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『環状霊脈線、つばめ食堂はじめます』~元・車内販売員の異世界各駅停車~  作者: 夕凪 鏡介


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第7話 無音の図書駅の苔がゆ


 その駅は、音が先に消えた。


 車輪のきしむ音が、途中でぷつりと途切れた。ブレーキの金属音も、風の音も。

 速度は落ちているのに、耳が何も拾わない。自分の呼吸だけが、頭の内側で大きく響いた。


「チャイ」

 声が、口から出た。出たのに、部屋の中に広がらなかった。

 言った端から吸われていく。


「――」

 チャイが口を動かした。何か言ったのだと思う。

 届かなかった。


 銀の人形は、少し困った顔をして、盆の上に指で字を書く仕草をした。

 なるほど、と思った。ここではそうするしかないらしい。


 わたしは、扉の前に立った。

 今日も、駅の名前は聞いていない。



 開けると、白い光が入ってきた。


 建物だった。

 ホームがそのまま屋内に続いている。天井が高い。見上げると、壁がずっと上まで棚になっていて、そこに本が詰まっていた。

 背表紙の色が、層になって積み上がっている。何万冊あるのか、見当もつかなかった。


 足を下ろした。

 靴音が、しなかった。


 床を踏む感触はあるのに、音だけがない。試しに、かかとで軽く叩いてみた。何も起きなかった。

 空気が、音を持って行ってしまう。


 棚のあいだを歩いた。

 紙と、古い糊と、ほこりの匂いがする。それに混じって、青くて湿った匂いがあった。壁の下のほうに、緑のものが張りついている。


 苔だった。

 石の壁の目地に、びっしりと生えている。触ると、思ったより厚みがあった。指で押すと、ゆっくり戻ってくる。


 その苔の上に、実が落ちていた。

 小さくて、深い赤。天井近くの高いところから伸びた蔓が、棚の隙間をはって垂れ下がり、そこに実をつけている。

 拾い上げると、皮が張りつめていた。落ちたばかりらしい。


 どこかで、ぽとり、と何かが落ちた。

 ――音がした?

