表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『環状霊脈線、つばめ食堂はじめます』~元・車内販売員の異世界各駅停車~  作者: 夕凪 鏡介


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/25

第6話 湯けむり断崖駅の温泉卵


 その日、チャイは何も言わなかった。


「次は――」

 言いかけて、止まる。銀の人形は盆を抱えたまま、困ったように首を傾けた。

「申し訳ございません。やはり、出てまいりません」

「いいよ。無理しなくて」


 窓の外は、白かった。

 霧とは違う。もっと厚くて、重くて、温かい。窓のガラスがすっかり曇って、指でこすっても外が見えなかった。


 速度が落ちて、車体が止まった。

 どこかは、分からない。


 わたしは、扉の前に立った。

 これまでは、降りる駅の名前を先に聞いていた。何があるか、何が採れるか、どんな人がいるか。少なくとも呼び名だけは知ってから降りていた。


 ――今日は、何も知らない。


 取っ手に手をかける。

 ひどく重い扉のように思えたけれど、それはただ、わたしが少し身構えていただけだった。


 開けた。



 熱が、下から来た。


 足元の板の隙間から、白いものが吹き上がっている。湯気だ。ホームの床板の下で、湯が湧いているらしい。

 その向こうは――何もなかった。


 断崖だった。

 ホームの先が、まっすぐに切れ落ちている。線路はそこで折り返すように弧を描き、崖の縁をなぞって続いていた。下は、見えない。湯けむりで真っ白に埋まっている。


 空気が、鼻の奥に刺さった。

 卵を茹ですぎたときの、あの匂い。それがもっと濃くて、山の匂いと混ざっている。硫黄だ。


 そして、音がしていた。

 耳ではなく、足の裏から来る音だった。低い、長い、規則のない振動。大地のどこか深いところで、何かがゆっくり息をしている。


 湯けむりが、風で一瞬だけ薄れた。


 その向こうに、山があると思った。

 違った。



 竜だった。


 崖の縁に、腹ばいになっている。

 全長は、この車両より長い。灰がかった緑のうろこが、湯に濡れて鈍く光っていた。背中に畳まれた翼は、広げれば断崖を渡れそうなほど大きい。


 わたしは、扉の陰で足を止めた。


 風が、崖下から吹き上げてきた。

 強い風だった。翼を持つものなら、迷わず乗るだろう風だ。


 竜は、逆のことをした。


 巨体を地面に押しつけたのだ。首を低くして、爪を岩に食い込ませる。ぎり、と石の削れる音がした。風がやむまで、そのまま動かなかった。

 ――飛べないから動かないのではなく、風に乗ってしまわないように耐えている。そう見えた。


 風が止むと、竜はゆっくり首を伸ばした。

 畳んだ翼のふちを、舌でなめた。膜が乾いて、細かくひび割れている。なめて湿らせようとして――途中でやめた。首を戻して、また腹ばいになる。


 それから、後ろを振り返った。

 自分の足跡を見ていた。


 湿った岩に、深く沈んだ爪の跡が点々と続いている。竜はそれをしばらく眺めて、また前に向き直った。しばらくして、また振り返った。


 ……その仕草を、どう読めばいいのかは分からなかった。

 ただ、空にいたころには一度も見なかったものを、いま何度も確かめているのだと思った。



「あの」

 わたしは、湯けむりの中を歩いていった。


 竜の首が、こちらに向いた。

 顔は――近すぎて、輪郭がうまく掴めなかった。ただ、鼻から吐き出される息が、湯気よりも熱かった。


「……人か」

 声が、腹に響いた。低い。低すぎて、音というより震えに近い。

「はい。あの列車の食堂で、料理を出しています」

「食堂」

 喉の奥で、ごろ、と何かが鳴った。

「ここには何もない。卵と、草だけだ」

「じゅうぶんです」


 竜は、しばらく黙っていた。


「……見物か」

「いえ」

「みんな、そう言って来る。近くの谷の連中だ。飛べなくなった竜を見に来て、気の毒そうな顔をして、帰っていく」

 うろこが擦れて、乾いた音がした。

「置いていくのだ、食い物を。わしの前に。……犬にやるように」


 わたしは、何も言わなかった。


「昔は、あの雲の上にいた」

 竜は、崖の向こうを見た。白いだけの空を。

「谷のどこに水があるか、どの峰が崩れるか、上から全部見えた。連中はわしに聞きに来た。頭を下げて、聞きに来た」

 喉の音が、少し乱れた。

「いまは、頭を下げられん。同情されるのだ。……あれは、下げているのではない」


 湯けむりが、二人のあいだをゆっくり流れていった。


「わしが空で見たものを、話せる相手が、もうおらん」

 竜が言った。

「同じ高さを飛んだ者は、みな先に逝った。地上の者に話しても、分からん。雲の切れ目の色も、山の風の癖も、伝わらん」

「……」

「消えるのだ。わしが消えると、それも消える」


 それは、飛べないという話ではなかった。

 持っているものを、誰にも渡せないという話だった。



「一皿、作らせてください」

 わたしは言った。

「ここのもので、いいので」


 竜は、答えなかった。

 拒みもしなかった。



 厨房に戻った。

 棚は、空だった。


 前の駅で、全部使った。鉄蕪も、干物も、乾燥肉も、蜜も、定規野菜も、乳も。空いた籠と壺だけが並んでいる。

 残っているのは、二つ。


 革の水筒と、縁のひしゃげた丸い型。

 どちらも、食べ物ではない。


 わたしは、その二つを持って外に出た。


 ホームの端の板を上げると、下に湯だまりがあった。透き通っていて、底の石まで見える。指を入れると、思ったより熱い。卵が茹だる温度ではないけれど、長く置けば、ゆっくり火が通る熱さだ。

