第8話 満月市場駅のむすび
その駅に着いたとき、外は夜だった。
「次は――」
チャイが言いかけて、また止まる。
「……申し訳ございません」
「いいよ。もう慣れた」
わたしは扉を開けた。
開けた瞬間、光が入ってきた。夜なのに、明るい。
月が出ていた。
ひとつではない。空に三つ。大きさの違う月が、それぞれの高さで浮かんでいる。いちばん大きなものが、ちょうど真上にあった。
その光が、地面まで届いている。
ホームの下は、畑だった。
いや、市だった。畑と市が同じ場所にある。
刈られる前の穂が、地面から一面に伸びている。その穂が、光っていた。月の光を反射しているのではない。粒の内側から、白くにじむように光っている。
その畑のあいだに、板を渡しただけの台がいくつも出ていた。人が行き来し、荷を積み下ろしている。
「月が真上にあるあいだだけ、この穀物は実るそうです」チャイが盆を傾けた。「刈るのも、売るのも、この時間だけ。月が傾きはじめると、穂は閉じてしまうとのことです」
「閉じる?」
「はい。実が硬くなって、食べられなくなると」
わたしは、真上の月を見上げた。
それは、はっきり見えた。いま、どのくらいの高さにあるのか。あとどれくらいで傾きはじめるのか。目で分かる。
――砂時計と、同じだ。
いや、少し違う。あれは落ちきったら発車だった。これは、落ちきったら食べ物のほうが消える。
市を歩いた。
台の上に、穂を束ねたもの、脱穀した粒、粉に挽いたものが並んでいる。売り買いの声が飛び交っていた。
なのに、妙だった。
人の流れが、途中で切れている。
市の真ん中あたりに、誰も踏まない帯があった。荷車の轍もそこで途切れ、また向こう側から始まる。
地面には何も引かれていない。線も、柵も、標もない。それでも、みんなそこを避けて歩いていた。
向こう側には、こちらとは違う背格好の人たちがいる。
こちら側は背が低く、毛の色が濃い。向こう側は背が高く、耳が長い。
同じ穂を刈り、同じ台に並べ、同じ月の下にいる。それでいて、どちらの側の者も、その帯をまたがなかった。
……その空白を、どう読めばいいのかは分からなかった。
ただ、誰かが引いた線ではなく、みんなが少しずつ避け続けてできた線なのだと思った。
その帯のいちばん端、両側から等しく離れたところに、獣人がひとり座っていた。
足を止めた。
ラクダに似た顔立ち。ほこりをかぶった外套。積み上げた荷の前にあぐらをかいている。
「バハルさん」
顔が上がった。
「……食堂の」
喉の奥で、ごろ、と音がした。今度のそれは、明らかに笑った音だった。
「生きていたか」
「生きてます。バハルさんこそ」
「俺は死なん。砂に慣れすぎた」
彼は荷紐に手をかけた。
わたしは、それを見た。
二重だった。前に見たときのままだ。何重にもは、なっていない。
解くのに、時間はかからなかった。
「なぜ、ここに?」
「商売だ」
バハルは、荷を軽く叩いた。
「この穀物は、ここでしか実らん。だが持って出れば、砂漠でも山でも高く売れる。運ぶ者がいる」
「あの、真ん中の……」
わたしは、誰も踏まない帯を見た。
「ああ」
バハルの声が、少し低くなった。
「あれのせいで、俺のような余所者が要る。あちらとこちらは、直接取引をせん。俺が片方から買って、片方に売る。両方から手数料を取れる。いい商売だ」
「儲かるんですね」
「儲かる」
彼は、少し黙った。
「……三十年、やってきた」
外套の砂を払う。
「悪い商売とは思わん。誰かが運ばねば、どちらも干上がる。だが」
「だが?」
「近ごろ、面白くない」
バハルは、腰の水筒に手をやった。
飲まなかった。手を置いただけだった。
「あんたに教わったからな。商談の前に、同じ皿を食う。あれをやろうとしたら、こっちの連中もあっちの連中も、席を立った」
「……」
「一緒に食えんそうだ」
バハルが呼んできたのは、二人だった。
こちら側の代表は、年配の女だった。背が低く、手の甲まで濃い毛に覆われている。名乗らなかった。