 いや、しなかった。落ちたのが見えただけだ。この建物の中で、わたしはさっきから、目でしか物を知らない。



 棚の突き当たりに、人がいた。


 床に座り込んでいる。壁にもたれて、膝の上に板を乗せていた。

 旅装の男だった。歳は分からない。背中に大きな革の袋を背負っていて、その口から、細長いものが突き出している。


 弦楽器だった。


 足を止めた。


 男は、板の上で何かを書いていた。

 炭のかけらで、ざっと数行。書いて、すぐに手のひらでこすって消す。また書く。また消す。板の表面が黒くこすれて、もう何を書いても読めないほど汚れていた。


 書いては消す。書いては消す。

 その繰り返しの合間に、彼は左手を宙に浮かせた。


 指が、動いていた。

 人差し指、中指、薬指。順に押さえて、離して、また押さえる。何も持っていないのに、正確な動きだった。楽器を弾く手だ。

 本人は、たぶん気づいていない。書くのをやめている間、その手だけが勝手に動いている。


 それから――喉に手をやりかけた。

 やりかけて、途中で止めた。ためらって、手を下ろす。何度か、同じことをした。

 そこだけが、触れてはいけない場所になっているようだった。


 ……その仕草を、どう読めばいいのかは分からなかった。

 ただ、指はまだ弾く形を覚えているのに、と思った。



 わたしは、少し離れたところに膝をついた。

 声をかけようとして――やめた。ここでは声が届かない。


 厨房から持ってきた伝票の裏に、炭で書いた。


 『こんにちは。あの列車の食堂で、料理を出しています』


 紙を差し出すと、男が顔を上げた。

 しばらくそれを見てから、自分の板を膝から下ろした。両手で受け取って、もう一度読む。


 彼は、板の隅の、まだ黒くなっていないところに書いた。


 『こんにちは』


 それから、少し考えて、付け足した。


 『声が出ません』


 わたしはうなずいて、返した。


 『わかります。ここ、わたしの声も出ないので』


 男の顔が、わずかに動いた。

 笑ったのだと思う。ずいぶん久しぶりに、そうしたような笑い方だった。



 やりとりは、時間がかかった。


 一言書くのに、彼は何度も書き直した。書きかけて消し、また書く。ようやく差し出された紙には、一行しか残っていないことが多かった。

 わたしは急かさなかった。待っている間、苔を見ていた。


 少しずつ、分かってきた。


 彼は吟遊詩人で、長いあいだ各地を回っていたこと。

 三つ前の冬に、喉を壊したこと。声は戻らないこと。

 この駅に来たのは、自分の詩を書き残しておくためだったこと。


 『ここは全部残る場所だから』


 そう書いて、彼は天井まで届く棚を見上げた。


 『でも書けない』


 わたしは、その黒く汚れた板を見た。

 書けないのではない。書いては消していた。


 『書けないんですか。それとも、書いたものが違うんですか』


 男の手が、止まった。


 ずいぶん長いあいだ、彼は炭を持ったまま動かなかった。

 それから、板の表面を袖でこすって、大きく場所を空けた。


 『歌にしないと、俺の言葉じゃない』


 そして、その下に。


 『でも、たぶん、それも違う』


 彼は、次の一行を書くのに、いちばん時間をかけた。


 『みんな、俺の声が好きだっただけかもしれない』


 書いてから、彼はそれを消さなかった。

 消せなかったのだと思う。


 『歌ってたころ、みんな泣いてくれた。褒めてくれた。でも、あれは詞じゃなくて、声だった気がする』

 『声がなくなったら、誰も来なくなった』

 『じゃあ俺は、何を残すんだ』


 わたしは、返す言葉を持っていなかった。

 紙に書こうとして、書けなかった。彼が板を消していた気持ちが、少しだけ分かった。


 書けないまま、わたしは立ち上がった。

 言葉で返せないなら、返せるもので返すしかない。


 『一皿、作らせてください』


 それだけを、書いた。



 厨房に戻った。


 棚には、竜からもらった卵と硫黄草。それに、この駅で拾った赤い実と、削ってきた苔。

 チャイが、盆の上に指で字を書いた。読み取るのに、少し慣れてきた。


 ――『その苔は、そのままでは食べられません』

 「発酵させるの?」

 ――『はい。湯に浸けて、しばらく置くそうです。時間はかかりますが、旨味が出ると』

 「どれくらい」

 ――『半日ほど、と』


 また半日か、と思った。


 でも今度は、急かすものが何もなかった。

 鐘も、砂も、分岐器もない。この駅は、ただ静かなだけだった。


 わたしは、いびつな型に湯を張って、苔を沈めた。

 何も起きない。しばらく見ていても、本当に何も起きなかった。


 その間に、赤い実を割った。

 中は、想像よりずっと柔らかかった。指で押すと、果肉がとろりと崩れる。なめると、甘い。ただ甘いだけでなく、その奥に、酒に似た香りがあった。

