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『環状霊脈線、つばめ食堂はじめます』~元・車内販売員の異世界各駅停車~  作者: 夕凪 鏡介


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18/25

第18話 窯場駅の鉄蕪のしずく


「次は、窯場駅。窯場駅です」


 匂いが、先に来た。


 窓を閉めているのに、車内まで入ってきていた。焼けた粉の匂いだった。香ばしくて、奥のほうが少し甘い。


「パンです」

 チャイが言った。

「この町は、窯だらけなのだそうです」



 ホームに降りると、匂いはもっと濃かった。


 線路の向こうに、低い屋根が並んでいる。そのあいだから、煙が何本も上がっていた。太いのや細いのが、数えきれないほど。

 風がないので、煙はまっすぐ立ちのぼって、高いところでゆっくり崩れていた。


「一日に一度、火を落とすそうです」

「そう」

「煙が止まりましたら、わたくしどもも出ることになります」


 わたしは、煙を見上げた。

 まだ、じゅうぶんに太かった。



 ホームのベンチに、人がひとり座っていた。


 人間だった。歳は、わたしとそう変わらないように見えた。旅装をしている。外套の裾が、長く歩いた人のそれだった。

 膝の上ではなく、足元に紙の袋を置いていた。


 きれいな袋だった。

 角が、潰れていない。持ち手のところにも、しわがなかった。ずっと大事に持ってきた人の、持ち方に見えた。


 その人は、線路のほうを向いて座っていた。

 煙は、反対側に上がっている。



「あの」


 声をかけると、その人はこちらを見た。


「……はい」

「食堂の者です。お腹、空いていませんか」


 少し、間があった。


「うちは、結構です」

「そうですか」

「ありがとうございます」


 断り方が、丁寧すぎた。

 断ることに慣れている人の、言い方だと思った。



 わたしは、その場に立っていた。

 すぐには戻らなかった。


 その人は、また線路のほうを向いた。

 煙は、うしろにある。振り向けば見えるはずだった。でも、振り向かなかった。


 風が少し動いて、匂いが強くなった。


 その人の肩が、わずかに上がった。

 息を吸ったのだと、分かった。深く、長く。


 それから、その人は襟を直した。

 喉のところを、隠すように。



「この町の方ですか」


 聞いてから、失礼だったかもしれないと思った。


「……分かりますか」

「いえ。なんとなく」

「生まれは、ここです」


 その人は、膝の上で手を組んだ。


「出ました。若いころに。窯の家です。継ぐのが決まっていました」

「はい」

「うちは、それが嫌で」


 言葉が、そこで少し止まった。


「妹が継ぎました。いまも焼いています。毎日」



 その人の言葉は、きれいだった。訛りが、ない。

 でも、自分のことを言うときだけ、うち、と言った。


 そこだけ、直っていなかった。



「お土産ですか」


 足元の袋を見て、そう聞いた。


「……はい。妹に」

「遠くから」

「三日、歩きました」

「渡しに行かないんですか」


 答えは、なかった。


 煙は、まだ上がっていた。



 わたしは、厨房に戻らなかった。


 少しだけ離れて、ホームの柱のそばに立っていた。

 その人が何か言うかもしれない、と思った。言わないかもしれない、とも思った。


 どちらでもよかった。



 しばらくして、その人が口を開いた。


「ものが、通らないんです」


 喉のところに、指を当てていた。


「病気で、細くなりました。かんでも、飲み込めません。汁くらいなら、少し」

「はい」

「治りません。もう、そう言われました」


 声は、落ち着いていた。

 何度も言ったことのある、言い方だった。



「窯出しの日が、明日なんです」

 その人は続けた。

「町じゅうで、焼きたてを囲みます。ちぎって、まわして、みんなで食べる。子供のころから、そうでした」

「はい」

