第18話 窯場駅の鉄蕪のしずく
「次は、窯場駅。窯場駅です」
匂いが、先に来た。
窓を閉めているのに、車内まで入ってきていた。焼けた粉の匂いだった。香ばしくて、奥のほうが少し甘い。
「パンです」
チャイが言った。
「この町は、窯だらけなのだそうです」
ホームに降りると、匂いはもっと濃かった。
線路の向こうに、低い屋根が並んでいる。そのあいだから、煙が何本も上がっていた。太いのや細いのが、数えきれないほど。
風がないので、煙はまっすぐ立ちのぼって、高いところでゆっくり崩れていた。
「一日に一度、火を落とすそうです」
「そう」
「煙が止まりましたら、わたくしどもも出ることになります」
わたしは、煙を見上げた。
まだ、じゅうぶんに太かった。
ホームのベンチに、人がひとり座っていた。
人間だった。歳は、わたしとそう変わらないように見えた。旅装をしている。外套の裾が、長く歩いた人のそれだった。
膝の上ではなく、足元に紙の袋を置いていた。
きれいな袋だった。
角が、潰れていない。持ち手のところにも、しわがなかった。ずっと大事に持ってきた人の、持ち方に見えた。
その人は、線路のほうを向いて座っていた。
煙は、反対側に上がっている。
「あの」
声をかけると、その人はこちらを見た。
「……はい」
「食堂の者です。お腹、空いていませんか」
少し、間があった。
「うちは、結構です」
「そうですか」
「ありがとうございます」
断り方が、丁寧すぎた。
断ることに慣れている人の、言い方だと思った。
わたしは、その場に立っていた。
すぐには戻らなかった。
その人は、また線路のほうを向いた。
煙は、うしろにある。振り向けば見えるはずだった。でも、振り向かなかった。
風が少し動いて、匂いが強くなった。
その人の肩が、わずかに上がった。
息を吸ったのだと、分かった。深く、長く。
それから、その人は襟を直した。
喉のところを、隠すように。
「この町の方ですか」
聞いてから、失礼だったかもしれないと思った。
「……分かりますか」
「いえ。なんとなく」
「生まれは、ここです」
その人は、膝の上で手を組んだ。
「出ました。若いころに。窯の家です。継ぐのが決まっていました」
「はい」
「うちは、それが嫌で」
言葉が、そこで少し止まった。
「妹が継ぎました。いまも焼いています。毎日」
その人の言葉は、きれいだった。訛りが、ない。
でも、自分のことを言うときだけ、うち、と言った。
そこだけ、直っていなかった。
「お土産ですか」
足元の袋を見て、そう聞いた。
「……はい。妹に」
「遠くから」
「三日、歩きました」
「渡しに行かないんですか」
答えは、なかった。
煙は、まだ上がっていた。
わたしは、厨房に戻らなかった。
少しだけ離れて、ホームの柱のそばに立っていた。
その人が何か言うかもしれない、と思った。言わないかもしれない、とも思った。
どちらでもよかった。
しばらくして、その人が口を開いた。
「ものが、通らないんです」
喉のところに、指を当てていた。
「病気で、細くなりました。かんでも、飲み込めません。汁くらいなら、少し」
「はい」
「治りません。もう、そう言われました」
声は、落ち着いていた。
何度も言ったことのある、言い方だった。
「窯出しの日が、明日なんです」
その人は続けた。
「町じゅうで、焼きたてを囲みます。ちぎって、まわして、みんなで食べる。子供のころから、そうでした」
「はい」
「うちだけ、食べられません」
風が、また動いた。
匂いが、また来た。
「気を遣わせます。妹にも、近所の人にも。誰かが必ず、うちの前だけ皿を下げます」
「はい」
「それが嫌なんじゃないんです」
その人は、首を振った。
「行ったら、うちは食べられない人になります。それだけの人に」
「……」
「ここにいるあいだは、まだ、ただの旅の者でいられます」
名前は、聞かなかった。
わたしは、何も言わなかった。
その人は、しばらく黙っていた。
それから、もっと低い声で言った。
「それに」
「はい」
「行かなくても、窯は焼けます」
言い終わってから、その人は口を閉じた。
「毎日、焼けています。うちがいなくても、二十年」
煙のほうを、やはり見なかった。
わたしは、答えを持っていなかった。
そんなことはない、と言うことはできた。たぶん、嘘でもなかった。
でも、それを言えるのは、妹さんだけだと思った。わたしではない。
だから、言わなかった。
かわりに、厨房へ戻った。
棚を見た。
鉄蕪が、まだたくさんある。錆鉄駅で、ゴルダさんが運びきれないほど積んでくれたものだ。
砂漠の塩は、塊がずいぶん小さくなっていた。粉雪駅で塩釜に使ってから、減る一方だ。
汁くらいなら通る、と言っていた。
汁を出すのは、簡単だった。
でも、それでは、食べられない人のための汁になる。
わたしが出したいのは、そうじゃなかった。
鉄蕪を、一つ手に取った。
包丁を寝かせた。
刃を当てて、削る。
薄く。もっと薄く。
向こうが透けるくらいまで。
この加減は、体が覚えていた。前の仕事で、硬いアイスを客の好みに合わせて削っていたころの、指の力だ。強すぎると、割れる。弱すぎると、刃が滑る。
削った蕪が、皿の上に積もっていった。
紙のようだった。持ち上げると、光が通った。
湯を沸かした。
沸ききる少し前で止めて、塩をひとつまみ落とす。
器に、削った蕪を入れた。その上から、湯を注いだ。
