第20話 満ち潮駅のいびつな塩パン
「次は、満ち潮駅。満ち潮駅です」
窓の外が、開けた。
岩がなくなって、代わりに水があった。
どこまでも平たい水面が、灰色に光っている。
線路は、その上を通っていた。
細い土手のようなものが水の中にまっすぐ伸びていて、そこに枕木が並んでいる。
ホームは、木でできていた。
桟橋のように、水の上に張り出している。
板と板のあいだに隙間があって、下の水が見えた。
降りると、板が少し沈んだ。
水が、板の縁のすぐ下まで来ている。
「これは」
「潮が満ちるのだそうです」
チャイが言った。
「満ちきりますと、この駅は、しばらく水の下になるのだとか」
わたしは足元を見た。
板の色が、途中から変わっていた。
下のほうが黒く、上が乾いた灰色。その境目は、いまの水面より、ずいぶん上にあった。
男がひとり、ホームの端に座っていた。
脚を投げ出して、水のほうを向いている。
五十くらいだろうか。日に焼けた首と、太い指をしていた。
手元で、何かを削っていた。
小さな刃物と、薄い木の板。
削っては、それを目の高さに上げて見る。それから、また削る。
足元に、同じような木片が積んであった。
数えられないほどあった。どれも、削りすぎて紙のように薄くなっている。
「食堂の者です。お腹、空いていませんか」
声をかけると、男は手を止めた。
こちらを見て、それから、自分の手元を見た。
「……ああ。いや」
「はい」
「いや、あの、腹が減ってないって意味じゃなくてだな」
男は、慌てたように言い直した。
「減ってる。減ってるんだ。ただ、あっしは、その」
わたしは、待った。
「そういう意味じゃなくて」
男は、また言い直した。
わたしは、まだ何も言っていなかった。
ヨナス、と名乗った。
いや、正確には、そうではない。
「あっしは、その、ヨナスってんだが」と言って、そこで止まった。
名乗ったことを、途中で後悔したような止まり方だった。
「船を作ってた」
しばらくして、ヨナスさんは言った。
「もうやめた」
「そうですか」
「いや、逃げたわけじゃない」
また、言い直しだった。
「腕は落ちてねえ。いまでも作れる。ただ、あっしは」
そこで言葉が止まって、手元の木片に戻った。
わたしは、その木片を見た。
文字が彫ってあった。
途中まで彫って、削って消して、また彫った跡がある。
何度も繰り返したせいで、板が薄くなり、光が透けるほどになっていた。
足元の山も、全部そうだった。
「手紙ですか」
「……そんなもんだ」
「どなたに」
「弟子だ」
ヨナスさんは、削る手を止めなかった。
「十年、預かった。……追い出した」
「はい」
「あいつは悪くねえ。あっしが、その日、機嫌が悪かった。それだけだ」
刃が、木を薄く削いだ。
「それだけで、追い出しちまった」
水が、少し上がっていた。
さっきまで見えていた板の隙間が、もう黒く濡れている。
「会いに行かないんですか」
「行く」
「はい」
「言葉が決まったら、行く」
ヨナスさんは、木片を目の高さに上げた。
「間違えたら、終わりだ。一回しかねえんだ。だから、ちゃんとしたやつを持っていく」
「はい」
「いや、そういう意味じゃなくてだな」
また、だった。
「適当なことを言いに行くのは、失礼だろう。あいつに。だから」
うなずくだけにした。
「……いや、あんたがそう思ってるって言いたいんじゃなくてだな」
ヨナスさんは、そこまで言って、口を閉じた。
わたしは、厨房に戻った。
棚を見た。
粉が、少しだけ残っている。満月市場駅で、バハルさんが積んでくれた月光の穀物を挽いたものだ。
塩の袋が二つ。片方は砂漠の塩で、もう塊がずいぶん小さい。もう片方は、岩壁駅であの子がくれたものだ。粗くて、灰色がかっている。
それから、桟橋の杭に絡んでいた海藻を、少し取ってきた。
洗って、細かく刻んだ。
粉に水を入れて、練った。
刻んだ海藻を混ぜ込む。潮の匂いがした。
型を出した。
いびつな丸型。
時計塔駅で、コッペルさんがくれたものだ。
縁がひしゃげている。三代ぶんの型を受け継いだ機械人形が、いちばん最初に焼いた、歪んだケーキの型。
――歪んだものが焼けます。よく焼けます。
あのとき、そう言われた。
わたしは、生地をその型に入れた。
入れながら、少し考えた。
整えることは、できた。
はみ出したところを押し込んで、上をならせば、丸くなる。
やらなかった。
生地は型の縁から少しはみ出して、そのまま火に入った。
膨らむと、はみ出した部分が先に膨らんだ。
片側だけが大きくなって、傾いた。
焦げ目も、片側が濃くなった。
型から出すと、丸ではなかった。
熱いうちに、一座の塩を指でつまんで、上から散らした。
ホームに運んだ。
水は、もう板の隙間から上がってきていた。
歩くと、靴の底が濡れた。
「これは」
「パンです」
