第15話 濃霧駅の向かい合わせの鍋
「次は、濃霧駅。濃霧駅です」
窓の外が、白かった。
雲の中を走っているのかと思った。違った。地面すれすれまで、霧が下りている。
扉を開けると、白いものが車内に流れ込んできた。
冷たくはない。生ぬるい霧だった。
ホームに降りると、自分の足元が見えなかった。
三歩先も、よく分からない。駅舎の輪郭が、かろうじて灰色に浮かんでいるだけだった。
「これは」
「霧の濃い日に当たったようです」
チャイが盆を抱えて、隣に立った。
「この駅は、年の半分がこうなのだとか」
目が、あてにならない。
そう思った瞬間、音と匂いが、急にはっきりした。
どこかで水の滴る音。濡れた石の匂い。
その人はベンチに座っていた。
近づいて、初めて姿が見えた。
うろこのある皮膚。細長い顔。トカゲに似た獣人だった。四十くらいだろうか。
外套の襟を立て、膝の上で両手を組んでいる。荷物は、足元にひとつ。
こちらが二歩まで近づいたところで、その人は顔を上げた。
目はほとんど動かなかった。ただ、視線だけが、わたしの全身を上から下まで、一度だけ通った。
値踏みされた、と思った。
嫌な感じはしなかった。ただ、そういう目つきに慣れている人なのだと分かった。
「食堂の者です。お腹、空いていませんか」
返事まで、間があった。
「……いくらだ」
「代金はいただいていません」
その瞬間、相手の体が、わずかに引いた。
組んでいた手が、ほどけた。
「無料か」
「はい」
「なるほど」
その人はうなずいた。
納得したのではないと、声の調子で分かった。
「当方は、結構」
「そうですか」
「無料のものには、必ず値がついている。表に書いていないだけだ」
言い方は、静かだった。
怒鳴られるより、こたえた。
わたしは、引かなかった。
引く理由がなかったからだ。
「お腹は、空いてるんですか」
「……関係あるまい」
「あるかもしれません」
その人はまた少し黙った。
「空いている。それが何だ」
「じゃあ、作ります」
「食わんと言っている」
「作るのは、わたしの勝手です」
初めて、相手の目が、まっすぐこちらを向いた。
値踏みの目ではなかった。もう少し、警戒に近かった。
名前を聞いた。
しばらく答えなかったが、やがて、短く言った。
ヴェル、と。
鑑定士をしていたという。石や器の、本物と偽物を見分ける仕事。
「もうやめた」
「なぜですか」
「目が悪くなった」
嘘だと、思った。
さっきの視線は、はっきりしていた。
厨房に入るとき、ヴェルは扉のすぐ内側で立ち止まった。
「どうぞ、奥へ」
「ここでいい」
彼はそこから動かなかった。
厨房の全体が見える位置だった。わたしが何を入れ、何をしているか、ぜんぶ見える場所。
――ああ。
わたしは何も言わずに、火を熾した。
棚を見た。
干した豆。糸車駅を出るとき、ハンナさんが籠から分けてくれたものだ。あの下宿の子たちの好物。
それに、同じ駅でもらった根菜と、鉄蕪の残り。
大きな鍋を出した。いちばん大きなものを選んだ。
水を張り、材料を入れた。
切る手元は、わざと隠さなかった。全部、見える向きに置いた。
しばらくすると、湯が動きはじめた。
豆がゆっくり膨らんでいく。
霧のせいか、湯気と霧の区別がつかなかった。
鍋から立ちのぼる熱い湯気と、外から入ってくる冷たい霧が、同じ白さで溶け合っていた。
匂いだけが、はっきりしていた。
豆の、粉っぽい甘さ。根菜の土の匂い。
鍋を卓の真ん中に置いた。
器は、二つ。長い箸を、二膳。
「どうぞ」
「……皿は」
「ありません。ここから、直接どうぞ」
ヴェルは鍋を見た。
それから、わたしを見た。
わたしは自分の器に、先によそった。
ひと口食べて、飲み込んだ。
もうひと口。
彼がじっと見ていた。
毒見をしている、と思われても構わなかった。実際、そのつもりもあった。
「……三口目を」
「はい?」
「三口目を、同じ場所から取れ」
言われたとおり、同じところから、もう一度すくって食べた。
ヴェルはまだ動かなかった。
しばらくして、彼は席についた。
卓には、ついた。
でも、椅子を引かなかった。体が、卓から遠い位置のままだった。
箸を取ったが、上体は反らしたままだった。
鍋から、いちばん遠いところの豆を、一粒だけつまんだ。
それを、しばらく見てから、口に入れた。
かんだ。
飲み込んだ。
何も言わなかった。
それから、また一粒。
「昔」
三粒目のあとで、ヴェルが言った。
「当方に、師がいた」
わたしは自分の器を持ったまま、聞いていた。
「十年、教わった。目のかけ方から、指の当て方まで、全部。……当方は、あの人だけは疑わなかった」
「はい」
「贋作が出た。市場に、大きな。……当方の署名が入っていた」
湯気が、まだ立っていた。