「うちだけ、食べられません」


 風が、また動いた。

 匂いが、また来た。


「気を遣わせます。妹にも、近所の人にも。誰かが必ず、うちの前だけ皿を下げます」

「はい」

「それが嫌なんじゃないんです」


 その人は、首を振った。


「行ったら、うちは食べられない人になります。それだけの人に」

「……」

「ここにいるあいだは、まだ、ただの旅の者でいられます」



 名前は、聞かなかった。


 わたしは、何も言わなかった。


 その人は、しばらく黙っていた。

 それから、もっと低い声で言った。


「それに」

「はい」

「行かなくても、窯は焼けます」


 言い終わってから、その人は口を閉じた。


「毎日、焼けています。うちがいなくても、二十年」


 煙のほうを、やはり見なかった。



 わたしは、答えを持っていなかった。


 そんなことはない、と言うことはできた。たぶん、嘘でもなかった。

 でも、それを言えるのは、妹さんだけだと思った。わたしではない。


 だから、言わなかった。



 かわりに、厨房へ戻った。


 棚を見た。


 鉄蕪が、まだたくさんある。錆鉄駅で、ゴルダさんが運びきれないほど積んでくれたものだ。

 砂漠の塩は、塊がずいぶん小さくなっていた。粉雪駅で塩釜に使ってから、減る一方だ。


 汁くらいなら通る、と言っていた。


 汁を出すのは、簡単だった。

 でも、それでは、食べられない人のための汁になる。


 わたしが出したいのは、そうじゃなかった。



 鉄蕪を、一つ手に取った。


 包丁を寝かせた。

 刃を当てて、削る。


 薄く。もっと薄く。

 向こうが透けるくらいまで。


 この加減は、体が覚えていた。前の仕事で、硬いアイスを客の好みに合わせて削っていたころの、指の力だ。強すぎると、割れる。弱すぎると、刃が滑る。


 削った蕪が、皿の上に積もっていった。

 紙のようだった。持ち上げると、光が通った。



 湯を沸かした。

 沸ききる少し前で止めて、塩をひとつまみ落とす。


 器に、削った蕪を入れた。その上から、湯を注いだ。


 蕪は、すぐに縮んだ。

 白かったものが透けて、色がなくなっていく。輪郭が消えて、湯に混じっていった。


 形は、残らなかった。


 でも、匂いが変わった。

 湯だったものが、蕪の匂いになった。



 ホームへ運んだ。


 その人の前の、小さな台に置いた。


「これは」

「鉄蕪です」

「……蕪、ですか」

「削って、溶かしました」


 その人は、器を見た。

 薄い色の湯が、あるだけだった。具は、ない。


「これは、そういう料理です」


 わたしは、そう言った。

 それ以上は、言わなかった。



 その人は、しばらく器を見ていた。


 それから、両手で持ち上げた。

 湯気が、顔のほうへ上がっていく。


 その人は、目を閉じた。

 鼻から、深く息を吸った。


 さっき、パンの匂いにしたのと同じ動きだった。



 ひと口。


 喉が、動いた。

 ほんの、ひとしずくぶんの動きだった。


 通ったのだと、分かった。


 その人は、何も言わなかった。

 もうひと口、飲んだ。


 三口目で、手が止まった。


「変わりました」

「はい」

「さっきより、甘い」

「削ったものが、まだ溶けています」


 器の底のほうに、まだ溶けきらない薄い蕪が沈んでいた。


「飲むあいだじゅう、変わるんですか」

「はい」

「……ずるい料理ですね」


 その人は、少し笑った。

 笑ったのは、そのときが初めてだった。



 煙が、細くなりはじめていた。


 さっきまで太かったものが、何本か、もう見えない。

 火を落としはじめたのだと、思った。


 その人の、器を持つ手が止まっていた。


 煙が、また一本、空に溶けて消えた。


 でも、うしろは向かなかった。



 わたしは、動かなかった。


 まだ間に合いますよ、と言うことはできた。

 でも、それは、行けと言うのと同じだった。


 わたしが決めることじゃない。



 そのときだった。


 チャイが、動いた。