向こう側の代表は、若い男だった。耳が長く、腰に細い刃物を差している。こちらも名乗らなかった。
二人は、誰も踏まない帯を挟んで立った。
どちらも、その線をまたがない。
わたしは、帯の真上に卓を出した。
二人が、同時にわたしを見た。それから、同時に一歩下がった。
「一皿、作らせてください」
わたしは言った。
「その前に、少しだけ話を聞かせてもらえますか」
「話すことはない」
女が言った。しわがれた声だった。
「あちらは、うちの水路を壊した」
「壊していない」
若い男が、すぐに返した。「先に堰を作ったのはそちらだ。水を止められたから、こちらは掘り直した」
「止めたのではない。うちの畑が先に枯れた」
「こちらの畑も枯れた」
二人の言葉が、途中から重なりはじめた。
どちらも、事実を並べているだけだった。どちらの言っていることも、たぶん本当だった。
「いつのことですか」
わたしが聞くと、二人が止まった。
「……三代前だ」
女が言った。
「四代前です」
男が言った。
二人が、初めて顔を見合わせた。
すぐに、逸らした。
「どちらでもいい」
女が言った。
「あのとき、うちの側で二十七人死んだ。飢えて死んだ」
「こちらは三十一人だ」
「知っている」
女が言った。
わたしは、息を止めた。
「知っている」
彼女は、もう一度言った。
「あちらにも死人が出たことは、聞いている。……だから、腹が立つのだ」
「なぜです」
「向こうも同じ数だけ死んだと言われたら、わしは、うちの二十七人をどこに置けばいい」
誰も、何も言わなかった。
若い男が、腰の刃物の柄に手をやった。
抜くためではなかった。何かを掴んでいないと立っていられない、という手つきだった。
「俺は」
彼は言った。
「俺自身は、あの婆さんに何もされてない。会ったのも三度目だ」
「わしもだ」
「憎む理由が、正直、俺にはない」
彼は、そこで喉を鳴らした。
「でも、うちの村には、三十一人ぶんの墓がある。俺が『もういいです』と言ったら――あの墓は、何になる」
女が、目を伏せた。
二人とも、許したくないのではなかった。
許したら、死んだ人たちが行き場を失う。たぶん、それが怖いのだ。
――バハルさんと、同じだ。
あのとき、彼は「事情を聞けば許すしかない。許してしまえば、俺が受けた分は、どこにも行き場がなくなる」と言った。
同じことを、この二人は、自分ひとりぶんではなく、五十八人ぶん背負っている。
ひとりで抱えるより、ずっと下ろしにくい。
わたしは、卓を片づけた。
二人が、怪訝な顔をした。
「同じ卓では、食べていただきません」
わたしは言った。
「そのかわり、ひとつだけ、お願いがあります」
月を見上げた。まだ、真上にある。
でも、真上のままではない。
「あの月が傾くまでに、作ります。持ち帰って、それぞれの場所で食べてください」
「持ち帰る?」
「はい。ここでは食べません」
女が、少し眉を動かした。
「……それだけか」
「もうひとつ」
わたしは、二人を見た。
「包みは、二つ作ります。わたしが渡すのではなく――お互いに、相手のぶんを持って帰ってきてください」
二人の顔が、同時に固まった。
「意味が分からん」
「あちらのぶんの穂は、こちら側の畑から刈ってください。こちら側のぶんは、あちらから」
「なぜ」
「そうしないと、作れないので」
嘘だった。
どちらの畑の穂でも、同じものができる。
でも、わたしは言い切った。
「片方の畑のものだけだと、味が寄ります。両方が要ります」
女が、長いあいだわたしを見ていた。
それから、若い男のほうを――見ずに、その足元あたりを見た。
「……何束だ」
「え」
「何束、刈ればいい」
「三束です」
女は、帯をまたがなかった。
迂回して、ずいぶん遠回りをして、向こう側の畑へ歩いていった。
若い男が、しばらくそれを見ていた。
それから、逆方向に歩き出した。同じだけ、遠回りをして。
畑のあいだを、二つの背が離れていった。
向きは逆で、曲がり方は同じだった。
