第17話 落葉駅のにじみ色スープ
「次は、落葉駅。落葉駅です」
窓の外を、葉が流れていた。
一枚や二枚ではない。赤や黄色や、まだ緑の残ったものが、空を埋めるように舞っている。
風で飛んでいるのではなかった。ただ、上から下へ、ゆっくり落ちていた。
ホームに降りると、足首まで葉が積もっていた。
歩くたびに、かさ、と鳴る。
ホームの端に浅い水路があった。落ちた葉が、そこに溜まっている。水に浸かった葉から、色がゆっくりとにじみ出していた。
赤い葉からは赤が、黄色い葉からは黄色が。
水はそれらが混ざって、茶色がかった色になっていた。
「きれい、というのとは、少し違いますね」
チャイが言った。
「うん。でも、見ていられる」
葉の色は、水に溶けきると、そこで消える。
完全に色が抜けた葉は白っぽくなって、水路の底に沈んでいた。
ベンチに、ひとりだけ座っている人がいた。
樹木族だと分かった。肌が木の皮に似た質感をしている。髪のあいだから、細い枝のようなものが数本、伸びていた。
若い。二十代のはじめくらいに見える。
膝の上に、紙の束を広げていた。
わたしは近づいた。
「あの」
声をかけると、その人は顔を上げた。
そして、何か言った。
――分からない。
言葉ではあった。抑揚も音の並びも、確かに言葉のものだった。
でも、意味が、まったく取れなかった。
「……ごめんなさい。分かりません」
わたしがそう言うと、相手も同じような表情をした。
通じていない。お互いに。
わたしは自分の胸を指してから、列車のほうを指した。
それから、口に手を当てて、食べる仕草をした。
相手はそれを見ていた。
しばらくして、首を横に振った。
断られたのか、意味が分からなかったのか、それも判断がつかなかった。
膝の上の紙が目に入った。
文字が書いてある。見たことのない字だった。
紙は、何枚もあった。びっしりと書かれている。
書き直した跡がいくつもあった。線で消して、その上にまた書いて、また消して。
紙の端が、何度も折られたようによれている。
いちばん上の紙を、風がめくった。
――宛名が、ない。
手紙のように見えるのに、封筒がない。誰に宛てたのかも書いていない。
文字の一部が、にじんでいた。水が落ちたような跡だった。
その人は慌てて紙を押さえた。
そして、束を胸に抱え込んだ。
わたしはそれ以上見なかった。
かわりに、また食べる仕草をした。
今度は、少しゆっくり。
その人はこちらを見た。
それから、また首を振った。
でも、さっきより、弱い振り方だった。
厨房に戻った。
注文は聞けない。好みも分からない。
何が食べられて、何が食べられないかも、聞きようがない。
棚を見た。
鉄蕪。糸車駅の根菜。それに、この駅で拾ってきた、色の濃い実がいくつか。
水路の縁に生っていたものだ。落ちた葉と同じように、水に色を出すらしい。
鍋に水を張り、火にかけた。
澄んだままの湯に、まず鉄蕪を入れた。
それから、色の濃い実を、いくつか落とした。
実が湯の中で少しずつ崩れていく。
崩れた場所から色が出はじめた。
赤に近い色だった。
最初は一点から。それが糸を引くように広がり、湯の中でゆっくりと交じり合っていく。
――さっきの水路と、同じだ。
わたしはその様子を、しばらく見ていた。
湯がじゅうぶんに色づいた。
最後に根菜を加えて、やわらかくなるまで煮た。
器によそう。
濃い赤と、根菜の白と、鉄蕪の淡い色が、まだ完全には混ざりきっていなかった。
色の境目が、まだ見える。時間が経てば、これも溶けて、ひとつの色になるだろう。
ホームに持っていった。
その人の前の、小さな台に置いた。
何も言わずに、置いただけだった。
その人は器を見た。
しばらく、見ていた。
それから、両手で持ち上げた。指が、少し赤くなっていた。ずっと外にいたのだろう。冷えている手だった。
器を持ったまま、動きが止まった。
――あたたかいから、だ。
冷えた手には、それだけで、じゅうぶんな情報だった。
その人はひと口飲んだ。
それから、器の中を見た。
まだ混ざりきっていない色の境目を、じっと見ていた。
指を器の縁に沿わせた。
爪の脇に、落ちない色が残っている。