 ――熟しすぎている、のではない。

 この実は、この静けさの中で、時間をかけてここまで来たのだと思った。


 卵を茹でて、崩した。

 湯の中の苔は、まだ変わらない。


 わたしは、床に座って待った。


 音のない場所で、待つのは、思っていたより長かった。

 時間を計るものがない。湯気の上がり方と、光の角度だけが動いている。

 棚の本が、静かにそこにあった。誰かが書いて、誰かが運んで、誰も読まないまま積み上がっている本たち。


 ――ここに置いても、読まれるとは限らない。

 あの人は、たぶん、それも分かっている。


 湯を覗いた。

 苔の色が、少しだけ変わっていた。深い緑が、褐色に寄っている。指を入れると、湯にとろみがついていた。

 匂いを嗅いだ。青臭さが消えて、かわりに、出汁のような香りが立っている。


 ――他のものの力を借りて、時間をかけて、別のものになる。

 自分では何も出さない。周りのものを取り込んで、変わっていく。


 ……チャイみたいだ、と思った。


 その考えは、思ったより長く、わたしの中に残った。



 できたものは、粥だった。


 発酵した苔を出汁にして、崩した卵を落とし、とろみをつける。塩気は硫黄草をほんの少し。

 最後に、赤い実を潰して、上に落とした。深い赤が、白い粥の上でゆっくり広がっていく。静かな灯りがひとつ点いたように見えた。


 器は、いびつな型ではなく、車内の椀を使った。

 持ち運びやすいように。それと――静かな場所で、金属の音を立てたくなかった。



 男は、まだ同じ場所にいた。

 膝の上の板は、また真っ黒になっていた。


 わたしが椀を置くと、彼は目だけでうなずいた。


 匙を口に運ぶ。

 その瞬間、彼の肩が、ぴくりと動いた。


 音がしたのだ。


 わたしの耳にも届いた。彼が飲み込んだときの、喉の音だった。

 この駅に来てから、初めて聞いた音らしい音だった。


 男が、自分の喉に手をやった。

 今度は、途中で止めなかった。触れた。


 彼は、そのまま動かなくなった。

 喉に手を当てたまま、もう一口すすった。ごくり、と鳴った。

 鳴るのだ。ここでも、体の中の音だけは。


 顔を上げた彼の目が、赤かった。



 彼は、板を空けて、震える字で書いた。


 『音が、出た』


 わたしは、うなずいた。


 『飲むとき、鳴りますね』

 『ここでも、鳴るのか』

 『鳴ってます。ずっと』


 男は、椀を抱えたまま、しばらく肩を震わせていた。

 泣いているのだと分かったけれど、その音は、やっぱりしなかった。



 わたしは、隣に座った。


 それから、思い切って書いた。


 『この子、チャイっていいます』


 銀の人形が、盆を抱えて、わたしの肩のところに浮いてきた。

 男が、目を見開いた。今まで気づいていなかったらしい。


 『この車両に宿ってる精霊です』

 『しゃべれます。でも、ここでは声が届かないので』


 チャイが、ぺこりと頭を下げた。

 男が、板に書いた。


 『何を食べて生きてるんだ』


 わたしは、少し迷った。

 それから、書いた。


 『お客さんの、ありがとうを』


 チャイが、こちらを見た。

 銀の顔には表情がない。それでも、何か言いたそうにしていた気がした。


 『この列車、お客さんが満足すると走るんです。その満足が、たぶん、この子です』

 『たくさんの人の分が、集まって』


 男は、それを長く読んでいた。

 それから、ゆっくり書いた。


 『じゃあ、こいつの言葉は』


 わたしは、答えを書けなかった。


 ――この子が話す言葉は、この子のものなのだろうか。

 「次は――」も、「お客様」も、「長らくお待たせいたしました」も。全部、車内アナウンスの言葉だ。誰かがどこかで言った言葉を、そのまま使っている。


 自分の言葉を、一つでも持っているのだろうか。


 その考えは、書かずに飲み込んだ。



 チャイが、盆の上で指を動かした。

 わたしは読み取って、そのまま口に出しかけて――届かないと気づき、紙に書き写した。


 『――ゆきて、かえらぬものばかり』


 男の手から、匙が落ちた。


 椀の縁に当たったはずなのに、音はしなかった。


 彼は、両手で板を掴んだ。

 書く手が震えて、字がまともに読めない。

 それでも、書いた。


 『それ、俺の詩だ』


 わたしは、チャイを見た。

 銀の人形は、少し困ったように首を傾けている。


 『どこで聞いたんだ』

 『いつ』

 『誰が言った』


 男の質問に、チャイは首を振った。

 覚えていないのだ。わたしにはそれが分かった。この子は、いつ誰がそう言ったのかを覚えていない。ただ、「ありがとう」と一緒に置いていかれた言葉の断片を、体のどこかに持っているだけだ。


