第5話 終端なき分岐駅の巡り鍋
「次は――」
チャイのアナウンスが車内に響いた。
「次は、終端なき分岐駅。終端なき分岐駅です」
窓の外で、線路が増えていく。
一本だったものが二本になり、二本が四本になり、やがて数えきれなくなった。錆びたものも、真新しいものもある。それぞれが違う方角へ伸びて、地平の手前で霞に溶けていた。
駅は、その真ん中にあった。
屋根のない、板張りだけのホーム。柱に古い案内板が下がっているが、書かれた駅名はどれも塗り重ねられて読めない。
ホームの端に、大きな鉄の棒が突き出している。線路を切り替えるための、分岐器だ。先に太いおもりが付いていて、それがゆっくりと傾きはじめていた。
「あの棒が倒れきると、線路が切り替わります」チャイが盆を傾けた。「そうしたら、この車両はどちらかの線へ流れます」
「どっちに?」
「分かりません」
チャイの声が、いつもより少しだけ低かった。
「この駅では、こちらでは決められないのです。あの棒は、別の列車が近づいてくると動きます。いつ来るかは、来てみないと」
わたしは、傾いていくおもりを見上げた。
砂時計のように減っていくのでもない。鐘のように定刻で区切られるのでもない。
――向こうの都合で、いつのまにか終わっている時間。
いちばん、落ち着かない種類の時間だった。
ホームの下に、小さな市が立っていた。
どの店にも、少しずつ違うものが並んでいる。片手で足りるほどの野菜。三尾だけの魚。ひと握りの豆。
「どの土地のものでもないのです」チャイが言った。「行き来する隊商が、余った荷を置いていきます。ここで採れるものは、何もありません」
その市の隅に、若い旅人がひとり座っていた。
足を止めた。
荷物が、多かった。
背嚢が二つ、括りつけた包みが三つ、脇に立てかけた長い筒がひとつ。ひとりで担げる量を超えている。
その背嚢の取っ手に、黒ずんだ跡が幾重にも残っていた。
荷札を貼っては剥がし、また貼っては剥がした跡だった。行き先を書いては、書き直したのだろう。粘着の残りが層になって、指でこすっても取れないほど古くなっている。
いま貼られている荷札は――白紙だった。
括りつけた包みの口から、中身が少し覗いていた。
厚い毛皮の外套。その隣に、日差しを避ける薄布の頭巾。どちらも、すぐ取り出せる位置に結わえてある。寒い土地と、暑い土地。どちらに行くことになっても困らないように。
……どちらにも、まだ行っていないということでもあった。
脇の筒から、丸めた紙の端が見えた。地図らしい。
一枚抜いて広げるのを、通りすがりに見た。
線も、印も、何も書き込まれていない。折り目もついていない。買ったときのままだった。
旅人は、その地図をしばらく眺めてから、丸めて筒に戻した。
それから、また同じ地図を抜いて、広げた。
……その繰り返しを、どう読めばいいのかは分からなかった。
ただ、これだけの荷を担いでどこへでも行ける人が、まだどこにも行っていないように見えた。
「あの」
声をかけた。
旅人が顔を上げた。革靴が、傷ひとつなく硬いままだ。背嚢の肩紐も、体に食い込む形に馴染んでいない。買ったばかりの装備で、長い距離を歩いていない足だった。
「……食堂の人?」
「はい。あの列車で、料理を出しています」
「お金、ないんだ。ごめん」
「通貨はいただいていません」
わたしは、少ししゃがんだ。
「差し出がましいんですが。どちらへ行かれるんですか」
旅人は、口を開いて――閉じた。
それから、白紙の荷札を指で隠した。
リト、と名乗った。
この駅に来て、もう幾日も経つのだという。
「決められないんだ」
リトは言った。膝を抱えて、線路の束を見ながら。
「あっちの線は、海の街へ行くって。こっちは山の向こうまで。どっちも良さそうで」
「どちらか選べない、ということですか」
「……ううん」
彼は、首を振った。
「たぶん、そうじゃない」
線路の向こうで、おもりがまた少し傾いた。
「うち、代々の炭焼きでさ。生まれたときから、やることが決まってた」
リトの指が、白紙の荷札をなでた。
「窯の火は決まった時刻に見る。木は決まった太さで切る。ぜんぶ決まってて、間違えようがなかった。……それが嫌で、出てきたんだけど」
「出てきて、どうでした」
「怖い」
短く、そう言った。
