第12話 粉雪駅の塩釜焼き
「次は――」
チャイの声に、続きがあった。
「次は、粉雪駅。粉雪駅です」
窓の外に、白いものが舞っていた。
扉を開けると、冷たい風とともに、細かな雪が舞い込んできた。
わたしが肩をすくめるより先に、何かが肩にかかった。
見ると、チャイが盆の上に載せていた布を、わたしの肩に掛けていた。
「……寒いかと」
「うん。ありがとう」
小さな布から、じんわりとした温もりが伝わってきた。
チャイは盆を持ち直して、隣に並んだ。
降りるとき、どちらからともなく、足を揃えた。
ホームは、一面、白かった。
音がない。
雪が全部の音を吸ってしまうような静けさだった。屋根にも、ベンチにも、ランプの上にも、粉のように細かい雪が積もっている。
人の姿は、少なかった。
ホームの端に、ひとり。
背の丸い、老いた人だった。
腰のあたりに大きな束がぶら下がっている。近づいて、それが鍵の束だと分かった。ひとつやふたつではない。数十本の鍵が、輪に通されて、腰から下げられていた。
その人は鍵をひとつずつ手に取っては、指先で確かめて、また戻す、ということを繰り返していた。
鍵のいくつかには、細いひもで、小さな木の札が結ばれていた。何か文字が書いてある。近づいて見ると、字が薄れて、ほとんど読めなくなっているものが多かった。同じ鍵に、違う文字で、二重にも三重にも書き直された跡があるものもあった。
しばらく見ていて、気づいた。
同じ鍵を、何度も手に取っている。さっき確かめたはずの鍵を、また手に取って、また確かめている。順番も、決まっていないようだった。
覚えるための儀式が、覚えられないまま、繰り返されている。そんなふうに見えた。
「あの」
声をかけた。
老人は顔を上げた。
「……食堂の人かね」
「はい。お腹、空いていませんか」
「腹」
老人は少し考えるように黙った。
「……空いておるのかも、しれん。よう分からんが」
名前は、ダリオといった。
鍵職人だった。
「見てくれ、これを」
ダリオは鍵の束を持ち上げた。
「わしが打った鍵じゃ。ひとつひとつ、誰かの箱に合わせて。……この鍵は」
彼はそのうちのひとつを指でつまんで、じっと見た。
「……誰の、箱じゃったか」
言葉が、そこで止まった。
しばらく黙ってから、その鍵を、輪に戻した。
「分からん。この頃、よう分からんようになった」
「箱、というのは」
わたしは聞いた。
「大事なものを、しまう箱じゃ。手紙とか、形見とか。うちの村じゃ、そういうものを木の箱に入れて、鍵をかける。開けるのは、決めた日だけ」
「決めた日」
「祝いの日とか、弔いの日とか。それぞれじゃ。わしは、その箱と鍵を、ずっと作ってきた」
ダリオは鍵をひとつ、また手に取った。
「削るときに、粉が出る。魔法の金属を削るとな、光る粉が出るんじゃ。長いこと、その粉を吸ってきた」
「それで」
「記憶が、少しずつ、粉みたいに落ちていく。医者にそう言われた。……もう長いこと」
窓の外では、粉雪が降り続いていた。
ダリオを蝕んだ粉と、この駅に降る粉は、たぶん、まるで違うものだ。ひとつは、削って人を蝕む粉。もうひとつは、ただ静かに、何もかもを白く覆っていく粉。
似ているのは、色だけだった。
彼はまた鍵を戻した。
「どの鍵が、どの箱のものか。もう分からん。札を付けても、その札を書いたことすら、忘れる」
「若いころは」
ダリオは続けた。
「一目で分かった。この鍵は誰それの、あの箱のもの。……見ただけで、思い出せた」
「いつからですか。分からなくなったのは」
「分からん。それも、忘れた」
彼は少し笑った。今度は、うまく笑えていた。
「妙な話じゃろう。いつから物を忘れるようになったか、思い出せんのじゃ」
わたしは窓の外の雪を見た。
いつから降りはじめたのか、たぶん、誰にも分からない雪だった。
わたしはその鍵の束を見た。
誰かの大事なものを閉じ込めるための鍵を、何十本も作ってきた人。
その人自身の記憶が、いちばん早く、閉じられないまま零れていく。
皮肉だとは思わなかった。
ただ重い、と思った。
「わし自身の記憶を、しまう箱は、なかった」
ダリオは笑おうとして、うまく笑えなかった。
「作り忘れておった。自分のぶんだけ」
厨房に戻った。
棚を見た。
塩の塊が、まだ少し残っている。バハルさんにもらったものだ。
鍋を出した。
卵を割って、塩と混ぜた。粘りが出るまで、練った。
手のひらに、じんわりと重みが伝わってくる。練るほどに、生地は固くまとまっていった。
鉄蕪を、ひと口大に切った。中に、詰め物にする根菜と、削った肉を混ぜた。
ダリオの鍵と、少し似ていると思った。細かいものを、ひとつの形にまとめる作業。
塩の生地を、厚く伸ばした。
その中に、具を包んだ。まるごと、包んだ。継ぎ目を、指で押さえて、塞いだ。
かまどに、火を入れた。
塩の塊を、じかに火にかけた。
最初は、じゅう、と小さな音がした。