 水筒で汲んだ。バハルの水筒だ。三十年、砂漠を渡った革が、湯を含んで少しふくらんだ。


 卵は、崖の岩棚にあった。

 鳥のものではない。もっと丸くて、殻が厚い。地熱で温められた砂の中に、いくつも埋まっている。

 硫黄草は、湯だまりの縁に生えていた。ちぎると、青くて鋭い匂いがする。生では食べられないだろう。


「お客様」チャイが盆を傾けた。「その卵は、この土地では砂に埋めて食べるそうです。半日ほど置くのだとか」

「半日」

 わたしは、湯けむりの向こうを見た。

 この列車が、いつ発つのかは分からない。分岐器のおもりのときのように、外の都合で決まってしまう。

「半日は、待てないかもしれない」

「はい」

「なら、こっちで温度を上げる」


 わたしは、いびつな丸型を取り出した。


 銅の型だった。コッペルが初めて焼いたケーキの型。縁が少しひしゃげていて、置くと片側に傾く。菓子を焼くための道具だ。

 ――ごめんなさい、コッペルさん。

 心の中でそう言って、わたしはその型を、湯だまりの底に沈めた。


 型に卵を並べ、汲んだ湯を張り、上から硫黄草をかぶせる。

 銅は熱を早く通す。湯だまりの熱が型を伝って、卵をじかに温めはじめた。砂に埋めるより、ずっと早い。


 型が傾いているせいで、湯が片側に寄った。

 浸かる深さが、卵ごとに違う。深いものは早く、浅いものはゆっくり。


 ――ああ。ここでも、揃わない。


 少し笑った。

 あの人の型は、どこまでも規格外だった。



 湯だまりの縁に座って、待った。


 地面の底で、低い音が続いている。

 ときどき強くなって、また弱くなる。呼吸みたいだった。この山が、ずいぶん長いあいだ、そうやって息をしているのだと思った。


 湯けむりが、体にまとわりついてくる。

 霧のように冷たくない。押し寄せてきて、肩や首の後ろに触れて、そのまま溶ける。汗なのか湯気なのか分からないものが、髪の生え際にたまっていく。


 息を吸うと、硫黄の匂いが胸まで入ってきた。

 最初は刺さるようだったのに、しばらく座っていると、それが体の内側から温める匂いに変わっていた。


 竜は、少し離れたところで腹ばいになったまま、こちらを見ていた。

 見ているだけで、何も言わなかった。



 卵を、型ごと引き上げた。


 殻を割ると、湯気が一気に上がった。

 白身は固まりきっていない。傾いた型の底を、とろりと伝って揺れる。黄身は、まだ形を保っていた。半分だけ火が通った、いちばん短いあいだしかない状態だった。


 器がない。

 棚には、もう何もない。


 わたしは、いびつな型をそのまま器にした。

 傾いた型に卵を落とすと、白身が低いほうへゆるりと流れる。硫黄草を細かく刻んで散らし、湯だまりの塩気の強い水を、ほんの少しだけ落とした。


「熱いうちに、お願いします」

 わたしは、竜の前にそれを置いた。

「固まってしまうと、味が変わります」


 竜の鼻先が、近づいてきた。

 巨大な生き物にとって、それはあまりに小さな器だっただろう。ひと呑みで終わる量だ。


 それでも、彼は舌を出さなかった。

 しばらく、匂いを嗅いでいた。


「……硫黄草か」

「はい」

「若いころ、山で腹を壊すとこれをかんだ。苦いものだ」

「刻んで、少しだけにしました」

「なぜ」

「熱いものと一緒だと、匂いだけ残るので」


 竜は、それを口に含んだ。


 ずいぶん長いあいだ、動かなかった。

 喉の奥で鳴っていた低い音が、途中で止まった。それから、また鳴りはじめた。前より、ゆっくりと。


「……ぬるいな」

「はい」

「熱くもなく、冷たくもない」

「固まりきる少し手前が、いちばんおいしいので」


 竜は、目を閉じたようだった。

 閉じたのかどうかは、遠くて分からない。ただ、首の位置が下がった。



「地の底の湯だ」

 やがて、彼は言った。

「この味は、上からでは分からん」

「はい」

「飛んでいたころ、わしはこの山を何百回も越えた。だが、この山の湯を飲んだことは、一度もなかった」


 湯けむりが、大きく流れた。


