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『環状霊脈線、つばめ食堂はじめます』~元・車内販売員の異世界各駅停車~  作者: 夕凪 鏡介


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12/25

第12話 粉雪駅の塩釜焼き


「次は――」


 チャイの声に、続きがあった。

「次は、粉雪駅。粉雪駅です」


 窓の外に、白いものが舞っていた。


 扉を開けると、冷たい風とともに、細かな雪が舞い込んできた。

 わたしが肩をすくめるより先に、何かが肩にかかった。


 見ると、チャイが盆の上に載せていた布を、わたしの肩に掛けていた。

「……寒いかと」

「うん。ありがとう」


 小さな布から、じんわりとした温もりが伝わってきた。


 チャイは盆を持ち直して、隣に並んだ。

 降りるとき、どちらからともなく、足を揃えた。



 ホームは、一面、白かった。


 音がない。

 雪が全部の音を吸ってしまうような静けさだった。屋根にも、ベンチにも、ランプの上にも、粉のように細かい雪が積もっている。


 人の姿は、少なかった。

 ホームの端に、ひとり。


 背の丸い、老いた人だった。

 腰のあたりに大きな束がぶら下がっている。近づいて、それが鍵の束だと分かった。ひとつやふたつではない。数十本の鍵が、輪に通されて、腰から下げられていた。


 その人は鍵をひとつずつ手に取っては、指先で確かめて、また戻す、ということを繰り返していた。

 鍵のいくつかには、細いひもで、小さな木の札が結ばれていた。何か文字が書いてある。近づいて見ると、字が薄れて、ほとんど読めなくなっているものが多かった。同じ鍵に、違う文字で、二重にも三重にも書き直された跡があるものもあった。


