第6話 湯けむり断崖駅の温泉卵
その日、チャイは何も言わなかった。
「次は――」
言いかけて、止まる。銀の人形は盆を抱えたまま、困ったように首を傾けた。
「申し訳ございません。やはり、出てまいりません」
「いいよ。無理しなくて」
窓の外は、白かった。
霧とは違う。もっと厚くて、重くて、温かい。窓のガラスがすっかり曇って、指でこすっても外が見えなかった。
速度が落ちて、車体が止まった。
どこかは、分からない。
わたしは、扉の前に立った。
これまでは、降りる駅の名前を先に聞いていた。何があるか、何が採れるか、どんな人がいるか。少なくとも呼び名だけは知ってから降りていた。
――今日は、何も知らない。
取っ手に手をかける。
ひどく重い扉のように思えたけれど、それはただ、わたしが少し身構えていただけだった。
開けた。
熱が、下から来た。
足元の板の隙間から、白いものが吹き上がっている。湯気だ。ホームの床板の下で、湯が湧いているらしい。
その向こうは――何もなかった。
断崖だった。
ホームの先が、まっすぐに切れ落ちている。線路はそこで折り返すように弧を描き、崖の縁をなぞって続いていた。下は、見えない。湯けむりで真っ白に埋まっている。
空気が、鼻の奥に刺さった。
卵を茹ですぎたときの、あの匂い。それがもっと濃くて、山の匂いと混ざっている。硫黄だ。
そして、音がしていた。
耳ではなく、足の裏から来る音だった。低い、長い、規則のない振動。大地のどこか深いところで、何かがゆっくり息をしている。
湯けむりが、風で一瞬だけ薄れた。
その向こうに、山があると思った。
違った。
竜だった。
崖の縁に、腹ばいになっている。
全長は、この車両より長い。灰がかった緑のうろこが、湯に濡れて鈍く光っていた。背中に畳まれた翼は、広げれば断崖を渡れそうなほど大きい。
わたしは、扉の陰で足を止めた。
風が、崖下から吹き上げてきた。
強い風だった。翼を持つものなら、迷わず乗るだろう風だ。
竜は、逆のことをした。
巨体を地面に押しつけたのだ。首を低くして、爪を岩に食い込ませる。ぎり、と石の削れる音がした。風がやむまで、そのまま動かなかった。
――飛べないから動かないのではなく、風に乗ってしまわないように耐えている。そう見えた。
風が止むと、竜はゆっくり首を伸ばした。
畳んだ翼のふちを、舌でなめた。膜が乾いて、細かくひび割れている。なめて湿らせようとして――途中でやめた。首を戻して、また腹ばいになる。
それから、後ろを振り返った。
自分の足跡を見ていた。
湿った岩に、深く沈んだ爪の跡が点々と続いている。竜はそれをしばらく眺めて、また前に向き直った。しばらくして、また振り返った。
……その仕草を、どう読めばいいのかは分からなかった。
ただ、空にいたころには一度も見なかったものを、いま何度も確かめているのだと思った。
「あの」
わたしは、湯けむりの中を歩いていった。
竜の首が、こちらに向いた。
顔は――近すぎて、輪郭がうまく掴めなかった。ただ、鼻から吐き出される息が、湯気よりも熱かった。
「……人か」
声が、腹に響いた。低い。低すぎて、音というより震えに近い。
「はい。あの列車の食堂で、料理を出しています」
「食堂」
喉の奥で、ごろ、と何かが鳴った。
「ここには何もない。卵と、草だけだ」
「じゅうぶんです」
竜は、しばらく黙っていた。
「……見物か」
「いえ」
「みんな、そう言って来る。近くの谷の連中だ。飛べなくなった竜を見に来て、気の毒そうな顔をして、帰っていく」
うろこが擦れて、乾いた音がした。
「置いていくのだ、食い物を。わしの前に。……犬にやるように」
わたしは、何も言わなかった。
「昔は、あの雲の上にいた」
竜は、崖の向こうを見た。白いだけの空を。
「谷のどこに水があるか、どの峰が崩れるか、上から全部見えた。連中はわしに聞きに来た。頭を下げて、聞きに来た」
喉の音が、少し乱れた。
「いまは、頭を下げられん。同情されるのだ。……あれは、下げているのではない」
湯けむりが、二人のあいだをゆっくり流れていった。
「わしが空で見たものを、話せる相手が、もうおらん」
竜が言った。
「同じ高さを飛んだ者は、みな先に逝った。地上の者に話しても、分からん。雲の切れ目の色も、山の風の癖も、伝わらん」
