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『環状霊脈線、つばめ食堂はじめます』~元・車内販売員の異世界各駅停車~  作者: 夕凪 鏡介


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13/25

第13話 通り雨駅のひとり占めプリン


「次は――」


 チャイの声が途中で止まった。

「……雨、でしょうか」

「雨?」


 窓の外を見た。

 灰色の雲が、低く垂れ込めている。ぽつ、ぽつ、と、窓ガラスに水滴が当たりはじめた。


「次は、通り雨駅。通り雨駅です」



 ホームに屋根はあった。

 でも、狭い。雨が横から吹き込んでくると、隅に逃げるしかない。


 その隅に、小さな影があった。


 膝を抱えて、座り込んでいる。

 大きな耳が、二つ。頭の上で、ぴくぴくと動いていた。それを、両手で、上から押さえつけている。動かないように、と。


 尻尾は、お尻の下に、きつく巻き込んで、その上に座っていた。


 服は、いいものを着ていた。仕立てのしっかりした、よそ行きの服。でも、裾が、雨と泥で汚れている。走ってきたのだと分かった。



「あの」

 近づいて、声をかけた。


 顔が上がった。

 目が、少し赤い。でも、すぐに、しゃんと背筋が伸びた。


「……失礼いたしました。何か、ご用でしょうか」


 やけに大人びた言葉だった。

 まだ、六つか七つくらいに見えるのに。


「食堂の者です。雨、ひどいですね」

「そのようですね。……わたしは、平気でございます」


 押さえつけた耳が、またぴくりと動いた。

 平気ではないのだと、すぐに分かった。



 名前を聞くと、少し迷ってから、教えてくれた。

 ミナ、といった。


「お母さまは」

「……向こうに」


 ミナは屋根の外を指さした。

 少し離れたところに大きな荷物を抱えた獣人が、雨宿りの場所を探しているのが見えた。お腹が、大きく膨らんでいる。


「一緒じゃないんですか」

「わたし、先に走りました」


 それだけ言って、口を閉じた。



 わたしは隣に座った。

 濡れた床に、少し水がしみてきていた。


「怒られると思ってるんですか。先に走ったこと」

「……いいえ」


 ミナは膝に顔を埋めた。


「お母さまは、優しいです。怒りません」

「じゃあ、なんで、隠れてるんですか」


 答えは、なかった。

 雨の音だけが、屋根を叩いていた。


「お母さま、お腹が大きいので、走れません」

 しばらくして、ミナは、そう言った。

「ゆっくり歩いてきます。わたしは、いつも、先に着きます」

「一緒に、待たなかったんですか」

「……今日は、待ちたくなかったんです」


 その言い方に、何かが引っかかった。

 いつもは待つのに、今日は待ちたくなかった。理由は、聞かなかった。



「もうすぐ、生まれるんですよね」

 わたしは聞いた。

 ミナの体が、少しこわばった。


「はい。……もうすぐです」

「楽しみですか」

「はい。とても」


 早すぎる返事だった。

 用意していた答えをそのまま出したような。


「本当に?」


 ミナは黙った。

 長い沈黙のあとで、押さえていた耳から少しだけ手を離した。


「……分かりません」

 声が、小さくなった。

「嬉しいはずなんです。みんな、そう言います。お姉ちゃんになるのよ、って。喜ばなきゃ、いけないのに」

「でも」

「でも、お腹の中の子のこと考えると、胸のあたりが、変になります。苦しいような、嫌なような」


 ミナは自分の手を見た。


「これは、なんという気持ちですか。教えてください。わたし、この気持ちに、名前がつけられません」


 わたしは何も言わなかった。

 名前をつけてあげることは、たぶん、わたしの仕事じゃない。


「大人は、みんな、名前を知ってるみたいです」

 ミナは続けた。

「妬いてるのね、とか、寂しいのね、とか。すぐに、言葉をくれます。でも、それを聞いても、しっくりきません。当たっているような、当たっていないような」

「違う気がするんですね」

「はい。……でも、じゃあ、これは何なのか、わたしにも分かりません。分からないまま、変な子だと、思われます」


 押さえた耳の下で、ミナの指に力がこもった。


「お行儀よくしていれば、みんな、それでいいと思ってくれます。だから、わたし、お行儀よくします」

「疲れませんか。それ」

「……疲れます。少し」


 初めて、素直な言葉が出た。

 ミナの口が少し開いたまま、止まった。自分の言葉に、自分で驚いたらしい。



「悪い子だと、思われますか」

 ミナが、聞いた。

「弟か妹が生まれるのに、素直に喜べないなんて」


「思わない」

 わたしは、すぐに言った。


「でも」

