第19話 岩壁駅のふくらむ果実
「次は、岩壁駅。岩壁駅です」
窓が、暗くなった。
トンネルではなかった。両側から、岩が迫っている。
空は、細く長い帯になって、頭の上にだけ残っていた。
列車が停まると、その帯だけが明るかった。
ホームは、狭かった。
人がすれ違うのがやっとの幅で、片側はすぐ岩壁だ。
試しに、足を一度、強く踏んでみた。
少ししてから、同じ音が返ってきた。
すぐではない。ひと呼吸おいてから、上のほうから降りてくる。
「返ってきますね」
「はい」
チャイが言った。
「少し、遅れて」
ベンチは、なかった。
かわりに岩を削っただけの段があって、そこに子どもが座っていた。
犬に似た獣人だった。垂れた耳。まだ子どもだ。
背は、わたしの胸のあたりまでしかない。
膝を抱えている。首から、小さな鈴を下げていた。
こちらに気づくと、その子は立ち上がった。
「わ、列車だ。ここ、めったに停まらないんだよ。知ってた? 岩が崩れるからさ、みんな避けて通るんだって。でも今日は崩れてないね。おいら、朝からずっと見てるけど、一回も崩れてない。あ、食堂? 看板出てるもんね。いいなあ、動く店って初めて見た。一座にもさ、荷車で舞台やる人がいるんだけど、あれは車輪だけだから、線路のは初めて」
息を、継がなかった。
わたしは、少し驚いていた。
「……食堂の者です」
「うん、知ってる。看板見たから。おいら、字は少し読めるんだ。少しだけね」
名前を聞いた。
名乗ったけれど、そのまま次の話に流れていったので、うまく聞き取れなかった。
聞き返す間も、なかった。
「一座の下働きなんだ。荷を積んだり、水を汲んだり。今日はここで待ってるの。みんな先に行っちゃってさ。いや、置いてかれたんじゃないよ。おいらが荷を見てるの。大事な荷だから。誰かが見てないとだめだから」
その子は、段のほうを指した。
布をかけた荷が、いくつか積んである。
たしかに、誰かが見ている必要はあるのだろう。
「お腹、空いていませんか」
「空いてる! すごく空いてる」
即答だった。
「でもね、一座の飯はまだなんだ。みんな戻ってからじゃないと食べちゃいけないの。決まりでさ。でもおいら、待つのは平気だよ。慣れてるから。待つのだけは、けっこう得意なんだ」
「作りますよ」
「え、いいの」
「代金はいただいていません」
「うわ。うわ、そうなんだ。じゃあ――」
その先も、しばらく続いた。
厨房に戻った。
棚を見た。
干した果実が、一つある。
窯場駅で、あの人が袋から出してくれたものだ。
しわが深く寄って、色が濃くなっている。
――このまま食べてもいいし、煮てもいい。
あのとき、そう思った。まだ決めていなかった。
鉄蕪もある。糸車駅の根菜も、粉も、少しずつ残っている。
でも今日は、それを使う気にならなかった。
理由は、うまく言えなかった。
革の水筒を取った。
バハルさんがくれたものだ。もう、ずいぶん使っている。
中の水を鍋にあけて、火にかけた。
沸くのを待つあいだ、外の声が聞こえていた。
途切れなかった。
一度も。
器に、干した果実を入れた。
塩は入れなかった。
鉄蕪も、根菜も、何も足さなかった。
湯を注いで、皿でふたをした。
あとは、待つ。
ホームへ運んだ。
「これ?」
「はい」
「なんか、入ってる」
「果実です。干したものを、戻しています」
ふたを取った。
湯気が上がって、狭いホームに広がった。
甘い匂いだった。煮た甘さではなく、乾いていたものが湿った匂い。
「わ」
その子が、それだけ言った。
その日、初めて短かった。
「まだ食べられません。しばらく置いてください」
「どのくらい」
「戻るまでです」
その子は、器をのぞき込んだ。
しわの寄った果実が、湯の底に沈んでいる。
しばらく見てから、またしゃべりはじめた。
「一座にね、火を吹く人がいるんだ。口に油を含んでさ、こう、ぶわーって。すごいんだよ。おいらもやってみたいって言ったら、死ぬぞって言われた。あと綱渡りの人と、あと歌う人と、あと、あと――」
言葉の切れ目に、鈴が鳴った。
首のところで、手が動いていた。
自分では気づいていないようだった。
「あ」
その子が、器を見た。
果実が、少しふくらんでいた。
しわの一本が、浅くなっている。
「動いた」
「はい」
「動いてる、これ」
その子は、器に顔を近づけた。
そのあいだだけ、声がなかった。
「どこから来たんですか」
わたしは、聞いた。
「あ、それより、この果実ってさ、なんて名前なの。おいら知らない。一座で食べたことないもん。甘いやつ? 酸っぱいやつ? どっち?」
答えは、返ってこなかった。
それきり、果実の話が続いた。
果実は、ゆっくり戻っていった。
しわが、一本ずつ消えていく。
濃かった色が、少しずつ明るくなる。
もういいだろう、というところで、スプーンを渡した。
「どうぞ」
「いただきます!」
その子は、すくって、口に入れた。
かんだ。
目を、開いた。
「あまい」
それから、口を動かした。
でも、中がいっぱいで、音にならなかった。
そのかわりに、スプーンで器の縁を鳴らした。
