第13話 通り雨駅のひとり占めプリン
「次は――」
チャイの声が途中で止まった。
「……雨、でしょうか」
「雨?」
窓の外を見た。
灰色の雲が、低く垂れ込めている。ぽつ、ぽつ、と、窓ガラスに水滴が当たりはじめた。
「次は、通り雨駅。通り雨駅です」
ホームに屋根はあった。
でも、狭い。雨が横から吹き込んでくると、隅に逃げるしかない。
その隅に、小さな影があった。
膝を抱えて、座り込んでいる。
大きな耳が、二つ。頭の上で、ぴくぴくと動いていた。それを、両手で、上から押さえつけている。動かないように、と。
尻尾は、お尻の下に、きつく巻き込んで、その上に座っていた。
服は、いいものを着ていた。仕立てのしっかりした、よそ行きの服。でも、裾が、雨と泥で汚れている。走ってきたのだと分かった。
「あの」
近づいて、声をかけた。
顔が上がった。
目が、少し赤い。でも、すぐに、しゃんと背筋が伸びた。
「……失礼いたしました。何か、ご用でしょうか」
やけに大人びた言葉だった。
まだ、六つか七つくらいに見えるのに。
「食堂の者です。雨、ひどいですね」
「そのようですね。……わたしは、平気でございます」
押さえつけた耳が、またぴくりと動いた。
平気ではないのだと、すぐに分かった。
名前を聞くと、少し迷ってから、教えてくれた。
ミナ、といった。
「お母さまは」
「……向こうに」
ミナは屋根の外を指さした。
少し離れたところに大きな荷物を抱えた獣人が、雨宿りの場所を探しているのが見えた。お腹が、大きく膨らんでいる。
「一緒じゃないんですか」
「わたし、先に走りました」
それだけ言って、口を閉じた。
わたしは隣に座った。
濡れた床に、少し水がしみてきていた。
「怒られると思ってるんですか。先に走ったこと」
「……いいえ」
ミナは膝に顔を埋めた。
「お母さまは、優しいです。怒りません」
「じゃあ、なんで、隠れてるんですか」
答えは、なかった。
雨の音だけが、屋根を叩いていた。
「お母さま、お腹が大きいので、走れません」
しばらくして、ミナは、そう言った。
「ゆっくり歩いてきます。わたしは、いつも、先に着きます」
「一緒に、待たなかったんですか」
「……今日は、待ちたくなかったんです」
その言い方に、何かが引っかかった。
いつもは待つのに、今日は待ちたくなかった。理由は、聞かなかった。
「もうすぐ、生まれるんですよね」
わたしは聞いた。
ミナの体が、少しこわばった。
「はい。……もうすぐです」
「楽しみですか」
「はい。とても」
早すぎる返事だった。
用意していた答えをそのまま出したような。
「本当に?」
ミナは黙った。
長い沈黙のあとで、押さえていた耳から少しだけ手を離した。
「……分かりません」
声が、小さくなった。
「嬉しいはずなんです。みんな、そう言います。お姉ちゃんになるのよ、って。喜ばなきゃ、いけないのに」
「でも」
「でも、お腹の中の子のこと考えると、胸のあたりが、変になります。苦しいような、嫌なような」
ミナは自分の手を見た。
「これは、なんという気持ちですか。教えてください。わたし、この気持ちに、名前がつけられません」
わたしは何も言わなかった。
名前をつけてあげることは、たぶん、わたしの仕事じゃない。
「大人は、みんな、名前を知ってるみたいです」
ミナは続けた。
「妬いてるのね、とか、寂しいのね、とか。すぐに、言葉をくれます。でも、それを聞いても、しっくりきません。当たっているような、当たっていないような」
「違う気がするんですね」
「はい。……でも、じゃあ、これは何なのか、わたしにも分かりません。分からないまま、変な子だと、思われます」
押さえた耳の下で、ミナの指に力がこもった。
「お行儀よくしていれば、みんな、それでいいと思ってくれます。だから、わたし、お行儀よくします」
「疲れませんか。それ」
「……疲れます。少し」
初めて、素直な言葉が出た。
ミナの口が少し開いたまま、止まった。自分の言葉に、自分で驚いたらしい。
「悪い子だと、思われますか」
ミナが、聞いた。
「弟か妹が生まれるのに、素直に喜べないなんて」
「思わない」
わたしは、すぐに言った。
「でも」
「でも、なんですか」
わたしは、ミナと同じ高さになるように、しゃがみ込んだ。
