第14話 糸車駅の素朴なスープ
「次は、糸車駅。糸車駅です」
窓の外に、白いものが見えた。
雪ではなかった。羊の群れだった。
なだらかな丘に、白い塊が点々と散らばっている。その向こうに、小さな町が見えた。
ホームに降りると、音がした。
からから、からから、と規則正しい回転音。
駅舎の軒下で、何人かが糸車を回していた。刈った毛を、糸に紡いでいる。手を動かしながら、話をしたり、していない人もいた。
のんびりした駅だった。急いでいる人が、ひとりもいない。
その中に、ひとりだけ座っていない人がいた。
羊の獣人の女性だった。
四十くらいだろうか。ふっくらした体つきで、丸い顔をしている。腕に大きな籠を抱えていた。中に、買い物らしい野菜が山盛りに入っている。
その人は糸車を回している人たちのあいだを、行ったり来たりしていた。
誰かが糸を切らすと、籠から新しい毛を出して渡す。誰かが喉が渇いたと言えば、水筒を差し出す。頼まれる前に、動いている。
自分の分の糸車は、なかった。
しばらく見ていて、気づいたことがある。
その人は、誰かが座っている場所には、絶対に近づきすぎない。渡すものを渡したら、すぐに一歩下がる。
輪の中には、入ろうとしない人に見えた。
「あの」
声をかけると、その人はすぐに振り向いた。
「はい、なんでしょう」
早い返事だった。
誰かに呼ばれることに慣れている人の返事だった。
「食堂の者です。お腹、空いていませんか」
「あら、まあ」
その人はぱっと笑った。
「ありがとうございます。でも、あたしは大丈夫ですよ」
大丈夫ですよ、と言いながら、籠を持ち直す。
重そうだった。
名前は、ハンナといった。
町で下宿屋をやっているという。
「若い子が六人。みんな、職人の見習いです」
ハンナは籠の中の野菜を見せてくれた。
「これ、今日の晩ごはんの分です。日に三度、作ってます」
「六人ぶん。大変ですね」
「慣れましたよ。もう、十五年になりますから」
豆が多かった。あとは、根菜がいくつかと、干し肉。
「豆、好きなんですか」
「あたしは、何でもいいんです」
ハンナはまた笑った。
「うちの子たちが、豆が好きなので」
その言い方が、少し引っかかった。
「ハンナさんは、何が好きですか」
「あたしですか」
少し、間があった。
「そうねえ。……何でも、おいしくいただきますよ」
「いちばん好きなものは」
「いちばん、ですか」
また、間。
今度は、さっきより長かった。
「……なんでしょうね」
ハンナは籠を持ち直した。
同じ動作を、またした。
厨房に入ってもらった。
ハンナは恐縮しながら、椅子に座った。座ってからも、落ち着かないらしく、何度も立ち上がりかけていた。
「何か、お手伝いしましょうか」
「いえ。座っててください」
「でも」
「今日は、お客さんなので」
お客さん、という言葉に、ハンナはまた少し笑った。
困ったときの笑い方だと、分かった。
棚を見た。
残っている野菜をいくつか出した。鉄蕪と、それから、この駅で分けてもらった根菜。
鍋に水を張って、火にかけた。
野菜を大きめに切って、放り込んだ。
あとは、待つだけだった。
しばらくすると、湯が動きはじめた。野菜の色が少しずつ、湯に移っていく。
いい匂いがしてきた。
野菜だけの、素っ気ない匂い。でも、甘い。
わたしは小さな器に、少しだけ汁をすくった。
「ハンナさん。味、見てもらえますか」
「はい、喜んで」
ハンナは立ち上がった。
器を受け取って、口をつける。
「――おいしいですね」
即答だった。
飲み込む前に、そう言った。
わたしは鍋のほうを見ていた。
「まだ、塩を入れてないんです」
ハンナの手が、止まった。
何も言わなかった。
愛想笑いの形のまま止まった口元が、少し震えていた。
わたしも、言わなかった。
鍋の中で、湯が小さく揺れる音だけがした。
ハンナはそれを持ったまま、動かなかった。
それから、もう一度口をつけた。今度は、ゆっくりだった。
「……ほんとだ」
声が、変わっていた。
「味が、しない」
「はい」
「あたし、いま、おいしいって言いました」
「言いました」
「なんで、言ったんでしょう」
わたしは、答えなかった。
答えられなかった。
「昔から、そうなんです」
ハンナは椅子に座り直した。
今度は、立ち上がろうとしなかった。
「何を出されても、おいしいって言います。言えば、みんな、喜ぶから」
「はい」
「あたしは何でもいいから、って。ずっと、そう言ってきました」
ハンナは自分の手を見た。
働いてきた手だった。指の関節が太くて、皮が厚い。
「でも、あれ、優しさじゃなかったんです」
言葉が、少し詰まった。
「楽だったんですよ。決めなくて、いいから」
「決める」
「好きなものがあるって言ったら、嫌いなものもあるってことでしょう。誰かが作ってくれたものを、これは違う、って思うことになる」
湯の音が、続いていた。
「それが、嫌で。だから、何も好きにならないことにしたんです」
ハンナは器を置いた。
