第21話 野原駅のいつもの煮込み
「次は、野原駅。野原駅です」
窓の外に、何もなかった。
草だった。
背の低い草が、見えるかぎり続いている。ところどころに木が立っているが、林と呼べるほどではない。
空が、広かった。
それだけだった。
ホームは、土を固めただけのものだった。
縁に石が並べてある。それが、ホームと草地の境目らしかった。
屋根はない。柱もない。
ベンチが、ひとつ。
木の板を二本渡しただけの、簡単なものだった。
「珍しいですね」
チャイが言った。
「何がですか」
「何もないところは、ございましたが」
銀の人形は、あたりを見回した。
「霧も、雪も、潮も、ないというのは」
わたしも、見回した。
言われてみると、そのとおりだった。
風が少し吹いて、草が同じ向きに倒れた。
それだけの駅だった。
ベンチに、女がひとり座っていた。
六十くらいだろうか。日に焼けている。
足元に、大きな背負い籠が下ろしてあった。中に、青菜が山ほど入っている。
女は、首から下げた手ぬぐいで額をぬぐっていた。
それから、手ぬぐいをきちんと畳んで、膝に置いた。
「食堂の者です。お腹、空いていませんか」
声をかけると、女はこちらを見た。
「空いてるよ」
即答だった。
「あたい、朝から歩いてきたからね」
「作りましょうか」
「いいのかい」
「代金はいただいていません」
「へえ」
女は、少し笑った。
「じゃあ、もらおうかね」
それだけだった。
わたしは、そこに立ったままでいた。
次に何か来ると思ったからだ。
「実はね」とか、「あんた、聞いてくれるかい」とか。
来なかった。
女は籠の縄を結び直して、また膝に手を置いた。
「行商ですか」
「そうだよ。あっちの村で採って、そっちの村で売る」
「遠いんですか」
「遠いねえ」
女は、草の向こうを指した。
「でも、道は平らだから。楽なもんさ」
わたしは、その手を見た。
太い指をしていた。爪が短く切ってある。
手の甲に、細かい傷がいくつもあった。古いものばかりで、新しいものはなかった。
「ずっと、それを」
「ずっとだね」
「大変じゃないですか」
「大変かい?」
女は、少し考えるような顔をした。
「重いよ。それは重い」
「はい」
「けど、大変ってのとは、違うかねえ」
それから、また手ぬぐいを取って、首の後ろをぬぐった。
ぬぐって、畳んで、膝に置いた。
さっきと、寸分たがわなかった。
厨房へ戻った。
棚を見た。
干した豆。糸車駅を出るとき、ハンナさんが分けてくれたものだ。まだ少し残っている。
鉄蕪。糸車駅の根菜。それに、一座の塩。
どれも、いつもあるものだった。
わたしは、少し困った。
――今日は、何を作ればいいんだろう。
これまでは、いつも先に理由があった。
飲み込めない人がいたから、削って溶かした。完璧を探す人がいたから、わざと歪ませた。
今日は、それがない。
豆を水に放した。
からから、と乾いた音が鉢の底で鳴って、それから静かになる。
少しだけ戻す。全部は戻さない。
鉄蕪の皮をむいた。
包丁の先が、するすると走る。この蕪は皮が薄いから、力を入れなくていい。
むいた皮が、細く長く垂れて、途中で切れた。
根菜は乱切りにした。
とん、とん、と音が続く。
大きさは揃えなかった。
鍋に水を張って、全部入れた。
火にかける。
湯が動きはじめるまでに、少しかかった。
そのあいだ、まな板を洗った。
包丁の水気を取って、元の場所に戻した。
棚の隅に、灰色の羽根がある。
風待ち駅で、シリルさんが残していったものだ。
奥にしまったはずが、いつのまにか手前に出てきていた。
何にも使っていない。
軽いから、鍋の湯気で少し揺れる。
いつも揺れている。
豆が膨らんできた。
湯が濁って、白っぽくなる。
根菜が透けはじめて、鉄蕪が角から丸くなる。
匂いが変わるのは、そのあとだった。
水の匂いが、だんだん豆の匂いになる。甘くはない。土に近い匂いだった。
塩を、ひとつまみ。
味を見て、もうひとつまみ。
それだけだった。
器によそって、ホームに運んだ。
「おや」
女は器を受け取った。
「あったかいね」
「はい」
「あたい、こういうのが好きだよ」
女はスプーンを入れて、豆をすくった。
息を吹いてから、口に入れた。
「うん」
かんだ。
しばらく、かんでいた。
「豆が、少し硬いのが混じってるね」
「はい」
「これがいいんだ。全部やわらかいと、途中で分からなくなるからね」
女は、次に鉄蕪をすくった。