「でも、なんですか」


 わたしは、ミナと同じ高さになるように、しゃがみ込んだ。


「あなたの気持ちに、いい悪いをつけるのは、わたしの役目じゃない」


 ミナはしばらく、わたしを見ていた。

 それから、また、顔を膝に埋めた。



 厨房に戻った。


 棚を見た。

 卵と、乳と、砂糖がある。竜からもらった卵は、まだ残っていた。


 小さな型を出した。

 いちばん小さいものを、選んだ。


 鍋に砂糖を入れて、火にかけた。

 じわじわと溶けて、色が変わっていく。薄い黄色から、こげ茶に近い色まで。


 ――ここで止める。


 もう少し焦がしたいところで火から下ろした。苦味をぎりぎりまで残す。

 水を少し差すと、じゅっと音がして、蒸気が上がった。


 型の底に、それを流し込んだ。

 苦いこげ茶色の層が、型の底に薄く固まっていく。


 卵と乳と、砂糖を混ぜた。

 今度は、甘いほうだけを、ゆっくり練った。


 型に、それを流し込んだ。

 苦くて黒い層の上に、淡く甘い生地が重なる。二つの層は、混ざらなかった。


 湯を張った鍋に、型を並べて、蒸した。

 しっかりと、固まるまで。



 ミナの前に、それを置いた。


「これは」

「あなただけの、プリンです。ひとつだけ。誰にも分けなくていいです」


 ミナの目が、少し見開かれた。


「……独り占めして、いいんですか」

「今日だけは」


 スプーンは、渡さなかった。

 型からそのまま、皿に返した。


 黄色い層の上に、こげ茶色のとろりとした汁が伝って流れた。



 ミナはしばらく見ていた。

 それから、少しだけ食べた。


「甘い」

「うん」


 もうひと口。

 今度は、底のほうまで。


「……苦い」

 スプーンを持つ手が、止まった。

「甘いのに、下は、苦いです」

「両方、味わってください」


 ミナはまた、ひと口食べた。

 甘さと苦さが、舌の上で一緒に溶けていくのを確かめるように。


「これ、混ぜて作ったんですか」

「いや。別々に作って、重ねただけ」

「混ざってないのに、一緒に食べると」

「一緒の味になる」


 ミナはスプーンを止めて、皿を見つめた。


「わたしの気持ちも、これと、同じですか」


 わたしは答えなかった。

 答えを持っていなかった。



「弟か妹のこと、嬉しい気持ちと、嫌な気持ち、両方あって、いいんですか」

 ミナが、聞いた。


「わたしには、分からない」

 わたしは正直に言った。

「でも、このプリンは、苦いところも、甘いところも、両方、あなたのぶんだよ」


 ミナはまた食べた。

 今度は、途中で止まらなかった。


 最後のひと口まで、全部、ひとりで食べた。

 誰にも分けずに。



 チャイが空になった皿を、そっと持ち上げた。


「……お足元、お気をつけて」


 ミナが顔を上げた。


「足元?」

「はい。雨で、濡れておりますので」


 それだけの言葉だった。

 でも、ミナは自分の足を見て、それから自分の中の、まだ名前のつかない気持ちのほうを見ているような顔をした。



 雨が、弱くなってきていた。


 屋根を叩く音が、少しずつ、間遠になっていく。


「行かなきゃ」

 ミナが立ち上がった。

 押さえていた耳から、手が離れていた。耳は、もう、隠されていなかった。


「お母さまが、心配しています」

「うん」

「わたし、なんて言えばいいか、まだ、分かりません」


「言わなくていい」

 わたしは言った。

「今日、分からなかったことは、分からないままでいい」


 ミナは少し笑った。

 初めて見る、子どもらしい笑い方だった。



 雨の中、大きなお腹の母親が、屋根の下を見ていた。

 息が、少し上がっている。ゆっくりでも、走ってきたのだと分かった。


「ミナ!」

「……お母さま」


 ミナは駆け出した。

 途中で、一度だけ、振り返った。


 何も言わなかった。


 ただ、小さく、頭を下げた。


 母親は、ミナの体を抱き止めた。

 怒っている様子は、なかった。ただ、濡れた耳の後ろを、そっとなでていた。



 発車のベルが鳴った。


 列車が、動き出した。

 雨は、もう、ほとんど止んでいた。


「チャイ」

「はい」

「さっきの、お足元、お気をつけてって」

「……なぜでしょう。あの子の足が、少し、濡れて見えたので」


 チャイは盆を持ち直した。


「それだけの、つもりでした」

「うん。それでいい」


 棚を見た。

 プリンの型が、ひとつ、洗って伏せてある。


 次の駅で、また、誰かのために、何かを重ねることになるだろう。

 混ざらないまま重ねられるものがあることを、わたしは今日、知った。





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