しばらくすると、表面が、白く固まりはじめた。
塩が、熱を受けて、硬い殻になっていく。粒だった塩の表面が、少しずつ、艶を持って光りはじめた。
チャイが、その様子を見ていた。
「……硬く、なっていきますね」
「うん。今度は硬くする」
「前は、やわらかくしました」
「今日は、逆」
湯気が、殻の割れ目のないところから、細く漏れはじめた。
匂いはまだ、外には出てこない。塩の壁の内側に、閉じ込められたままだった。
火から下ろした。
塩の塊は、外側が真っ白に固まって、湯気を立てていた。持ち上げると、ずしりと重かった。
ダリオの前に、それを置いた。
「これは」
「割ってください。ご自分で」
彼は少し驚いた顔をした。
「……熱いじゃろう」
「熱いです。だから、ご自分の手で」
ダリオはしばらく、その白い塊を見ていた。
それから、両手で、包み込むように持った。
「あつっ」
思わずというように、声が出た。
でも、手を離さなかった。
指に、力を込めた。
殻の表面に、ひびが入った。もう一度。今度は、大きく割れた。
湯気が噴き出した。
閉じ込められていた熱い匂いが、一気に立ちのぼった。
「割れた」
ダリオは自分の手を見た。
指の腹に、硬いタコがある。長年、鍵を削ってきた指だった。
その指が、まだ熱がりながら赤くなっていた。
「熱いのに、割れました」
わたしが言うと、ダリオは自分の指を、もう一度見た。
「……そうじゃな」
「覚えてますか。どうやって力を入れたか」
「覚えとらん。手が、勝手に」
彼は自分の指の、硬い皮の部分をなでた。
「この指だけは、忘れとらんらしい」
「何十年ぶんの、指ですか」
「数えとらん。……いや、数えても、忘れる」
彼はまた少し笑った。
「鍵を、何本打ってきたか。誰の顔も、名前も、思い出せんことがある。でも、指は、削り方を忘れん。金属に当てた瞬間、勝手に力の加減が決まる」
「体は、覚えてるんですね」
「頭より、よほど利口じゃ」
ダリオはそう言って、指のタコを、指先でなぞった。
中の身を、ひと口食べた。
「熱い」
また、声が出た。
でも、次のひと口も、彼は自分で割った殻から取った。
「覚えられんでも」
ダリオは湯気の向こうで言った。
「いま、熱いのは、分かる。いま、うまいのも、分かる」
「……」
「これは、覚えとかんでも、いいものかもしれん」
湯気が少しずつ、細くなっていく。
チャイがそれを見ていた。
チャイが鍵の束を、そっと持ち上げた。
「……お預かり、しております」
ダリオが顔を上げた。
「わしの、鍵を」
「はい。お食事のあいだ、腰が軽くなるように」
それだけの言葉だった。
鍵そのものの意味までは預からない。ただ、重さだけを、少しのあいだ引き受けた。
ダリオが自分の指の皮を、またなでた。
チャイが自分の胸のあたりに、そっと手を当てた。
銀の胸には、何もない。心臓もない。でも、その仕草は、ダリオの指の動きと、よく似ていた。
誰も、何も言わなかった。
湯気が消えかけていた。
ダリオの視線が、ふっと焦点を失って、宙をさまよった。
「そろそろ、じゃな」
ダリオが言った。
「何がですか」
「忘れる。……たぶん、また」
彼は鍵の束を受け取って、腰に戻した。
「わしは、また明日、この鍵を見て、誰の箱か分からんと思うじゃろう。今日のことも、忘れるかもしれん」
「……はい」
「それでも」
彼は自分の指を見た。
「この指は、今日、熱いものを割った。うまいと思った。それは、たしかに、あった」
その言葉に答えは要らなかった。
わたしは、何も言わなかった。
ダリオは腰の鍵を、指先でひとつずつ触れていった。
さっきと同じ動きだった。何も覚えていないまま、また同じことを繰り返す。
でも、指の動きだけは、迷いがなかった。触れる場所も、力の強さも、変わらなかった。
覚えていることと、忘れないことは、たぶん、別のものだった。
発車のベルが鳴った。
ダリオは立ち上がって、頭を下げた。
「うまかった。……名前は、もう聞いたか」
「はい、伺いました」
「そうか。なら、いい」
彼は雪の中を歩いていった。
振り返らなかった。
振り返る理由も、たぶん、覚えていないのだろう。
列車が、動き出した。
窓の外で、粉雪が駅の灯りを白く煙らせていた。
「チャイ」
「はい」
「さっきの、お預かり、していますって」
「……なぜでしょう。とっさに、出てきました」
チャイは少し考えるように、盆を持ち直した。
「わたくしも、あまり、覚えていることが、多くないので」
「うん」
「それでも、いま、盆を持っています。これは、確かです」
わたしは、笑った。
ダリオの言葉を、思い出した。
――この指は、今日、熱いものを割った。それは、たしかに、あった。
ダリオの指先は、まだ、うっすらと赤かったはずだ。
塩釜の熱が、あそこに、少しのあいだ残っていたはずだ。
棚を見た。
鍋には、まだ、塩の生地が少し残っている。
次の駅で、何を包むかは、まだ決めていない。