「上からは、この山は白い煙にしか見えん。それだけだ」

 竜の爪が、岩を少しだけ緩めた。

「地に下りて、初めて、この山が息をしているのを知った」

 喉の奥が、低く鳴った。さっきまでの、乱れた音ではなかった。


 わたしは、足の裏の振動に、もう一度耳を澄ませた。

 たしかに、上空からでは分からない音だった。



「あの」

 わたしは言った。

「さっきの話、聞いてもいいですか」

「どれだ」

「空で見たものを、話せる相手がいないって」


 竜は、黙った。


「いま、聞きました」

 わたしは、空になった型を引き寄せた。

「雲の切れ目の色も、山の風の癖も。……ぜんぶは分からなかったですけど、聞きました」

「聞いても、お前は飛べん」

「飛べません」

「なら――」

「でも、覚えました」


 喉の音が、一度、大きく乱れた。


「わたし、この列車で駅を回っています。この先も回ります」

 わたしは言った。

「聞いた話は、たぶん、どこかで誰かに話します。うまく話せないと思いますけど」

「……それは、わしの見たものではない」

「はい。わたしが聞いたものになります」


 竜は、長いあいだ動かなかった。


「変わってしまうぞ」

「変わります」

「わしが見たものとは、別のものになる」

「なります。……でも、消えません」


 湯けむりの中で、大きな影がゆっくり動いた。

 彼は、翼を少しだけ開いた。飛ぶためではなく、伸びをするような、それだけの動きだった。ひび割れた膜が、湯気を吸って、わずかに色を変えた。



 発車の音がした。


 いつ鳴るか分からない、と思っていた鐘でも砂でもない。ただ、車体がひとつ揺れて、行く準備ができたと知らせただけだった。


「もう行くか」

「はい」

「持っていけ」

 竜は、崖の岩棚のほうへ首を振った。

「卵は好きなだけ持て。硫黄草も。どうせ、わし一人では使いきらん」


 わたしは頭を下げて、卵を籠に移した。

 空だった棚に、久しぶりに、重さのあるものが入った。


「――竜さん」

「なんだ」

「あの列車、乗れますよ」

 竜が、首を上げた。

「食堂車です。人しか乗れないわけじゃないので。……たぶん、あなたは大きすぎて中には入れませんけど」

「乗れんではないか」

「線路の脇を、歩いてついてくることはできます」


 喉の奥で、また、ごろ、と音がした。

 今度のそれは、少し違って聞こえた。笑ったのかもしれない。


「……歩いて、どこへ行く」

「どこでも。この線路、始発も終点もないので」

 わたしは、指を差した。

「たとえば、あっちのほうに、鉱山の駅があります。ずっと誰も降りてこなかった駅で、いま、駅長さんがひとりで開けています」

「客は」

「わたしが降りてから、また来るようになったかもしれません。……分からないですけど」

「行っても、わしは飛べん」

「歩いて着いた話を、その人にしてあげてください」


 竜は、答えなかった。

 ただ、足元の自分の足跡を、もう一度だけ振り返った。


 今度は、すぐに前を向く。

 踏み出した爪が、新しい土を掴んだ。



 車内に戻ると、湯けむりの匂いが服にしみついていた。

 棚に卵の籠を置き、硫黄草の束をその隣に立てる。革の水筒を戻して、いびつな型を洗って、いちばん取りやすい場所に置いた。


 もう、菓子の型としては使わないかもしれない。

 それでも、これはよく働く道具だった。


 窓の外で、白い湯けむりが遠ざかっていく。

 その端に、大きな影がひとつ、崖のほうを向いて立っていた。まだ動いてはいなかった。


 チャイが、盆を抱えて隣に来た。


「次は――」

 言いかけて、また止まる。

「……やはり、出てまいりません」

「うん」

 わたしは窓の外を見たまま答えた。

「じゃあ、着いてから決めよう」

 急かす鐘も、落ちる砂も、もうなかった。


 白い煙が薄れて、線路の先が少しだけ見えた。

 どこへ続いているのかは、まだ分からない。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