「そうしたら、ほんとうに、分からなくなりました」
湯が、ことこと鳴っていた。
「ずっと、優しい人だって言われてきました」
ハンナは続けた。
「うちの子たちも、そう言ってくれます。女将さんは優しい、って」
「はい」
「でも、優しいっていうのは、たぶん、考えてるってことでしょう。あの子は今日、何を食べたいだろうって、ちゃんと考えて」
彼女は自分の指を、軽くこすり合わせた。
「あたし、考えてなかったんです。全部、あの子たちに決めてもらってた」
「決めてもらう」
「そのほうが、間違えないから。あたしが選んで、違うって言われるのが、怖かった」
ハンナはそこで一度、言葉を止めた。
「……優しかったんじゃなくて、逃げてただけです。十五年」
――わたしも、長いこと、そうだった。
缶を渡し、袋を渡し、器を渡してきた。渡すものは、いつも誰かのために選んだ。自分のために何かを選んだのは、あの止まった夜、初めて自分のために茶を淹れたときだった。
だから、分かる、とは言わなかった。
似ている、と言うのも、違う気がした。
わたしは、砕いた塩を小皿に取り分けて、卓に出した。
バハルさんにもらった塊の、残りだった。粉雪駅で釜に使ったぶん、だいぶ小さくなっている。
それから、この駅で分けてもらった薬草の束と、干した実を、隣に並べた。
「これは」
「味付けを、してください」
「あたしが、ですか」
「はい」
ハンナは並んだものを見た。
手が、動かなかった。
「……どのくらい、入れればいいですか」
「分かりません」
「え」
「わたしには、分かりません。ハンナさんの舌じゃないので」
ハンナはわたしを見た。
それから、塩の小皿にそっと手を伸ばした。
指先で、ひとつまみ。
少なすぎるくらいの量を鍋に落とした。
入れてから、わたしのほうを見た。
合っているか、確かめる目だった。
わたしは、鍋を見ていた。
答えを返さず、ただ待つ。それが、たぶん、今日のわたしの仕事だった。
混ぜて、また味を見る。
「……まだ、薄いです」
「じゃあ、足してください」
もうひとつまみ。
また、味を見る。
「もう少し」
今度は、自分で言った。
誰にも聞かずに、手が動いた。
三度目のひとつまみを落とすとき、指の動きが、少し変わっていた。
迷いのない、料理をする人の手つきに戻っていた。
それから、ハンナは、しばらく黙って、汁を口に含んでいた。
「……ここです」
小さな声だった。
「ここで、いいです」
「分かりました」
わたしは、火を止めた。
器に、よそった。
ハンナは両手で持って、ひと口飲んだ。
今度は、すぐに何も言わなかった。
二口目を飲んで、それから口を開いた。
「おいしいです」
同じ言葉だった。
でも、さっきとは、違って聞こえた。
「本当ですか」
「本当です」
ハンナは言った。
「……たぶん、初めてです。本当のときに、この言葉を使ったの」
わたしは、何も言わなかった。
言うことは、たぶん、なかった。
器が、空になった。
チャイが盆を持って、静かに近づいた。
空の器を下げるとき、少しだけ間があった。
「……お好みで、どうぞ」
卓の上には、まだ塩の小皿と薬草が残っていた。
もう食べ終わっているのに。
ハンナが顔を上げた。
「これ、もう、いらないんじゃ」
「はい。ですが、置いておきます」
チャイはそれだけ言って、盆を抱え直した。
ハンナはしばらく、その小皿を見ていた。
それから、少しだけ笑った。今度のは、困ったときの笑い方では、なかった。
「帰ったら、また六人ぶん作らなきゃ」
ハンナは籠を持ち上げた。
「豆、好きなんですよね。あの子たち」
「はい」
「あたしは、正直、そんなに好きじゃないみたいです」
あっさりと、そう言った。
「でも、作ります。あの子たちの好きなものだから」
「はい」
「ただ」
ハンナは籠を抱え直した。持ち上げる手つきが、来たときより速かった。
「あたしのぶんの椀にだけ、何か足してみます。ちょっとだけ」
それだけだった。
劇的なことは、何も言わなかった。
発車のベルが鳴った。
ハンナは深く頭を下げて、ホームへ降りた。
糸車の音が、まだ続いていた。
彼女はまた、誰かに呼ばれていた。
「はい、なんでしょう」という、あの早い返事が、遠くから聞こえた。
たぶん明日も、同じように呼ばれるのだろう。
それは、変わらない。
列車が、動き出した。
「チャイ」
「はい」
「お好みで、どうぞ、って」
「……はい」
「あれ、塩を下げなかったよね」
「はい。下げませんでした」
チャイは盆を持ち直した。
「理由は、うまく言えません」
「うん」
「ただ、あの方の前から、選べるものをなくしたくありませんでした」
わたしは少し驚いて、チャイを見た。
その言い方は、もう、借り物ではなかった。
棚を見た。
糸車駅でもらった薬草が、少しだけ残っている。
自分のぶんに、何を足すか。
そういえば、わたしもあまり考えたことがなかった。
次の駅までに、少し考えてみようと思った。