「決まってないって、こんなに怖いと思わなかった。誰も、どっちが正しいって言ってくれない」
わたしは、黙って聞いていた。
「もし海の街に行って、駄目だったら」
リトは、地図の筒を軽く叩いた。
「それ、ぜんぶ、おれのせいなんだよね。窯の火を落としたのがおれで、こっちを選んだのもおれで。……誰のせいにもできない」
「だから、まだ貼らないんですね。荷札」
「……うん」
彼は、剥がし跡の層を親指でこすった。
「何回も書いたよ。書いて、剥がして。書いてるあいだは、行った気になれるんだ」
わたしは、線路の束を見た。
どの線も、途中までしか見えない。先がどうなっているかは、行った者にしか分からない。
――七年間、わたしは時刻表の上を歩いていた。降りる駅も、着く時刻も、全部決まっていた。
決まっていることに、削られていた。
でも。決まっていたから、迷わずに済んでもいた。
その両方を、いま同時に思い出していた。
「リトさん」
わたしは立ち上がった。
「一皿、作らせてください。行き先を決める前に」
厨房に戻った。
棚の前に立って、少しのあいだ、動けなかった。
この駅には、この土地のものが何もない。市に並んでいたのは、どこかから来て、置いていかれたものばかりだ。
――なら、この列車も同じだ。
わたしは、棚のものを全部、卓に出した。
鉄蕪。太くて不格好で、まだ少し土がついている。
灯魚の干物。一枚ずつ反り方が違って、端が焦げたように黒い。
乾燥肉。かみ切れないほど硬い。
砂漠の蜜。壺の口が欠けている。
定規野菜。寸分違わず同じ長さ。
乳。ぜんまいで正確にかき混ぜられたもの。
岩塩。薄桃色の、坑道の欠片。
並べると、まるで揃っていない。産地も、性質も、切り方も。
――でも、これでいい。
どれも、その駅でいちばんいいものだった。
鍋に水を張り、まず乾燥肉と干物を入れた。
硬く干からびたものから先に。旨味を抜くのではなく、旨味を戻すために。
しばらくすると、鍋の中で二つが緩みはじめた。砂漠で乾かされた肉と、霧の湖で燻された魚。同じ湯の中で、どちらも自分の水気を取り戻していく。
湯気の匂いが、変わった。
燻された煙。潮。乾いた獣。……重なるはずのないものが、同じ鍋から立ちのぼっている。
そこへ、鉄蕪と定規野菜を放り込んだ。
鉄蕪は太いから、火が通るまで時間がかかる。定規野菜は寸法が揃っているぶん、いっせいに火が入る。ばらばらの速さで、それぞれが柔らかくなっていった。
干からびていたものが水を吸い、水気の多いものがその出汁を吸う。片方の足りないところに、もう片方が入っていく。
乳を注ぐと、濁った白になった。
砂漠の蜜を、ほんの少し。鉄蕪の土くささが、甘みに包まれて丸くなる。
最後に、岩塩をひとつまみ。ぼやけかけた味が、ぴんと立った。
――ごった煮ではない。
欠けているところが、たまたまかみ合っただけだ。
器によそうと、湯気が高く上がった。
卓に、鍋ごと出した。
リトは、しばらく器を見ていた。
「……なんの鍋?」
「名前はありません。この駅のものは、何も入っていません」
「え」
「ぜんぶ、よその駅でもらったものです」
彼は、一口すすった。
目が、大きく開いた。
「……なにこれ」
スプーンを持つ手が止まっている。
「甘い。しょっぱい。……あと、なんか、焦げた匂いがする」
「はい」
「変な味だ。ぜんぜん、まとまってない」
言いながら、彼はもう一口すすった。
「なのに、うまい」
湯気が、彼の顔にかかっていた。
「……これ、なんだろう」
リトの声が、少し変わった。
「知らない人の味がする。おれ、こんなの食べたことないのに、知らない誰かが、ずっと真面目にやってきた味がする」
わたしは、何も言わなかった。
言わなくても、伝わっているようだった。
冷え切った駅で、毎朝ランプに油を差していた人。
父の手の匂いを思い出そうとして、指を切り続けていた子。
三十年、誰にも水を飲ませなかった人。
〇・二ミリの歪みを、鐘のたびに炉へ落としていた職人。
誰の名前も、この鍋には書いていない。
それでも、全員が入っていた。
この子は今日、その全部を食べて、どこかへ行く。
リトは、器を両手で持って、飲み干した。
「リトさん」
わたしは言った。
「その荷札、まだ白紙ですよね」
「……うん」
「書いて、剥がして、を何度もされたって」
「うん」