「……」
「消えるのだ。わしが消えると、それも消える」
それは、飛べないという話ではなかった。
持っているものを、誰にも渡せないという話だった。
「一皿、作らせてください」
わたしは言った。
「ここのもので、いいので」
竜は、答えなかった。
拒みもしなかった。
厨房に戻った。
棚は、空だった。
前の駅で、全部使った。鉄蕪も、干物も、乾燥肉も、蜜も、定規野菜も、乳も。空いた籠と壺だけが並んでいる。
残っているのは、二つ。
革の水筒と、縁のひしゃげた丸い型。
どちらも、食べ物ではない。
わたしは、その二つを持って外に出た。
ホームの端の板を上げると、下に湯だまりがあった。透き通っていて、底の石まで見える。指を入れると、思ったより熱い。卵が茹だる温度ではないけれど、長く置けば、ゆっくり火が通る熱さだ。
水筒で汲んだ。バハルの水筒だ。三十年、砂漠を渡った革が、湯を含んで少しふくらんだ。
卵は、崖の岩棚にあった。
鳥のものではない。もっと丸くて、殻が厚い。地熱で温められた砂の中に、いくつも埋まっている。
硫黄草は、湯だまりの縁に生えていた。ちぎると、青くて鋭い匂いがする。生では食べられないだろう。
「お客様」チャイが盆を傾けた。「その卵は、この土地では砂に埋めて食べるそうです。半日ほど置くのだとか」
「半日」
わたしは、湯けむりの向こうを見た。
この列車が、いつ発つのかは分からない。分岐器のおもりのときのように、外の都合で決まってしまう。
「半日は、待てないかもしれない」
「はい」
「なら、こっちで温度を上げる」
わたしは、いびつな丸型を取り出した。
銅の型だった。コッペルが初めて焼いたケーキの型。縁が少しひしゃげていて、置くと片側に傾く。菓子を焼くための道具だ。
――ごめんなさい、コッペルさん。
心の中でそう言って、わたしはその型を、湯だまりの底に沈めた。
型に卵を並べ、汲んだ湯を張り、上から硫黄草をかぶせる。
銅は熱を早く通す。湯だまりの熱が型を伝って、卵をじかに温めはじめた。砂に埋めるより、ずっと早い。
型が傾いているせいで、湯が片側に寄った。
浸かる深さが、卵ごとに違う。深いものは早く、浅いものはゆっくり。
――ああ。ここでも、揃わない。
少し笑った。
あの人の型は、どこまでも規格外だった。
湯だまりの縁に座って、待った。
地面の底で、低い音が続いている。
ときどき強くなって、また弱くなる。呼吸みたいだった。この山が、ずいぶん長いあいだ、そうやって息をしているのだと思った。
湯けむりが、体にまとわりついてくる。
霧のように冷たくない。押し寄せてきて、肩や首の後ろに触れて、そのまま溶ける。汗なのか湯気なのか分からないものが、髪の生え際にたまっていく。
息を吸うと、硫黄の匂いが胸まで入ってきた。
最初は刺さるようだったのに、しばらく座っていると、それが体の内側から温める匂いに変わっていた。
竜は、少し離れたところで腹ばいになったまま、こちらを見ていた。
見ているだけで、何も言わなかった。
卵を、型ごと引き上げた。
殻を割ると、湯気が一気に上がった。
白身は固まりきっていない。傾いた型の底を、とろりと伝って揺れる。黄身は、まだ形を保っていた。半分だけ火が通った、いちばん短いあいだしかない状態だった。
器がない。
棚には、もう何もない。
わたしは、いびつな型をそのまま器にした。
傾いた型に卵を落とすと、白身が低いほうへゆるりと流れる。硫黄草を細かく刻んで散らし、湯だまりの塩気の強い水を、ほんの少しだけ落とした。
「熱いうちに、お願いします」
わたしは、竜の前にそれを置いた。
「固まってしまうと、味が変わります」
竜の鼻先が、近づいてきた。
巨大な生き物にとって、それはあまりに小さな器だっただろう。ひと呑みで終わる量だ。
それでも、彼は舌を出さなかった。
しばらく、匂いを嗅いでいた。
「……硫黄草か」
「はい」
「若いころ、山で腹を壊すとこれをかんだ。苦いものだ」
「刻んで、少しだけにしました」
「なぜ」
「熱いものと一緒だと、匂いだけ残るので」
竜は、それを口に含んだ。
ずいぶん長いあいだ、動かなかった。
喉の奥で鳴っていた低い音が、途中で止まった。それから、また鳴りはじめた。前より、ゆっくりと。