「書いた覚えはない。当方の筆でもない。だが、誰も信じなかった。師も、何も言わなかった」
彼は箸を置いた。
「あの人は、当方が捕まったあとで、一度も来なかった」
わたしは何も言わなかった。
言えることが、なかった。
「だから、今は、こうしている」
ヴェルは続けた。
「誰も信じない。最初から全員、当方を騙す気だと思っておく。そうしておけば」
「……」
「騙されても、崩れない」
彼はそこで少し、口の端を動かした。笑ったのかもしれない。
「みっともないと思うか」
「思いません」
「嘘をつくな」
「本当です」
わたしは器を置いた。
「疑うのは、たぶん、生きるためのやり方のひとつです」
ヴェルは答えなかった。
でも、上体が、ほんの少しだけ、卓のほうへ動いた。
そのときだった。
チャイが盆を抱えたまま、そっと前に出た。
わたしが止める間もなかった。
「……安心、なさってください」
空気が、変わった。
ヴェルの動きが止まった。
箸を持つ手が、卓の上で固まった。
「安心?」
声が、低くなった。
「当方に、何を安心しろと」
「……」
「あんたに、何が分かる」
チャイは答えなかった。
銀の体が、盆を抱えたまま、硬くなっていた。
「安心しろ、と言われて、安心できるなら、当方はここにいない」
ヴェルは椅子を引いた。
さっきよりも、遠くへ。
誰も、動かなかった。
鍋の中で、豆が煮える小さな音だけがした。
霧が、車内をゆっくり流れていく。
チャイはそこに立ったままだった。
助けを求めて、わたしを見ることは、しなかった。
わたしも何も言わなかった。
ここで庇うのは、たぶん、この子のためにならない。
長い沈黙のあとで、チャイが動いた。
盆を抱え直した。
それから、後ろへ、静かに下がった。
謝らなかった。
言い訳もしなかった。
ただ、下がって、そこで止まった。
鍋の白い湯気だけが、二人のあいだで揺れていた。
「……お連れの方は」
しばらくして、ヴェルが言った。
「あれは、何だ」
「この車両の、精霊です」
「精霊」
「はい」
ヴェルは鍋のほうへ、視線を戻した。
「悪意はなかったのだろう」
「はい」
「分かっている。……分かっているから、腹が立った」
彼は箸を持ち直した。
「善意でものを言う人間が、いちばん、たちが悪い。当方はそれを、身をもって知っている」
そう言って、また豆をつまんだ。
今度は、さっきより鍋の中心に近いところから。
それから、ヴェルは黙って食べた。
椅子は、引いたままだった。
上体も、反ったままだった。姿勢は、最後まで変わらなかった。
でも、箸だけは、止まらなかった。
豆が減り、根菜が減り、汁が減っていった。
彼は鍋の底に残ったものまで、丁寧にさらった。
最後に、自分の器を卓に置いた。
こと、と。その音だけが、霧の中に短く響いた。
「まずくはなかった」
ヴェルは言った。
「よかったです」
「だが、当方はあんたを信じてはいない」
「はい」
「これからも信じない」
「はい」
わたしはうなずいた。
「腹は、ふくれた」
それが、彼の言った、最後の言葉だった。
発車のベルが鳴った。
ヴェルは荷物を持って、ホームへ降りた。
霧の中に、すぐ見えなくなった。
振り返らなかった。
礼も、言わなかった。
それでいい、と思った。
列車が、動き出した。
チャイは、まだ、少し離れたところにいた。
「チャイ」
「……はい」
「こっちに来て」
銀の人形が盆を抱えて、そばに来た。
いつもより、動きが遅かった。
「さっきの、間違えたね」
「……はい」
「なんで、あの言葉を言ったの」
しばらく、答えがなかった。
「……あの方が、寒そうに見えたので」
盆を持つ銀の指先が、縁をきつく握っていた。
わたしは少し驚いた。
それは、たぶん、この子が見たものだった。誰の言葉でもなく。
「そう見えたんだ」
「はい。ですから、温まっていただきたいと」
「うん」
「わたくしの言葉が、そうならなかったのは、なぜでしょう」
わたしは少し考えた。
「わたしにも、分からない」
正直に、そう言った。
「でも、たぶん、あなたが悪かったわけじゃないと思う」
「けれど、あの方は、怒りました」
「うん。怒った」
「……」
「両方、本当だよ」
チャイは盆を抱えたまま、しばらく黙っていた。
「言葉を持つと」
やがて、そう言った。
「こういうことが、起きるのですね」
「うん」
「借り物のときには、なかったことです」
それは、そのとおりだった。
定型の言葉は、誰も傷つけない。かわりに、誰にも届かない。
棚を見た。
鍋が洗って伏せてある。
あの人は、明日も誰かを疑うのだろう。
わたしのことも、たぶん、疑ったままでいる。
それでも、あの鍋は、空になった。
わたしは、その事実だけを持っていることにした。