染物をする人の手だと、そのとき気づいた。
その人は何か言った。
やっぱり、分からなかった。
でも、質問の抑揚だった。何かを聞かれたのだと、それだけは分かった。
「その実の色です」
わたしは答えた。通じないと知りながら。
鍋のほうを指して、それから、水路のほうを指した。
その人は両方を見た。
それから、もう一度、器の中を見た。
葉がまた落ちてきた。
一枚が、膝の上の紙束に落ちた。
濡れた葉だった。
紙に色が移った。
その人が小さく声を上げた。
急いで葉を払う。でも、色は残った。文字の一部が、赤くなっていた。
その人の手が止まった。
染みになった箇所を指でこすった。
落ちなかった。
もう一度こすった。
それから、動かなくなった。
わたしは、何も言わなかった。
言えることが、なかった。言葉が通じるとしても、たぶん、なかった。
その人は紙を見ていた。
肩が、少しずつ、下がっていった。
それから、両手で口を押さえた。
声は、漏れなかった。
両手が、口元を白くなるほど強く塞いでいた。
チャイが動いた。
盆を抱えたまま、そっと近づいた。
わたしは、止めなかった。この子が自分で決めたのだと、分かったからだ。
チャイは何も渡さなかった。
助けようともしなかった。
ただ、紙の束の隣に、乾いた布を一枚、置いた。
その人の指先が、微かに動いた。
これ以上、濡れないように。
それだけの意味の布だった。
その人はしばらく、その布を見ていた。
「……お受け取り、ください」
チャイが言った。
通じない。分かっていて、言った。
その人は顔を上げた。
意味は、たぶん、伝わっていない。
でも、こちらを見た。
布を取り、紙を押さえた。
染みは、消えなかった。
それでも、それ以上は広がらなかった。
その人は紙の束を、丁寧に揃えた。
それから、鞄にしまった。
しまう前に、いちばん上の一枚を、少しだけ長く見ていた。
赤く染まった文字のところを。
スープの残りを、飲み干した。
器を置いて、その人はわたしのほうを見た。
そして、何か言った。
短い言葉だった。
語尾が、上がらなかった。質問ではない。
わたしには、意味が分からなかった。
でも、頭を下げた。
その人も、下げた。
それで、終わりだった。
水路のほうを見ると、葉の色が、ほとんど抜けていた。
白くなった葉が、底に沈んでいる。
水は、さっきより濃い色になっていた。
発車のベルが鳴った。
その人は立ち上がった。
鞄を抱え、ホームの階段のほうへ歩いていく。
途中で、一度だけ、振り返った。
何も言わなかった。
こちらも、言わなかった。
その人はまた前を向いて、歩いていった。
布は返さずに持っていった。
返し方が分からなかったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
列車が、動き出した。
「チャイ」
「はい」
「さっきの、通じてなかったよ」
「はい。存じております」
銀の人形は盆を持ち直した。
「なんで、言ったの」
しばらく、答えがなかった。
「……分かりません」
やがて、チャイは言った。
「ただ、黙って布を置くだけでは、置いた理由が伝わらないと思いました」
「うん」
「言葉でも、伝わりませんでしたが」
「うん」
「それでも、置いただけよりは、何か伝わったような気がしております」
わたしはそれを聞いていた。
「どうしてそう思ったの」
「あの方が、こちらを見たので」
それだけだった。
それだけで、たぶん、じゅうぶんだった。
「前は、言って間違えた」
わたしは言った。
「はい」
「その前の駅では、言わなかった」
「はい」
「今日は」
「……今日は、選びました」
チャイはそう言った。
「通じないと分かっていて、それでも言うほうを、選びました」
窓の外を、葉が流れていた。
まだ色のあるものと、抜けきったものが、混ざって落ちていく。
「よかったと思うよ」
「そうでしょうか」
「うん」
「わたくしには、まだ、分かりません」
その言い方も、たぶん、この子の言葉だった。
棚を見た。
色の濃い実が、まだいくつか残っている。
いつか、また使うだろう。
そのときは、もっと濃くにじませてもいいかもしれない。
そう思った。