 銀の人形は、抱えていた盆を、そっと台の上に置いた。

 置いたのを、わたしは初めて見た。


 それから、ベンチのそばまで行って、その人の隣で止まった。


「……ご一緒しても、よろしいでしょうか」


 その人が、顔を上げた。


 わたしは、息を止めていた。


 断られるかもしれない、と思った。

 たぶん、この子も、そう思っていた。



 長い間があった。


「……どうぞ」


 その人は、そう言って、ベンチの端に少しだけ寄った。


 場所を空ける必要は、なかったはずだった。

 チャイは、手のひらに乗るくらいの大きさしかない。



 チャイは、ベンチの座面に降りた。

 その人の隣に、小さく座った。


 いつも宙に浮いているところしか見たことがなかったので、その姿は、見慣れなかった。


 その人は、器を持ち直した。

 湯気が、また上がった。


 チャイは、その湯気のほうへ少し顔を向けた。

 それから、目を閉じた。


 その人も、目を閉じていた。


 二人とも、何も言わなかった。

 わたしも、言わなかった。


 風が来て、パンの匂いが混ざった。

 湯気の匂いと、窯の匂いが、同じところにあった。



 煙が、あと数本になった。


 その人は目を開けて、器の残りを飲み干した。

 底に沈んだものまで、時間をかけて。


「ごちそうさまでした」

「はい」


 器を置いて、足元の袋を持ち上げた。


 立ち上がって、その人はうしろを向いた。


 煙のほうを、見た。


 わたしがこの人を見つけてから、初めてだった。


 最後の何本かが、細くなりながら、まだ上がっていた。



「走れば、火のあるあいだに着きます」

 その人は言った。

「……走るのは、久しぶりですけど」


 わたしは、うなずいた。


 その人は袋を開けて、中から一つ、取り出した。


 干した果実だった。しわの寄った、濃い色のもの。


「これ」

「いえ、そんな」

「三つ入っています。一つくらい減っても、ばれません」


 その人は、それをわたしの手に載せた。


「うちが好きだったものです。食べられなくなる前に」

「……いただきます」



 階段のほうへ歩きかけて、その人は一度止まった。


「あの」

「はい」

「隣に、座ってもらったの」


 その人は、チャイのほうを見た。


「久しぶりでした」


 それだけ言って、階段を降りていった。


 走ってはいなかった。

 でも、速かった。



 発車のベルが鳴った。


 列車が動き出すとき、窓から煙を探した。

 もう、二本しか残っていない。


 どちらも、細かった。



「チャイ」

「はい」

「盆、置いてたね」

「……はい」

「初めて見た」

「座るのに、邪魔でしたので」


 銀の人形は、盆を抱え直した。

 もう、いつもの持ち方に戻っていた。


「断られるかもって、思った」

「はい」

「思ったのに、言ったんだ」

「はい」


 列車が、少し速くなった。


「なぜでしょうね」

 チャイは言った。

「言わずに、そばにいることもできました。黙って立っていれば、断られることもございません」

「うん」

「けれど、それでは、あの方の隣は、空いたままでした」



 わたしは、その言い方を聞いていた。


「返事を、いただきました」

 チャイは続けた。

「どうぞ、と」

「うん」

「借り物の言葉には、返事が要りませんでした」


 そのとおりだった。


「返事を待つのは、こわいものですね」

「うん」

「……ですが、待ってよかったと思っております」



 言葉を出すことと、返ってくるのを待つことは、たぶん、別のことだ。


 この子は、今日、あとのほうをやった。



 棚に、干した果実を置いた。


 小さくて、しわが寄っている。

 このまま食べてもいいし、煮てもいい。何にするかは、まだ決めていない。


 窓の外に、もう煙は見えなかった。


 匂いだけが、しばらく残っていた。





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