 わたしは、書いた。


 『覚えてないそうです』

 『でも、持ってました』


 男が、その紙を見た。

 それから、天井まで届く本の棚を見上げた。何万冊もの、誰にも読まれないかもしれない本を。


 彼は、震える字で書いた。


 『届いてたのか』


 わたしは、うなずいた。


 『誰かが、この列車で、あなたの詩を口ずさんだんだと思います』

 『たぶん、ごはんを食べながら』

 『それを聞いた人が、また誰かに』


 男は、口を開けた。

 声は出なかった。それでも、何かを言おうとした形だった。


 『歌じゃなくても、残るんですね』


 わたしがそう書くと、彼はしばらく動かなかった。

 それから、震える手で、板の黒い部分を袖でこすった。大きく、大きく空けた。


 そして書いた。今度は、消さなかった。


 『残っていた』



 彼は、背中の革袋から楽器を取り出した。


 弦を張り直して、構える。

 左手が、さっきまで宙で動いていたとおりに弦を押さえた。右手が、弾いた。


 音は、しなかった。

 弦が震えているのは見えた。指が動いているのも見えた。それでも、この建物の空気は、その全部を吸い取っていく。


 彼は、それでも弾き続けた。

 目を閉じて、口が動いていた。弦を押さえる指に力がこもり、首筋に汗がにじんでいる。歌っている。声は出ていない。音も鳴っていない。


 わたしは、ただ見ていた。


 チャイが、わたしの肩の横で、盆を胸に抱えていた。

 じっと、動かずに。



 弾き終わって、彼は楽器を下ろした。


 わたしは、書いた。


 『いま、聞きました』


 男が、こちらを見た。


 『音は聞こえませんでした。でも、聞きました』

 『わたし、これから駅を回ります。どこかで、誰かに話すと思います』

 『たぶん、うまく伝えられません』


 彼は、口の端を上げた。


 板に、短く書いた。


 『それでいい』

 『そうやって、ここまで来たんだろ』



 湯呑みを片づけていると、彼が紙を差し出してきた。


 『これ、持っていってくれ』


 板ではなく、革袋から出した紙束だった。

 書き溜めた詩らしい。ずいぶん古いものもあれば、まだ新しいものもある。


 『棚に置いても読まれない』

 『あんたに渡したほうが、動く』


 わたしは、両手で受け取った。

 思ったより、重かった。


 『それと、これ』


 彼は、苔と赤い実を袋いっぱいに詰めて、押しつけてきた。


 『飯の礼だ。腐らない。時間さえかければ、勝手に旨くなる』



 列車は、静かに動き出した。


 窓の外で、白い建物が遠ざかっていく。棚の前に、人影がひとつ残っていた。楽器を膝に乗せて、板に何かを書いている。

 消していなかった。


 車体が建物を抜けた瞬間、音が戻ってきた。

 車輪の音。風の音。厨房で揺れる鍋の音。

 全部が一度に押し寄せてきて、わたしは思わず耳を押さえた。


「――お客様」

 チャイの声がした。

 久しぶりに聞いた、それは、たしかに声だった。


「はい」

「先ほどのことですが」

 銀の人形は、盆を抱えたまま、少し首を傾けた。

「わたくしは、なぜあの詩を持っていたのでしょう」

「分からない?」

「はい。覚えがございません」

 チャイは、窓の外を見た。

「わたくしの中には、そういうものが、たくさんございます。誰の言葉かも、いつのものかも分かりません」


 わたしは、受け取った紙束を棚に置いた。


「それって」

 言いながら、言葉を選んだ。

「いろんな人が、あなたに預けていったってことだよね」

「……預けた、でしょうか」

「置いていった、じゃなくて?」

「はい」


 チャイは、しばらく黙っていた。


「わたくしは、置いていかれるほうだと思っておりました」

 銀の人形は、静かに言った。

「お客様は、みなさま降りていかれます。『ありがとう』は、たいてい別れ際に言われるものです」


 ――そうか。


 この子が浴びてきた言葉は、ぜんぶ、去っていく人の言葉だったのだ。

 満たされるたびに、誰かがいなくなる。この子は、そういうふうにできている。


「チャイ」

「はい」

「わたし、まだ降りないよ」


 銀の人形が、こちらを見た。


「まだ、乗ってる」

「……はい」

「だから、置いていってない」


 チャイは、何も言わなかった。


 しばらくして、盆を持ち直す小さな音がした。

 この子から音がしたのを、わたしは初めて聞いた気がした。



 棚を見た。


 卵の籠。硫黄草の束。苔の袋と、赤い実。

 その隣に、詩の紙束が積んである。食べ物ではないものが、また一つ増えた。


 いちばん上の一枚に、目が留まった。

 かすれた字で、一行だけ書いてある。


 ――ゆきて、かえらぬものばかり。


 その続きが、あった。


 ――されど、ゆきしものの声で、わたしはできている。


 わたしは、その紙を、いちばん取りやすい場所に立てかけた。


 窓の外で、線路が静かに伸びている。

 どこへ続くのかは、まだ聞いていない。





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