第16話 日蝕駅のちぎりパン
「次は、日蝕駅。日蝕駅です」
窓の外が、暗かった。
夜ではない。空の高いところに、太陽らしきものが見える。ただ、その真ん中が黒く欠けていた。
「これは」
「日蝕だそうです」
チャイが言った。
「この駅では、しばらく続くのだとか」
ホームに降りると、灰色の光の中にいた。
昼なのに、影が薄い。ものの輪郭が、なんとなくぼやけている。
駅の柱に、ランプが並んでいた。まだ火は入っていない。これから暗くなる、ということらしかった。
ベンチに、ひとりだけ座っている人がいた。
背筋が、まっすぐだった。
それが最初に目についた。誰も見ていないところで、あんなに姿勢のいい人は珍しい。
フクロウに似た獣人だった。三十くらいだろうか。目が大きくて、丸い。
膝の上に、革の鞄を載せている。その上で、両手をきつく組んでいた。
指の関節が、白かった。
「あの」
声をかけると、その人は、すぐに立ち上がった。
「失礼、お待たせしましたでしょうか」
「いえ、わたしが今、来たところです」
「そうでしたか」
丁寧な人だった。
丁寧すぎて、少し息が詰まる感じがした。
食堂の者だと名乗ると、その人は名乗り返した。
オルド、といった。町の書記官をしているという。
「記録を、取る仕事です」
「大変ですね」
「いえ。小生がやらねば、誰もできませんので」
誇りのようにも、聞こえた。
でも、少し違う響きも混じっていた。
「お食事は、もう」
「済ませました」
即答だった。
「お気遣いなく。小生は、問題ありません」
問題ありません、という言い方に、引っかかった。
誰も、問題があるとは言っていない。
わたしは、鞄を見た。
革の鞄は、角が擦り切れるほど使い込まれていた。留め具のところに、細かい傷が無数についている。何度も開け閉めした跡だ。
その鞄を、彼は膝の上から下ろさなかった。
「大事なものが入ってるんですね」
「記録です。町の。……三年分」
「持ち歩いてるんですか」
「置いていくわけには、いきませんので」
そう言って、両手をまた組み直した。
白くなるほど、きつく。
列車のほうから、チャイが降りてきた。
盆を抱えたまま、少し離れたところで止まる。
それから、オルドを見た。しばらく、見ていた。
わたしには、チャイが何かを言おうとしているのが分かった。
でも、言わなかった。
――迷ってる。
前の駅で、この子は言葉を間違えた。良かれと思って言ったことで、人を怒らせた。
その記憶が、この子の中で、まだ新しいのだと思った。
空が、また暗くなった。
太陽の欠けた部分が、さっきより大きい。
ホームの人たちが、柱のランプに火を入れはじめた。ひとつ、またひとつ。
「オルドさんも、どうぞ」
誰かが、マッチの箱を差し出した。ベンチのそばの、小さなランプを指している。
「ああ、はい」
オルドは、鞄を膝から下ろした。
組んでいた手を、離した。
その瞬間だった。
指が、震えていた。
小刻みに、細かく。自分の意思とは関係なく動いている、という震え方だった。
彼は、素早く手を握った。
誰も見ていなければ、それで隠せたかもしれない。
でも、マッチを擦らなければならなかった。
箱から一本取り出す。
擦る。
折れた。
もう一本。
擦る前に、指から滑り落ちた。
三本目。
火はついた。でも、ランプの芯まで持っていく途中で、震えて消えた。
四本目を取り出す指が、はっきりと震えていた。
わたしは、動かなかった。
手を出さなかった。
助けるのは、簡単だった。マッチを取って、火を点ければいい。
でも、そうしたら、この人は「問題ありません」と言い続けなければならなくなる。
――待とう。
チャイが、半歩、前に出た。
息を吸う音が、小さく聞こえた。
でも、言葉は出なかった。
銀の人形は、盆を胸のほうへ強く引き寄せて、それから、静かに後ろへ下がった。
五本目も、折れた。
オルドの手が、止まった。
「……失礼」
声が、かすれていた。
「少し、指が」
「はい」
「昔からでは、ないのです。半年ほど前から」
「はい」
「町の者は、知りません」
彼は、マッチの箱を、両手で持っていた。持っているというより、掴んでいた。
「言えば、どうなると思われますか」
「……」
「小生の記録は、信用されなくなる。三年ぶん、全部です」
空が、もっと暗くなった。
柱のランプは、もうほとんど点いている。オルドのそばの、ひとつだけが暗かった。
「代わりの者は、いません。だから、続けます。震えても、書けているうちは」
「書けなくなったら」
「そのときは、そのときです」
彼は、そう言って、口角を無理に上げた。
それは、笑いの形になっていなかった。
「町の人は、小生を、頼りにしてくださっています」
オルドは続けた。
「あの人に任せておけば大丈夫だと。……それが、ありがたくて」
言葉が、途中で止まった。
「ありがたくて」
「はい。……それだけで、やってこられました」
わたしは、その言い方を、聞いていた。
――それだけで。
誰かの中にある自分の像。それを支えにして立っている人だ、と思った。
崩れたら、立っていられなくなる。だから、崩さない。何を抱えていても。