「こっちはやわらかい。……ああ、大きさが違うね。ここのは煮えすぎるくらいで、こっちのは、まだ角がある」
「はい」
「両方あると、飽きないねえ」
わたしは、驚いていた。
この人は、全部気づいている。
わざとやったことを、説明もされずに、ひとつずつ拾っていく。
「塩は、これだけかい」
「はい」
「そりゃあいい。あたい、濃いのは苦手でね」
女は、汁を飲んだ。
器を両手で持って、ゆっくり傾けた。
喉が動く音が、二度した。
風が吹いて、草が倒れた。
女の手ぬぐいの端が、少しめくれた。
女はそれを直して、また膝に置いた。
わたしは、その手ぬぐいを見ていた。
きれいに洗ってあった。何度も洗ったのだろう、色が薄くなっている。
でも、破れてはいなかった。繕った跡もなかった。
――何か、書いてあるだろうか。
そう思って、目で追った。
何もなかった。ただの布だった。
女は食べ続けた。
途中で一度、籠のほうを見た。
わたしは顔を上げた。
チャイも、盆を持ち直した。
女は青菜の束を一つ押し込み直しただけで、また器に戻った。
器が、空になった。
「ごちそうさま」
女はそう言って、器を膝の横に置いた。
それから、静かになった。
草の音がしていた。
風はまだ吹いていた。
わたしは、立っていた。
チャイも、盆を抱えて立っていた。
いつもより、少しだけ前に出ている。
わたしは、息を詰めて、その口元を見ていた。
――来る。
いつもは、ここで来る。
器が空になったあとの、あの間で。
女は、手ぬぐいを取った。
口のまわりをぬぐった。
それから、畳んで、膝に置いた。
まだ、何も来なかった。
草が、また倒れた。
女は空を見ていた。目を細めている。日が高かった。
息を吐く音がした。長い息だった。
わたしは、そのまま動かずにいた。
もう少し、そのままでいた。
「いい日だねえ」
女が言った。
それだけだった。
わたしは、口を開きかけて、やめた。
何を聞こうとしたのか、自分でも分からなかった。
たぶん、何かを聞き出そうとしていた。
――何を。
この人は、腹が減っていて、食べて、お腹が満ちた。
それだけのことだった。
それ以外のものを、わたしが勝手に探していた。
女が立ち上がった。
籠を背負う。膝を伸ばすとき、少し声が出た。
「よい、しょ」
それから、籠の中に手を入れた。
「これ、持っていきな」
青菜の束だった。
「余ったやつだよ。今日は売れ残った」
「いえ、そんな」
「いいんだよ。あたい、明日また採るから」
女はそれを、わたしの手に載せた。
葉が、まだ張っていた。
「じゃあね」
「はい」
「うまかったよ」
それだけ言って、女は草のほうへ歩いていった。
道はなかった。
でも、草の倒れ方で、そこが通り道だと分かった。
一度も振り返らなかった。
列車が、動き出した。
窓の外を、草が流れていく。
どこまでも同じ景色だった。
「チャイ」
「はい」
「今日、なんにもなかったね」
「はい」
銀の人形が、盆を抱え直した。
「わたし、待ってたんだ」
「はい」
「あの人が、何か言うのを」
「わたくしもです」
わたしは、少し笑った。
「二人で待ってたんだ」
「はい」
「失礼な話だね」
「……はい」
車輪の音が、同じ間隔で続いていた。
「けれど、あの方は、待たれていることに、気づいておいででしたでしょうか」
「どうだろう」
「気づいて、いらっしゃらなかったと思います」
それは、たぶん、そのとおりだった。
棚に、青菜を置いた。
まだ張っている。今日か、明日には使ったほうがいい。
何にするかは、決めなくてもいい気がした。
鍋を洗った。
伏せて、水を切る。
いつもの音がした。
チャイが、そばに来ていた。
「……今日も、いい匂いがしますね」
わたしは、手を止めた。
いま言うことでは、なかった。
誰かのためになる言葉でも、なかった。
ただ、そう思ったから言った、という言い方だった。
――今日も。
この子が、そう言うのを、初めて聞いた。
「うん」
わたしは答えた。
「するね」
それだけだった。
チャイは、それ以上何も言わなかった。
盆を抱えて、いつもの場所に浮いていた。
棚の隅で、灰色の羽根が揺れていた。
湯気は、もう出ていない。
窓から入る風で、揺れていた。
わたしは、鍋の水気を取った。
今日は、誰の痛みも預からなかった。
誰も泣かなかったし、誰も、変わらなかった。
それでも、器は空になった。
そういう日のほうが、たぶん、ずっと多い。
窓の外は、まだ、どこまでも草だった。