「それ、間違いだったんですか」
リトが顔を上げた。
「海の街って書いた日と、山って書いた日と、あったんですよね。そのときは、たぶん本気だったはずです」
わたしは、鍋を指した。
「この鍋、四つの駅のものが入ってます。どれも、その駅では『いちばんいいもの』でした。鉄蕪は鉄蕪でいちばん、干物は干物でいちばん」
「うん」
「でも、鉄蕪だけの鍋にはなりませんでした。混ざって、こうなりました」
リトが、空になった器を見た。
「どこかを選んだら、その先で、また何かが混ざります」
わたしは言った。
「選んだものだけで、その先が決まるわけじゃないんです。……たぶん」
言いながら、少し不安になった。
これは、わたしがこの人に言っていることなのか。それとも。
「終点はないんです。この線路」
それでも、わたしは続けた。
「始発も終点もなくて、ぐるぐる回ってるだけです。だから――どこで降りても、その先はあります」
リトは、しばらく黙っていた。
それから、背嚢の取っ手に手を伸ばした。
白紙の荷札を、そっと外す。剥がし跡の層の上に、新しい荷札を貼り直した。
彼は、そこに一言だけ書いた。
わたしからは、何と書いたのか見えなかった。
「決めた」
リトが言った。
「間違ってるかもしれないけど」
「はい」
「そのときは、また混ぜる」
彼は笑った。今日いちばん、荷物が軽そうな顔だった。
おもりが、大きく傾いた。
どこか遠くで、別の列車の音がしている。
リトは、大きいほうの背嚢を担ぎ直した。
それから、残りの包みのうち二つを、市の店先に置いた。
「いらないの、それ」
「片方しか行かないから」
毛皮の外套を、彼は置いていった。
置いていかれた外套が、店先で日を吸って重そうに見えた。
――ああ。
選ぶというのは、片方を置いていくことなんだ。
「これ、持っていってください」
わたしは、鍋の残りを瓶に詰めて渡した。
「どこの駅でも食べられます。どこのものでもないので」
「ありがとう」
リトは、それを荷物のいちばん上に括った。
「あのさ。あんたは、どこで降りるの」
息が、詰まった。
「……まだ、決めてないです」
「おれと同じだ」
「そうですね」
わたしは笑った。うまく笑えたかは、分からなかった。
「でも、たぶん、少し違います」
言ってから、それが本当だと気づいた。
「わたし、いま、降りたくないんです」
自分の声が、思ったよりはっきりしていた。
「決められないんじゃなくて。……まだ、乗っていたい」
リトは、少し考える顔をした。
「それも、決めたってことじゃない?」
答えられなかった。
彼は、迷いなくホームを降りていった。
線路を一本またいで、まだ切り替わっていないほうの線へ。分岐器のおもりが倒れる前に、その先へ歩いていく。
振り返らなかった。
振り返らないのが、いちばん、よかった。
厨房に戻ると、卓の上で伝票が風にめくれていた。
押さえるものを探して、手近にあったものを置いた。
伏せたままの、手鏡だった。
裏の、剥がれかけたテープ。色あせた三文字。
いまはただの、重しだった。
それでいい、と思った。
おもりが、倒れた。
鉄の音がして、線路が切り替わる。この車両が、どちらの線へ流れるのかは分からない。
「次は――」
チャイのアナウンスが、途中で止まった。
「……チャイ?」
「申し訳ございません」
銀の人形は、盆を抱えたまま、少し困ったように首を傾けた。
「次の駅が、出てまいりません」
「壊れた?」
「いいえ。……こういうことが、ときどきございます」
チャイは、窓の外を見た。切り替わったばかりの線路が、霞のほうへ伸びている。
「行き先が決まっていないのではなく――この先は、決めながら進む区間なのだと思います」
わたしは、棚を見た。
鉄蕪の袋は、もう空になっていた。干物の包みも、乾燥肉も。蜜の壺は底が見えている。定規野菜の籠も、乳の壺も。
全部、さっきの鍋に入った。
棚には、革の水筒と、縁のひしゃげた丸型だけが残っている。
どちらも、食べ物ではない。
どちらも、誰かが「使ってほしい」と言って渡したものだった。
空になった棚を、しばらく見ていた。
――また、いっぱいにしよう。
わたしは暖簾を掛け直した。
窓の外で、名前のない線路が、まっすぐ霞へ入っていく。
行き先のない切符が、湯気の残った鍋の縁で、小さく揺れていた。