わたしは、何も言わなかった。
言えば、この人は、また「問題ありません」と言うだろう。
かわりに、厨房へ戻った。
棚を見た。
鉄蕪と、糸車駅の根菜が少し。それに、粉が残っていた。
あの穀物を挽いたものだ。満月市場駅で、バハルさんが積んでくれた月光の穀物。もう光ってはいないけれど、粉にすれば使える。
鍋に、根菜と鉄蕪を入れて、煮た。
やわらかくなったところで、すりつぶした。
滑らかになるまで、時間をかけた。
実を言えば、少し粗いままでも味は変わらない。でも、今日は、滑らかにした。
スプーンを使わずに済むように。
器は、取っ手のないものを選んだ。
両手で包める、大きな椀。
粉は、水と塩で練って、焼いた。
丸い、平たいパン。切らずに、そのまま出す。
卓に、椀とパンを置いた。
「これは」
「よかったら」
「食事は、済ませたと」
「はい。でも、作ってしまったので」
オルドは、椀を見た。
それから、わたしを見た。
わたしは、何も付け足さなかった。
説明すれば、この人は気を遣う。
彼は、席についた。
椀に、手を伸ばす。
両手で、包むように持ち上げた。取っ手がないので、そうするしかない。
持ち上げてから、少し止まった。
震えが、収まっていた。
両手で支えているぶん、片手のときより、揺れが小さい。
彼は、そのまま、口をつけた。
「……あたたかい」
それだけ言って、しばらく黙って飲んでいた。
パンには、しばらく手をつけなかった。
それから、片手でちぎろうとして、うまくいかなかった。
両手を使った。
左手で押さえて、右手でちぎる。
ちぎれた。
彼は、その断面を、少し見ていた。
「……不揃いです」
「はい」
「小生の書く字は、不揃いになりました。以前は、そうではなかった」
「はい」
「みっともないと、思われますか」
わたしは、ちぎられた断面を見た。
「パンは、そうは思いません」
オルドは、こちらを見た。
それから、ちぎったパンを、椀に浸して食べた。
空が、いちばん暗くなった。
太陽が、ほとんど黒い輪になっている。
ホームの人たちの姿も、もう影にしか見えなかった。
オルドのそばのランプだけが、まだ暗いままだった。
彼は、椀を置いた。
それから、マッチの箱を、また手に取った。
一本、取り出す。
震えている。
擦った。折れた。
もう一本。折れた。
箱の中身が、あと少しになっていた。
足元に、折れた軸が、いくつも落ちていた。
わたしは、立っていた。
手を出さなかった。
チャイも、動かなかった。
オルドは、しばらく、箱を見ていた。
「……あの」
声が、小さかった。
「はい」
「火を」
言葉が、そこで止まった。
長い間があった。
空は、もう夜のようだった。
「……火を、点けてくれませんか」
絞り出された声は、震えていた。
でも、そこに、あの笑いの形は、もうなかった。
それだけの言葉だった。
でも、その人が言うまでに、半年かかった言葉だった。
「はい」
わたしは、そう答えた。
チャイが、動いた。
何も言わずに、マッチを一本取って、擦った。
小さな火が点いて、ランプの芯に移った。
明かりが、ひとつ増えた。
オルドは、その火を見ていた。
「……ありがとうございます」
「いえ」
「小生は、これを、言えませんでした。半年」
「はい」
「言ってみると、短いものですね」
彼は、少し笑った。
今度は、うまくいっていた。
発車のベルが鳴った。
オルドは、鞄を持って、立ち上がった。
両手で、抱えるように持っていた。片手では、たぶん、危ないからだろう。
「町に戻ったら」
彼は言った。
「どうされますか」
「……分かりません」
正直な返事だった。
「言うかもしれませんし、言わないかもしれません。ただ」
「はい」
「両手で持てば、こぼさないと、分かりましたので」
それだけ言って、頭を下げた。
暗いホームを、彼は歩いていった。
鞄を、両手で抱えたまま。
列車が、動き出した。
窓の外で、太陽が、少しずつ戻りはじめていた。
欠けていた部分の端が、細く光っている。
「チャイ」
「はい」
「さっき、何か言おうとしてたよね」
「……はい」
「なんで、やめたの」
しばらく、答えがなかった。
「前の駅で、間違えましたので」
「うん」
「同じことを、繰り返したくありませんでした」
銀の人形は、盆を持ち直した。
「ですが、黙っているあいだ、ずっと考えておりました」
そこで一度、言葉が切れた。
「いま言わないことも、わたくしが選んだことになるのだと」
わたしは、その言い方を聞いていた。
「うん」
「間違えるのが怖くて黙るのと、待つために黙るのは、違うのでしょうか」
「……違うと思う」
「どちらだったのか、自分では、まだ分かりません」
正直な言葉だった。
「今日は、たぶん、待つほうだったよ」
「そうでしょうか」
「うん。だって、あの人が言ったあと、あなたはすぐ動いた」
チャイは、少し黙った。
「……口をつぐむことも、言葉のひとつなのですね」
わたしは、うなずいた。
棚を見た。
粉が、まだ少し残っている。
次の駅でも、たぶん、何かを焼くことになる。
窓の外の太陽は、まだ半分欠けたままだった。
でも、戻りかけているのは、確かだった。