「あなたの気持ちに、いい悪いをつけるのは、わたしの役目じゃない」
ミナはしばらく、わたしを見ていた。
それから、また、顔を膝に埋めた。
厨房に戻った。
棚を見た。
卵と、乳と、砂糖がある。竜からもらった卵は、まだ残っていた。
小さな型を出した。
いちばん小さいものを、選んだ。
鍋に砂糖を入れて、火にかけた。
じわじわと溶けて、色が変わっていく。薄い黄色から、こげ茶に近い色まで。
――ここで止める。
もう少し焦がしたいところで火から下ろした。苦味をぎりぎりまで残す。
水を少し差すと、じゅっと音がして、蒸気が上がった。
型の底に、それを流し込んだ。
苦いこげ茶色の層が、型の底に薄く固まっていく。
卵と乳と、砂糖を混ぜた。
今度は、甘いほうだけを、ゆっくり練った。
型に、それを流し込んだ。
苦くて黒い層の上に、淡く甘い生地が重なる。二つの層は、混ざらなかった。
湯を張った鍋に、型を並べて、蒸した。
しっかりと、固まるまで。
ミナの前に、それを置いた。
「これは」
「あなただけの、プリンです。ひとつだけ。誰にも分けなくていいです」
ミナの目が、少し見開かれた。
「……独り占めして、いいんですか」
「今日だけは」
スプーンは、渡さなかった。
型からそのまま、皿に返した。
黄色い層の上に、こげ茶色のとろりとした汁が伝って流れた。
ミナはしばらく見ていた。
それから、少しだけ食べた。
「甘い」
「うん」
もうひと口。
今度は、底のほうまで。
「……苦い」
スプーンを持つ手が、止まった。
「甘いのに、下は、苦いです」
「両方、味わってください」
ミナはまた、ひと口食べた。
甘さと苦さが、舌の上で一緒に溶けていくのを確かめるように。
「これ、混ぜて作ったんですか」
「いや。別々に作って、重ねただけ」
「混ざってないのに、一緒に食べると」
「一緒の味になる」
ミナはスプーンを止めて、皿を見つめた。
「わたしの気持ちも、これと、同じですか」
わたしは答えなかった。
答えを持っていなかった。
「弟か妹のこと、嬉しい気持ちと、嫌な気持ち、両方あって、いいんですか」
ミナが、聞いた。
「わたしには、分からない」
わたしは正直に言った。
「でも、このプリンは、苦いところも、甘いところも、両方、あなたのぶんだよ」
ミナはまた食べた。
今度は、途中で止まらなかった。
最後のひと口まで、全部、ひとりで食べた。
誰にも分けずに。
チャイが空になった皿を、そっと持ち上げた。
「……お足元、お気をつけて」
ミナが顔を上げた。
「足元?」
「はい。雨で、濡れておりますので」
それだけの言葉だった。
でも、ミナは自分の足を見て、それから自分の中の、まだ名前のつかない気持ちのほうを見ているような顔をした。
雨が、弱くなってきていた。
屋根を叩く音が、少しずつ、間遠になっていく。
「行かなきゃ」
ミナが立ち上がった。
押さえていた耳から、手が離れていた。耳は、もう、隠されていなかった。
「お母さまが、心配しています」
「うん」
「わたし、なんて言えばいいか、まだ、分かりません」
「言わなくていい」
わたしは言った。
「今日、分からなかったことは、分からないままでいい」
ミナは少し笑った。
初めて見る、子どもらしい笑い方だった。
雨の中、大きなお腹の母親が、屋根の下を見ていた。
息が、少し上がっている。ゆっくりでも、走ってきたのだと分かった。
「ミナ!」
「……お母さま」
ミナは駆け出した。
途中で、一度だけ、振り返った。
何も言わなかった。
ただ、小さく、頭を下げた。
母親は、ミナの体を抱き止めた。
怒っている様子は、なかった。ただ、濡れた耳の後ろを、そっとなでていた。
発車のベルが鳴った。
列車が、動き出した。
雨は、もう、ほとんど止んでいた。
「チャイ」
「はい」
「さっきの、お足元、お気をつけてって」
「……なぜでしょう。あの子の足が、少し、濡れて見えたので」
チャイは盆を持ち直した。
「それだけの、つもりでした」
「うん。それでいい」
棚を見た。
プリンの型が、ひとつ、洗って伏せてある。
次の駅で、また、誰かのために、何かを重ねることになるだろう。
混ざらないまま重ねられるものがあることを、わたしは今日、知った。