蕪は、すぐに縮んだ。
白かったものが透けて、色がなくなっていく。輪郭が消えて、湯に混じっていった。
形は、残らなかった。
でも、匂いが変わった。
湯だったものが、蕪の匂いになった。
ホームへ運んだ。
その人の前の、小さな台に置いた。
「これは」
「鉄蕪です」
「……蕪、ですか」
「削って、溶かしました」
その人は、器を見た。
薄い色の湯が、あるだけだった。具は、ない。
「これは、そういう料理です」
わたしは、そう言った。
それ以上は、言わなかった。
その人は、しばらく器を見ていた。
それから、両手で持ち上げた。
湯気が、顔のほうへ上がっていく。
その人は、目を閉じた。
鼻から、深く息を吸った。
さっき、パンの匂いにしたのと同じ動きだった。
ひと口。
喉が、動いた。
ほんの、ひとしずくぶんの動きだった。
通ったのだと、分かった。
その人は、何も言わなかった。
もうひと口、飲んだ。
三口目で、手が止まった。
「変わりました」
「はい」
「さっきより、甘い」
「削ったものが、まだ溶けています」
器の底のほうに、まだ溶けきらない薄い蕪が沈んでいた。
「飲むあいだじゅう、変わるんですか」
「はい」
「……ずるい料理ですね」
その人は、少し笑った。
笑ったのは、そのときが初めてだった。
煙が、細くなりはじめていた。
さっきまで太かったものが、何本か、もう見えない。
火を落としはじめたのだと、思った。
その人の、器を持つ手が止まっていた。
煙が、また一本、空に溶けて消えた。
でも、うしろは向かなかった。
わたしは、動かなかった。
まだ間に合いますよ、と言うことはできた。
でも、それは、行けと言うのと同じだった。
わたしが決めることじゃない。
そのときだった。
チャイが、動いた。
銀の人形は、抱えていた盆を、そっと台の上に置いた。
置いたのを、わたしは初めて見た。
それから、ベンチのそばまで行って、その人の隣で止まった。
「……ご一緒しても、よろしいでしょうか」
その人が、顔を上げた。
わたしは、息を止めていた。
断られるかもしれない、と思った。
たぶん、この子も、そう思っていた。
長い間があった。
「……どうぞ」
その人は、そう言って、ベンチの端に少しだけ寄った。
場所を空ける必要は、なかったはずだった。
チャイは、手のひらに乗るくらいの大きさしかない。
チャイは、ベンチの座面に降りた。
その人の隣に、小さく座った。
いつも宙に浮いているところしか見たことがなかったので、その姿は、見慣れなかった。
その人は、器を持ち直した。
湯気が、また上がった。
チャイは、その湯気のほうへ少し顔を向けた。
それから、目を閉じた。
その人も、目を閉じていた。
二人とも、何も言わなかった。
わたしも、言わなかった。
風が来て、パンの匂いが混ざった。
湯気の匂いと、窯の匂いが、同じところにあった。
煙が、あと数本になった。
その人は目を開けて、器の残りを飲み干した。
底に沈んだものまで、時間をかけて。
「ごちそうさまでした」
「はい」
器を置いて、足元の袋を持ち上げた。
立ち上がって、その人はうしろを向いた。
煙のほうを、見た。
わたしがこの人を見つけてから、初めてだった。
最後の何本かが、細くなりながら、まだ上がっていた。
「走れば、火のあるあいだに着きます」
その人は言った。
「……走るのは、久しぶりですけど」
わたしは、うなずいた。
その人は袋を開けて、中から一つ、取り出した。
干した果実だった。しわの寄った、濃い色のもの。
「これ」
「いえ、そんな」
「三つ入っています。一つくらい減っても、ばれません」
その人は、それをわたしの手に載せた。
「うちが好きだったものです。食べられなくなる前に」
「……いただきます」
階段のほうへ歩きかけて、その人は一度止まった。
「あの」
「はい」
「隣に、座ってもらったの」
その人は、チャイのほうを見た。
「久しぶりでした」
それだけ言って、階段を降りていった。
走ってはいなかった。
でも、速かった。
発車のベルが鳴った。
列車が動き出すとき、窓から煙を探した。
もう、二本しか残っていない。
どちらも、細かった。
「チャイ」
「はい」
「盆、置いてたね」
「……はい」
「初めて見た」
「座るのに、邪魔でしたので」
銀の人形は、盆を抱え直した。
もう、いつもの持ち方に戻っていた。
「断られるかもって、思った」
「はい」
「思ったのに、言ったんだ」
「はい」
列車が、少し速くなった。
「なぜでしょうね」
チャイは言った。
「言わずに、そばにいることもできました。黙って立っていれば、断られることもございません」
「うん」
「けれど、それでは、あの方の隣は、空いたままでした」
わたしは、その言い方を聞いていた。
「返事を、いただきました」
チャイは続けた。
「どうぞ、と」
「うん」
「借り物の言葉には、返事が要りませんでした」
そのとおりだった。
「返事を待つのは、こわいものですね」
「うん」
「……ですが、待ってよかったと思っております」
言葉を出すことと、返ってくるのを待つことは、たぶん、別のことだ。
この子は、今日、あとのほうをやった。
棚に、干した果実を置いた。
小さくて、しわが寄っている。
このまま食べてもいいし、煮てもいい。何にするかは、まだ決めていない。
窓の外に、もう煙は見えなかった。
匂いだけが、しばらく残っていた。




