
でも、行かなければ、次の誰かに会えない。
行くことと、裏切ることは、たぶん、違う。分かっていても、その違いを、うまく言葉にできたことは、まだなかった。
シリルの荷物を見た。
背負い袋が、ぱんぱんに膨らんでいる。
「重そうですね」
「……はい」
「開けても」
彼は、少しためらってから、こくりと頭を動かした。
中から出てきたのは、硬い麦のパンだった。もうずいぶん時間が経っている。石のように硬い。
その下に、乾いた根菜が、束になって入っていた。細く切って干したものだ。丁寧に、ひもでしばってある。
「これは」
「……親が、用意してくれました。旅立つときのために」
わたしはその硬いパンを持ち上げてみた。
軽い。乾ききっている。
「いつのですか、これ」
「……渡りの、三日前です」
三日間、ずっと持って歩いていたことになる。
使わないまま。
厨房に戻った。
チャイが盆を抱えて、ついてきた。
いつもなら、わたしが動くのを、少し離れて見ているだけだった。今日は、棚の前まで来て、並んで立った。
「手伝います」
「うん」
何を手伝うか、決めていなかった。
でも、並んで立っているだけで、じゅうぶんだった。
硬いパンを、薄く切った。
乾いた根菜を、水で戻す。しばらく置くと、少しずつ、やわらかくなっていった。
鍋に、戻した根菜と、水を入れた。
塩を、ひとつまみ。バハルさんにもらった、あの塩だ。
煮立ってきたところに、薄く切ったパンを沈めた。
最初は、硬いまま浮いていた。かたかたと、鍋の縁に当たる音がした。
でも、少しずつ、端のほうから、水を吸いはじめた。
しばらく待った。
パンが、ゆっくり、崩れていく。
強張っていた角が丸くなって、輪郭がぼやけて、親の根菜と溶け合っていく。
硬かったものが、粥のようになっていく。
匂いが立った。
根菜の、土の匂いに似た甘さ。パンの、麦の匂い。三日間、袋の中で寝かされていた匂いが、湯気になって、ようやく外に出てきたようだった。
チャイが、鍋を見ながら言った。
「……硬いものが、やわらかくなっていきますね」
「うん」
「戻らないんでしょうか。硬いままには」
「戻らないよ。一度こうなったら」
器に、よそった。
シリルの前に、器を置いた。
彼は、しばらく見ていた。
それから、器を両手で持ち上げた。
ひと口。
もうひと口。
手が、止まった。
「……これ」
「はい」
「親の畑の、匂いがします」
「そうかもしれません」
「親は、この根菜を、いつも同じ大きさに切ります。誰が切っても分かるくらい、揃えて」
シリルは、器の中を見ながら言った。
「几帳面な人なんですね」
「はい。……僕が持ち歩いてる間に、少し曲がってしまったと思います。切り方が」
わたしはそれには答えなかった。
三日間、開けられずにいた包みの中身が、少しくらい曲がっていても、おかしくない。
彼はまた口をつけた。
わたしはその足元を見ていた。
靴の先が、床を、軽く叩いていた。
とん、とん、と。
本人は、たぶん気づいていない。
「チャイ」
わたしは小さく呼んだ。
銀の人形が盆を抱えて、こちらに来た。
シリルの前で、少し止まる。
それから、盆を、数ミリだけ、前に押し出した。
かちり、と小さな音がした。
銀の小さな手が、盆の縁を、わずかに強く握っていた。
「……お忘れ物、していませんか」
シリルが顔を上げた。
いつもの「お忘れ物のないよう」ではなかった。
問いになっていた。
「忘れ物」
「はい」
「……何を、忘れているんでしょう」
チャイは答えなかった。
ただ、盆を抱えたまま、静かに立っていた。
わたしは何も言わなかった。
チャイも、それ以上は言わなかった。
シリルはしばらく、自分の靴を見ていた。
それから、窓の外を見た。
旗が、揺れていた。
さっきまでとは、少し違う向きに。
風が、変わりはじめていた。
さっきの老人が荷を担ぎ直しているのが見えた。
十日ぶんの待ちが、今、終わろうとしている。
急いでいるようには見えなかった。ただ、当たり前のことのように、立ち上がっただけだった。
ホームの旅人たちが、いっせいに動き出した。船着き場で、帆が上がる。荷を担ぎ直す音。
シリルは立ち上がった。
器の底に残った粥を、最後まで、すくって食べた。
それから、靴のひもを、結び直した。
すり減った底を、一度、指でなぞってから。
「……僕は」
彼は、言った。
「僕は、まだ、分かりません」
「うん」
「でも」
外套を、羽織った。
背から、灰色の羽根が、少しだけのぞいた。
「歩いてみます。とりあえず、外まで」
それだけ、言った。
それ以上は、聞かなかった。
わたしが知る必要は、たぶん、ない。
彼は荷物を背負って、ホームへ降りた。
風の中を、歩いていく。
最初の一歩は、小さかった。
次の一歩は、少しだけ、大きかった。
旗の下を通るとき、外套の背が、一度、大きく膨らんだ。
中の羽根が、風をはらんだのだと分かった。
広げたのか、広げかけただけなのか、ここからでは分からなかった。
振り返らずに、旗の向こうへ、歩いていった。
発車のベルが鳴った。
わたしは厨房に戻った。
空の器を、片づける。
「チャイ」
「はい」
「さっきの、良かったね」
「……何がでしょう」
「お忘れ物、していませんか。あれ」
チャイは少し黙った。
「……分かりません。ただ、そう言いたく、なりました」
「うん。それで、いいと思う」
列車が、動き出した。
窓の外で、風待ち駅の旗が、遠ざかっていく。
棚を見た。
シリルが、荷物の隅から出して、置いていったものがあった。
灰色の、小さな羽根。
持ち上げてみる。
軽い。
来年、また同じ渡りの季節が来たとき、この駅に、この人がいるかどうかは分からない。
群れと一緒に発っているかもしれないし、また靴をすり減らして、部屋の中を歩いているだけかもしれない。
どちらでも、わたしには分からない。
いつか、誰かの役に立つかもしれない。
そう思って、羽根を、棚の奥にしまった。