その間に、火を熾した。
バハルが、荷から鍋を出してくれた。
「俺のは、砂用だ。深いぞ」
「ちょうどいいです」
棚を見た。塩がない。
岩塩は、分岐駅の鍋で使いきっていた。
「塩、譲ってもらえませんか」
バハルは荷の奥から、布に包んだ塊をひとつ放ってよこした。
「砂漠のだ」
「おいくらですか」
「いらん」
二人が刈ってきた穂を、脱穀した。
殻を割ると、中の粒が出てくる。米に似ているけれど、もっと丸い。そして、光っていた。手のひらに乗せると、そこだけ淡く明るくなる。夜露を吸って、内側から仄かに光る粒だった。
水を張って、炊いた。
湯気が上がりはじめると、匂いが立った。
――甘い。
砂糖の甘さではない。炊きたての穀物の、あの奥のほうにある甘さ。それが、湯気になって、月の光と混ざりながら上がっていく。
「……月を炊いているみたいだ」
バハルが、鍋を覗き込んで言った。
具を用意した。
卵をほぐして、そぼろにする。竜のところの卵だ。硫黄草をほんの少し混ぜると、香りが締まった。
苔は、湯で戻して細かく刻んだ。詩人のところの苔。発酵した旨味が、かむと後から出てくる。
赤い実は、種を抜いて、四つに割った。甘くて、少し酸っぱい。
炊きあがった粒を、ざるにあけた。
湯気が引くまで待つ。熱すぎると、握れない。
手を、水で濡らした。
塩を、指先につける。
それから、握った。
――七年間、わたしは物を渡す仕事をしていた。
でも、ほとんどは包装されたものだった。缶を渡す。袋を渡す。手で直接こねて、形にして渡したことは、なかった。
掌の中で、粒がまとまっていく。
まだ熱い。指に、少しずつ吸いついてくる。
力を入れすぎると硬くなる。抜きすぎると崩れる。ちょうどいい力が、手のほうに残っていた。アイスを削る力加減と、たぶん同じところにある。
具は、三種類とも入れた。
卵のそぼろ、苔、赤い実。ひとつの中に、三つとも。
六つ握って、三つずつ、二つの包みに分けた。
包みは、バハルが荷から出した布だった。
二人が戻ってきた。
わたしは、包みを二つ、卓の上に置いた。
卓は、誰も踏まない帯の上に戻してあった。
「取ってください」
「どちらだ」
「どちらでも同じです。中身は同じなので」
女が手を伸ばした。若い男も、同時に伸ばした。
二人の手が、卓の上でぶつかりそうになって、両方が引いた。
バハルが、動いた。
彼は腰から水筒を外して、卓に置いた。
それから、荷の中から茶杯をふたつ取り出して、並べた。
無言のまま、水筒の栓を抜く。
二つの杯に、少しずつ注ぎ分けた。同じ量になるように、二度に分けて。
「飲め」
バハルが言った。
「飯の前に、口を湿らせろ。それだけだ」
女が、杯を見た。
若い男も、見た。
「これは、あんたの水か」
男が聞いた。
「そうだ」
「余所者の水を、俺たちに」
「俺の水だ。誰のものでもない」
バハルは、荷紐を結び直しながら言った。
「持っていろと言われた。人にやるための一つを、な」
わたしは、その水筒を見ていた。
砂漠を三十年渡った革。あの日、誰にも自分の水を飲ませなかった人が、わたしに持たせたのと同じものだ。
――あなたも、二つ持っていたんですね。
女が、先に飲んだ。
少し遅れて、男も飲んだ。
同じ水筒から出た水だった。
それから、二人はそれぞれ包みを取った。
女は、それを胸の前に抱え込んだ。
両腕でくるむようにして、少し前かがみになった。こぼさないように、という抱え方だった。
若い男は、脇に挟んで、その上から片手を回した。
誰かに取られないように、という抱え方だった。
抱き方は違った。
どちらも、大事なものを守って帰る形に見えた。
「まだ、同じ卓では食えん」
女が言った。
「俺も、それでいい」
男が言った。
「持ち帰る。うちの者と食う」
「こちらもだ」
二人は、それぞれ逆の方向へ歩き出した。
どちらも、誰も踏まない帯をまたがなかった。
ただ、去り際に、女が言った。
「……何が入っている」
「卵と、苔と、赤い実です」
「苔」