 しばらく見ていて、気づいた。

 同じ鍵を、何度も手に取っている。さっき確かめたはずの鍵を、また手に取って、また確かめている。順番も、決まっていないようだった。

 覚えるための儀式が、覚えられないまま、繰り返されている。そんなふうに見えた。



「あの」

 声をかけた。


 老人は顔を上げた。

「……食堂の人かね」

「はい。お腹、空いていませんか」

「腹」

 老人は少し考えるように黙った。

「……空いておるのかも、しれん。よう分からんが」


 名前は、ダリオといった。

 鍵職人だった。


「見てくれ、これを」

 ダリオは鍵の束を持ち上げた。

「わしが打った鍵じゃ。ひとつひとつ、誰かの箱に合わせて。……この鍵は」


 彼はそのうちのひとつを指でつまんで、じっと見た。


「……誰の、箱じゃったか」


 言葉が、そこで止まった。

 しばらく黙ってから、その鍵を、輪に戻した。


「分からん。この頃、よう分からんようになった」



「箱、というのは」

 わたしは聞いた。

「大事なものを、しまう箱じゃ。手紙とか、形見とか。うちの村じゃ、そういうものを木の箱に入れて、鍵をかける。開けるのは、決めた日だけ」


「決めた日」

「祝いの日とか、弔いの日とか。それぞれじゃ。わしは、その箱と鍵を、ずっと作ってきた」


 ダリオは鍵をひとつ、また手に取った。


「削るときに、粉が出る。魔法の金属を削るとな、光る粉が出るんじゃ。長いこと、その粉を吸ってきた」

「それで」

「記憶が、少しずつ、粉みたいに落ちていく。医者にそう言われた。……もう長いこと」


 窓の外では、粉雪が降り続いていた。

 ダリオを蝕んだ粉と、この駅に降る粉は、たぶん、まるで違うものだ。ひとつは、削って人を蝕む粉。もうひとつは、ただ静かに、何もかもを白く覆っていく粉。

 似ているのは、色だけだった。


 彼はまた鍵を戻した。


「どの鍵が、どの箱のものか。もう分からん。札を付けても、その札を書いたことすら、忘れる」


「若いころは」

 ダリオは続けた。

「一目で分かった。この鍵は誰それの、あの箱のもの。……見ただけで、思い出せた」

「いつからですか。分からなくなったのは」

「分からん。それも、忘れた」


 彼は少し笑った。今度は、うまく笑えていた。


「妙な話じゃろう。いつから物を忘れるようになったか、思い出せんのじゃ」


 わたしは窓の外の雪を見た。

 いつから降りはじめたのか、たぶん、誰にも分からない雪だった。



 わたしはその鍵の束を見た。


 誰かの大事なものを閉じ込めるための鍵を、何十本も作ってきた人。

 その人自身の記憶が、いちばん早く、閉じられないまま零れていく。


 皮肉だとは思わなかった。

 ただ重い、と思った。


「わし自身の記憶を、しまう箱は、なかった」

 ダリオは笑おうとして、うまく笑えなかった。

「作り忘れておった。自分のぶんだけ」



 厨房に戻った。


 棚を見た。

 塩の塊が、まだ少し残っている。バハルさんにもらったものだ。


 鍋を出した。

 卵を割って、塩と混ぜた。粘りが出るまで、練った。

 手のひらに、じんわりと重みが伝わってくる。練るほどに、生地は固くまとまっていった。


 鉄蕪を、ひと口大に切った。中に、詰め物にする根菜と、削った肉を混ぜた。

 ダリオの鍵と、少し似ていると思った。細かいものを、ひとつの形にまとめる作業。


 塩の生地を、厚く伸ばした。

 その中に、具を包んだ。まるごと、包んだ。継ぎ目を、指で押さえて、塞いだ。


 かまどに、火を入れた。

 塩の塊を、じかに火にかけた。


 最初は、じゅう、と小さな音がした。

 しばらくすると、表面が、白く固まりはじめた。

 塩が、熱を受けて、硬い殻になっていく。粒だった塩の表面が、少しずつ、艶を持って光りはじめた。


 チャイが、その様子を見ていた。

「……硬く、なっていきますね」

「うん。今度は硬くする」

「前は、やわらかくしました」

「今日は、逆」


 湯気が、殻の割れ目のないところから、細く漏れはじめた。

 匂いはまだ、外には出てこない。塩の壁の内側に、閉じ込められたままだった。


 火から下ろした。

 塩の塊は、外側が真っ白に固まって、湯気を立てていた。持ち上げると、ずしりと重かった。



 ダリオの前に、それを置いた。


「これは」

「割ってください。ご自分で」


 彼は少し驚いた顔をした。


「……熱いじゃろう」

「熱いです。だから、ご自分の手で」


 ダリオはしばらく、その白い塊を見ていた。

 それから、両手で、包み込むように持った。


「あつっ」


 思わずというように、声が出た。

 でも、手を離さなかった。


 指に、力を込めた。

 殻の表面に、ひびが入った。もう一度。今度は、大きく割れた。


 湯気が噴き出した。

 閉じ込められていた熱い匂いが、一気に立ちのぼった。



「割れた」

 ダリオは自分の手を見た。


 指の腹に、硬いタコがある。長年、鍵を削ってきた指だった。

 その指が、まだ熱がりながら赤くなっていた。


「熱いのに、割れました」

 わたしが言うと、ダリオは自分の指を、もう一度見た。


「……そうじゃな」

「覚えてますか。どうやって力を入れたか」

「覚えとらん。手が、勝手に」


 彼は自分の指の、硬い皮の部分をなでた。


「この指だけは、忘れとらんらしい」

「何十年ぶんの、指ですか」

「数えとらん。……いや、数えても、忘れる」


 彼はまた少し笑った。


「鍵を、何本打ってきたか。誰の顔も、名前も、思い出せんことがある。でも、指は、削り方を忘れん。金属に当てた瞬間、勝手に力の加減が決まる」

「体は、覚えてるんですね」

「頭より、よほど利口じゃ」


 ダリオはそう言って、指のタコを、指先でなぞった。



 中の身を、ひと口食べた。


「熱い」

 また、声が出た。

 でも、次のひと口も、彼は自分で割った殻から取った。


「覚えられんでも」

 ダリオは湯気の向こうで言った。

「いま、熱いのは、分かる。いま、うまいのも、分かる」

「……」

「これは、覚えとかんでも、いいものかもしれん」


 湯気が少しずつ、細くなっていく。

 チャイがそれを見ていた。



 チャイが鍵の束を、そっと持ち上げた。


「……お預かり、しております」


 ダリオが顔を上げた。

「わしの、鍵を」

「はい。お食事のあいだ、腰が軽くなるように」


 それだけの言葉だった。

 鍵そのものの意味までは預からない。ただ、重さだけを、少しのあいだ引き受けた。


 ダリオが自分の指の皮を、またなでた。


 チャイが自分の胸のあたりに、そっと手を当てた。

 銀の胸には、何もない。心臓もない。でも、その仕草は、ダリオの指の動きと、よく似ていた。


 誰も、何も言わなかった。



 湯気が消えかけていた。


 ダリオの視線が、ふっと焦点を失って、宙をさまよった。


「そろそろ、じゃな」

 ダリオが言った。

「何がですか」

「忘れる。……たぶん、また」


 彼は鍵の束を受け取って、腰に戻した。


「わしは、また明日、この鍵を見て、誰の箱か分からんと思うじゃろう。今日のことも、忘れるかもしれん」

「……はい」

「それでも」


 彼は自分の指を見た。


「この指は、今日、熱いものを割った。うまいと思った。それは、たしかに、あった」


 その言葉に答えは要らなかった。

 わたしは、何も言わなかった。


 ダリオは腰の鍵を、指先でひとつずつ触れていった。

 さっきと同じ動きだった。何も覚えていないまま、また同じことを繰り返す。

 でも、指の動きだけは、迷いがなかった。触れる場所も、力の強さも、変わらなかった。


 覚えていることと、忘れないことは、たぶん、別のものだった。



 発車のベルが鳴った。


 ダリオは立ち上がって、頭を下げた。

「うまかった。……名前は、もう聞いたか」

「はい、伺いました」

「そうか。なら、いい」


 彼は雪の中を歩いていった。


 振り返らなかった。

 振り返る理由も、たぶん、覚えていないのだろう。



 列車が、動き出した。


 窓の外で、粉雪が駅の灯りを白く煙らせていた。


「チャイ」

「はい」

「さっきの、お預かり、していますって」

「……なぜでしょう。とっさに、出てきました」


 チャイは少し考えるように、盆を持ち直した。


「わたくしも、あまり、覚えていることが、多くないので」

「うん」

「それでも、いま、盆を持っています。これは、確かです」


 わたしは、笑った。


 ダリオの言葉を、思い出した。

 ――この指は、今日、熱いものを割った。それは、たしかに、あった。


 ダリオの指先は、まだ、うっすらと赤かったはずだ。

 塩釜の熱が、あそこに、少しのあいだ残っていたはずだ。


 棚を見た。

 鍋には、まだ、塩の生地が少し残っている。

 次の駅で、何を包むかは、まだ決めていない。





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