「……ぬるいな」
「はい」
「熱くもなく、冷たくもない」
「固まりきる少し手前が、いちばんおいしいので」
竜は、目を閉じたようだった。
閉じたのかどうかは、遠くて分からない。ただ、首の位置が下がった。
「地の底の湯だ」
やがて、彼は言った。
「この味は、上からでは分からん」
「はい」
「飛んでいたころ、わしはこの山を何百回も越えた。だが、この山の湯を飲んだことは、一度もなかった」
湯けむりが、大きく流れた。
「上からは、この山は白い煙にしか見えん。それだけだ」
竜の爪が、岩を少しだけ緩めた。
「地に下りて、初めて、この山が息をしているのを知った」
喉の奥が、低く鳴った。さっきまでの、乱れた音ではなかった。
わたしは、足の裏の振動に、もう一度耳を澄ませた。
たしかに、上空からでは分からない音だった。
「あの」
わたしは言った。
「さっきの話、聞いてもいいですか」
「どれだ」
「空で見たものを、話せる相手がいないって」
竜は、黙った。
「いま、聞きました」
わたしは、空になった型を引き寄せた。
「雲の切れ目の色も、山の風の癖も。……ぜんぶは分からなかったですけど、聞きました」
「聞いても、お前は飛べん」
「飛べません」
「なら――」
「でも、覚えました」
喉の音が、一度、大きく乱れた。
「わたし、この列車で駅を回っています。この先も回ります」
わたしは言った。
「聞いた話は、たぶん、どこかで誰かに話します。うまく話せないと思いますけど」
「……それは、わしの見たものではない」
「はい。わたしが聞いたものになります」
竜は、長いあいだ動かなかった。
「変わってしまうぞ」
「変わります」
「わしが見たものとは、別のものになる」
「なります。……でも、消えません」
湯けむりの中で、大きな影がゆっくり動いた。
彼は、翼を少しだけ開いた。飛ぶためではなく、伸びをするような、それだけの動きだった。ひび割れた膜が、湯気を吸って、わずかに色を変えた。
発車の音がした。
いつ鳴るか分からない、と思っていた鐘でも砂でもない。ただ、車体がひとつ揺れて、行く準備ができたと知らせただけだった。
「もう行くか」
「はい」
「持っていけ」
竜は、崖の岩棚のほうへ首を振った。
「卵は好きなだけ持て。硫黄草も。どうせ、わし一人では使いきらん」
わたしは頭を下げて、卵を籠に移した。
空だった棚に、久しぶりに、重さのあるものが入った。
「――竜さん」
「なんだ」
「あの列車、乗れますよ」
竜が、首を上げた。
「食堂車です。人しか乗れないわけじゃないので。……たぶん、あなたは大きすぎて中には入れませんけど」
「乗れんではないか」
「線路の脇を、歩いてついてくることはできます」
喉の奥で、また、ごろ、と音がした。
今度のそれは、少し違って聞こえた。笑ったのかもしれない。
「……歩いて、どこへ行く」
「どこでも。この線路、始発も終点もないので」
わたしは、指を差した。
「たとえば、あっちのほうに、鉱山の駅があります。ずっと誰も降りてこなかった駅で、いま、駅長さんがひとりで開けています」
「客は」
「わたしが降りてから、また来るようになったかもしれません。……分からないですけど」
「行っても、わしは飛べん」
「歩いて着いた話を、その人にしてあげてください」
竜は、答えなかった。
ただ、足元の自分の足跡を、もう一度だけ振り返った。
今度は、すぐに前を向く。
踏み出した爪が、新しい土を掴んだ。
車内に戻ると、湯けむりの匂いが服にしみついていた。
棚に卵の籠を置き、硫黄草の束をその隣に立てる。革の水筒を戻して、いびつな型を洗って、いちばん取りやすい場所に置いた。
もう、菓子の型としては使わないかもしれない。
それでも、これはよく働く道具だった。
窓の外で、白い湯けむりが遠ざかっていく。
その端に、大きな影がひとつ、崖のほうを向いて立っていた。まだ動いてはいなかった。
チャイが、盆を抱えて隣に来た。
「次は――」
言いかけて、また止まる。
「……やはり、出てまいりません」
「うん」
わたしは窓の外を見たまま答えた。
「じゃあ、着いてから決めよう」
急かす鐘も、落ちる砂も、もうなかった。
白い煙が薄れて、線路の先が少しだけ見えた。
どこへ続いているのかは、まだ分からない。