「……ずいぶん、いびつだな」
「はい」
わたしは、それだけ言った。
言い訳も、説明もしなかった。
ヨナスさんは、少しのあいだ、それを見ていた。
手が出た。
ちぎった。
断面から、湯気と、海藻の匂いが立った。
口に入れて、かんだ。
「……しょっぱい」
「はい」
「うまい」
それから、もうひとつちぎった。
今度は、大きく。
水が、板の上まで来た。
ホームの向こう側から、じわじわと広がってくる。
もう、乾いているところのほうが少なかった。
「そろそろだ」
ヨナスさんが言った。
「満ちきると、ここは沈む。船で来ねえと出られなくなる」
「はい」
「あんたらも、出たほうがいい」
そう言いながら、ヨナスさんは動かなかった。
手元の木片を、まだ握っていた。
水がまた少し上がったとき、チャイが前に出た。
盆を抱えたまま、ヨナスさんの前で止まった。
「――ながく、お世話になりました」
わたしは、顔を上げた。
「あなたに教わったものは、みな、わたくしの手のなかにございます」
その言い方に、迷いがなかった。
それは、この子の言葉ではなかった。
どこかの誰かが、いつか、別れ際に言った言葉だ。
わたしは、それを知っていた。
ヨナスさんの手が、止まった。
木片を、握ったままだった。
しばらく、口をきかなかった。
それから、小さく笑った。
「……きれいだな」
「はい」
「きれいすぎる」
ヨナスさんは、木片を見た。
「こういうのを探してたんだ。ずっと」
「はい」
「いま、聞いて、分かった」
水の音が、板の下でしていた。
「これじゃ、伝わらねえ」
わたしは、口を開かなかった。
慰める言葉なら、いくつも浮かんだ。
でも、この人はいま、自分の言葉を見つけようとしている。
――待つ。
そのあいだに、水がまた上がった。
靴を越えた。
冷たかった。
足元の木片の山が、音もなく水に浮きはじめていた。
でも、誰も動かなかった。
ヨナスさんが、手の中の木片を裏返した。
彫った面の、裏側。
そこには、何も書いてなかった。
「あっしが言いてえのは」
水が、膝まで来ていた。
声が、少しかすれていた。
「悪かった、だ」
「はい」
「それだけだ」
ヨナスさんは、木片を足元の山に落とした。
軽い音がして、水に浮いた。
「きれいじゃねえな」
「はい」
「格好もつかねえ」
「はい」
「……いや」
そこで、また言い直しかけて、止まった。
止めたのが、分かった。
「いや、はもう、いい」
ヨナスさんは立ち上がった。
膝から下が、もう水に浸かっていた。
振り返って、足元の木片の山を見た。
浮いているものと、沈んだものがあった。
拾わなかった。
「名乗り直させてくれ」
こちらを向いて、そう言った。
「ヨナスだ。船を作ってた。弟子をひとり、追い出した」
「椿すずです」
「……ああ」
握手も、礼もなかった。
発車のベルが鳴った。
ヨナスさんは、水の中を歩いていった。
ホームの端に、細い船がつないであった。
乗り込むとき、一度だけこちらを見た。
黙ったままだった。
わたしも、黙っていた。
櫂が水を打つ音が、二度、三度と遠ざかっていった。
列車が、動き出した。
窓の外で、ホームが沈んでいくのが見えた。
板の色の境目が、水に消えた。
浮いた木片が、いくつか、そのあたりを漂っていた。
「チャイ」
「はい」
「さっきの言葉、どこから持ってきたの」
答えは、すぐに来なかった。
「分かりません」
「うん」
「誰が、いつ、おっしゃったのかも、分かりません。ただ、あの方の前に立ったとき、それが出てまいりました」
銀の人形は、盆を持ち直した。
「あの方に、合うと思いました」
「うん」
「合いませんでした」
窓の外は、まだ水だった。
「怒ってた?」
「いいえ」
「うん」
「笑っておいででした」
チャイは、そこで少し黙った。
「わたくしの言葉は、きれいでした」
それから、こう続けた。
「きれいなだけでした」
わたしは、返す言葉を持たなかった。
言い返さなかった。
言い返すのは、たぶん、違う気がした。
「役に、立ちませんでした」
「うん」
「けれど、あの方は、ご自分の言葉を見つけられました」
「うん」
「わたくしのものが役に立たなかったから、見つかったのだと思います」
――そうかもしれない。
「それは、どう数えればよろしいのでしょう」
チャイが、そう聞いた。
わたしは、少し考えた。
「数えなくていいよ」
「はい」
「役に立ったかどうかで、数えなくていい」
チャイは、少しのあいだ、黙っていた。
「……はい」
棚を見た。
塩の袋が二つ。粉は、もうほとんど残っていない。
いびつな丸型を洗って、いつもの場所に戻した。
縁のひしゃげたところに、指が当たった。
この型で焼いたものは、今日も丸くならなかった。
これからも、たぶん、丸くならない。
それでいい。
窓の外の水が、少しずつ、遠くなっていった。