こつ、こつ、こつ。
三回鳴らして、飲み込んで、それから続きをしゃべりはじめた。
わたしは、それを見ていた。
この子は、音を空けない。
しゃべれないときは、鳴らす。
鳴らせないときは、鈴を触る。
――そういう子だ。
「ご家族は、どちらに」
もう一度、聞いてみた。
「あのさ、この駅、声が返るの知ってる? 面白いんだよ。夜になるともっと返るんだ。おいら夜も起きてるからさ、いろいろ試したの。ひとりで。あ、ひとりっていうか、荷があるから、ひとりじゃないんだけど」
その子は、そこで少し早口になった。
「一座はさ、みんなできる人ばっかりなんだ。火吹きも、綱も、歌も。おいらはさ、おいら、なんにもできないから、荷を見てるくらいしか――あ、でも荷って大事だよ! 荷がないと舞台できないもん。だからさ、これはこれで、けっこう大事な仕事で、うん、それでさ、この前なんかね」
言葉は、止まらなかった。
いま、何か、通り過ぎた気がした。
でも、その子はもう次の話をしていた。
チャイが動いたのは、その次の息継ぎのときだった。
盆を抱えたまま、その子の前で止まった。
「……先ほど」
その子が、口を閉じた。
「なんにもできない、と」
チャイは、そう言った。
続きは、なかった。
その子は、動かなかった。
スプーンを持ったまま、チャイを見ていた。
耳が、少し下がっていた。
誰も、何も言わなかった。
そして、そこへ。
さっきまでの声が、返ってきた。
――これはこれで、けっこう大事な仕事で。
岩の上のほうから、ひと呼吸遅れて、降りてきた。
自分の声だった。
その子は、上を見た。
声は、もう一度、小さく返った。
それから、消えた。
わずかに開いた口から、次の言葉は出てこなかった。
狭いホームが、静かになった。
鈴も、鳴らなかった。
スプーンも、鳴らなかった。
わたしは、足を動かさなかった。
この駅では、それも音になる。
言えることは、あった。
そんなことないよ、と言えばよかった。たぶん、嘘でもなかった。
でも、この子はいま、初めて自分の声を聞いている。
――邪魔を、しない。
長い沈黙だった。
その子は、器を見た。
それから、スプーンを持ち直した。
「……戻ってる」
小さな声だった。
「はい」
「しわしわだったのに」
「はい」
「元のやつ、知らないのにさ。おいら、元のやつ知らないのに、これが戻ったって分かる」
その子は、もうひと口すくった。
ゆっくり、かんだ。
今度は、鳴らさなかった。
「あの」
「はい」
「おいら、いま、けっこう黙ってた」
「はい」
「怖くなかった」
その子は、少し笑った。
「一回だけね。次はどうか、分かんないけど」
その子は、首の鈴を、そっと両手で包んだ。
遠くで、人の声がした。
岩の向こうから、いくつも重なって近づいてくる。
一座が戻ってきたのだと、その子が言った。
立ち上がって、荷の布を直した。
直しながら、またしゃべった。でも、さっきより短かった。
「これ、あげる」
荷の一つから、布の小袋を出した。
塩だった。粗くて、灰色がかっている。
「一座のやつだけど、いっぱいあるから。おいらが預かってるやつだから、いいんだ」
「……いただきます」
わたしは、受け取った。
発車のベルが鳴った。
その子は、ホームの端まで来て、こちらを見た。
それから、鈴を、一度だけ鳴らした。
さっきまでの、指が勝手に触っていた鳴らし方ではなかった。
握って、振って、鳴らした。
ひと呼吸おいて、その音が、岩の上から返ってきた。
その子は、それを聞いてから、荷のほうへ戻っていった。
列車が、動き出した。
「チャイ」
「はい」
「なんで、あれを拾ったの」
答えは、すぐに来なかった。
「……分かりません」
やがて、チャイは言った。
「意味は、分かっておりません。いまも」
「うん」
「ただ、そこだけ、音が違いました」
銀の人形は、盆を持ち直した。
「たくさん、お話しになりました。ほとんどは、同じ調子でした。けれど、そこだけ、少し、震えておりました」
「それで、覚えてたんだ」
「はい」
窓の外は、まだ岩だった。
細い空の帯が、少しずつ広がりはじめている。
「返してよかったのかな」
わたしは、聞いた。
「分かりません」
「うん」
「ですが、そのままにしておくと、消えてしまうように思いました」
うまい言い方では、なかった。
でも、たぶん、合っていた。
「あの方の声は、返ってまいりました。岩に当たって」
「うん」
「でも、あの一言だけは、あの方が、返らないようにしゃべっておいででした」
それは、そのとおりだったかもしれない。
「チャイ」
「はい」
「今日の言葉、あなたの中に入った?」
少し、間があった。
「はい。残っております」
「前と、同じ?」
もう少し、長い間があった。
「……いいえ」
チャイは言った。
「置いていかれたのでは、ありませんでした」
「うん」
「わたくしが、拾いました」
棚を見た。
もらった塩の袋を、砂漠の塩の隣に置いた。
小さくなっていた塊の横に並べると、ずいぶん大きく見えた。
今日は、使わなかった。
湯だけで、じゅうぶんだったからだ。