「よその駅のものです」
「よそ」
女は、少し考えるような間を置いた。
「では、あちらも、同じものを食うのだな」
「はい。同じものです」
女は、それだけ聞いて、歩いていった。
月が、傾きはじめた。
畑の穂が、いっせいに閉じていく。音はしなかった。ただ、あれほど明るかった地面から、少しずつ光が引いていった。
「間に合ったな」
バハルが言った。
「はい」
「あの二人は、和解せんぞ」
「しないと思います」
「俺の商売も、当分なくならん」
「はい」
彼は、笑った。今度は、はっきり分かる笑い方だった。
「だが、あの婆さんが最後に聞いたことは、初めてだ」
「何がですか」
「あちらが何を食うのか、聞いた。三十年見てきて、初めてだ」
わたしは、閉じていく畑を見た。
「同じものを食べてる、って知ってるだけでも」
「変わるか?」
「……分からないです」
わたしは正直に言った。
「でも、知らないよりは」
バハルは、荷を担いだ。
「あんたの飯は、相変わらず妙だな」
「妙ですか」
「解決せん。だが、少し軽くなる」
列車に戻る前に、わたしは聞いた。
「バハルさん。ハキムさんとは」
彼の手が、荷の上で止まった。
「……まだだ」
「そうですか」
「探してはいる」
彼は、外套の砂を払った。
「どこにいるかは分からん。だが、砂漠を出たらしい。人づてに、そう聞いた」
「どこへ」
「北のほうだと。鉱山だか何だか、そういう土地だと聞いた」
わたしは、動きを止めた。
「……鉱山」
「知っているのか」
「たぶん、行ったことがあります」
バハルが、こちらを見た。
「駅があります。ずいぶん古い、鉱山が枯れた駅です。駅長さんがひとりで開けてます」
わたしは言った。
「ゴルダさんっていいます。地精族の、おばあさんです」
バハルは、しばらく黙っていた。
「……客は、来るのか」
「わたしが降りた日は、わたしだけでした。でも」
わたしは、少し笑った。
「いまは、もしかしたら」
彼は、荷紐を握った。
二重に結ばれたそれを、一度ほどいて、また結び直した。今度は、一重だった。
「聞いておく」
それだけ言って、彼は背を向けた。
その背中が、暗くなっていく畑のほうへ消えるまで、わたしは見ていた。
結び直したばかりの荷紐の端が、歩くたびに揺れていた。
車内に戻ると、棚に穂の束が置いてあった。
バハルが積んでくれたらしい。月が沈んだので、もう光ってはいなかった。ただの、丸い粒だ。
「お客様」
チャイが、盆を抱えて隣に来た。
「ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「なに?」
「あの二人は、同じものを食べます。けれど、離れた場所で、別々に食べます」
銀の人形は、窓の外を見ていた。
「あれは、分かち合ったことになるのでしょうか」
わたしは、少し考えた。
「ならないかもしれない」
「では――」
「でも、同じ味になる」
チャイが、こちらを見た。
「あっちの村でも、こっちの村でも、今夜、同じ味がするんだよ。誰も知らないまま」
「……はい」
「たぶん、それだけだよ。それだけだけど」
わたしは、握った手を見た。
まだ、少し塩が残っている。
「わたしの手で、両方とも握ったから」
チャイは、何も言わなかった。
しばらくして、盆を持ち直す音がした。前より、少しだけはっきり聞こえた。
列車が動き出す。
窓の外で、市が畳まれていく。誰も踏まない帯が、暗くなって見えなくなった。
線がなくなったわけではない。ただ、夜が来て、見えなくなっただけだ。
「次は――」
チャイが言いかけて、また止まった。
「……やはり、出てまいりません」
「うん」
わたしは、棚の穂に手を置いた。
「北に行けるかな」
「北、でございますか」
「うん。鉱山のほう」
チャイは、少し首を傾けた。
それから、静かに言った。
「――決めながら、進む区間ですので」
窓の外の線路が、ゆるやかに曲がりはじめていた。
どちらへ曲がったのかは、まだ分からない。




