第4話 時計塔駅のゆるいプリン
「次は――」
チャイのアナウンスが車内に響いた。
「次は、時計塔駅。時計塔駅です」
わたしは厨房の壁に、小さな手鏡を掛けた。
前の職場から、そのまま持ってきてしまったものだった。裏に、剥がれかけたテープが貼ってある。誰が書いたかも分からない、色あせた四文字。
――スマイル。
乗務前に必ず、これで口角を確認した。上がっていなければ上げた。上がっていても、もう少し上げた。七年間、一日も欠かさず。
鏡を覗いて、指で口の端を持ち上げる。
体が勝手にやっていた。
窓の外から、音がしはじめた。
街は、動いていた。
建物という建物の壁面から歯車が突き出し、かみ合い、回っている。石畳の下からも駆動音がする。屋根の上を、細い金属の腕が規則正しく行き来していた。
そして街のいちばん高いところに、時計塔が立っている。
鐘が、鳴った。
その瞬間、通りを歩いていた人形たちが、いっせいに足を止めた。次の音で、いっせいに歩き出す。荷を運ぶ者も、掃く者も、扉を開ける者も、全員が同じ拍で動いていた。
乱れが、どこにもなかった。
「この街は、鐘で回っております」チャイが盆を傾けた。「わたくしたちが停まっていられるのも、鐘と鐘のあいだだけです」
「次の鐘が鳴ったら、発つの?」
「はい。それと――」
チャイは通りの端を示した。
金属の籠がいくつも並び、中に、割れた皿や歪んだ部品が積まれている。籠の脇には、細長い炉。
「この街の決まりです。規格から外れたものは、次の鐘とともに、あの炉へ」
「捨てるってこと?」
「はい。寸法の合わないものを残しておくと、かみ合わなくなりますので」
規則正しい街の音の中に、時折、炉の扉が開く音が混じっていた。
工房の並ぶ通りを歩いた。
どの窓からも、同じ拍の作業音がする。金属を叩く音、糸を巻く音、粉をふるう音。
その中に、ひとつだけ、拍の合っていない音があった。
菓子屋だった。
硝子越しに、機械人形がひとりで作業台に向かっている。銅色の体に、細かな彫りの入った職人らしい造りだった。
足を止めた。
台の上に、定規が並んでいた。
ひとつやふたつではない。長いもの、短いもの、角度を測るもの、厚みを見るもの。人形はそれらを取り替えながら、切ったばかりの生地を測っていた。測っては、少し切り、また測る。
やがて――自分の指を、定規に当てた。
絞り袋を握る指の角度まで測っている。
それから立ち位置を直しはじめた。
床のタイルの目地に、爪先を合わせようとする。合わせて、しばらく立ち、また少しずれる。ずれるたびに、膝の関節がきしんだ音を立てた。合わせ直す。またずれる。何度も。
その体のどこかで、秒を刻む音がしていた。
規則正しい、細かい音。それが時折、引きつるように高く鳴った。そのたびに人形は動きを止め、手を握りしめる。指の付け根から、黒いものがにじんでいた。
油だ。
……そのにじみを、どう読めばいいのかは分からなかった。
ただ、これほど正確に測り続けている手が、正確でいるために壊れかけているように見えた。
窓の内側に、焼き上がったケーキがひとつ置かれていた。
わたしの目には、綺麗だった。
人形はそれを持ち上げ、しばらく定規を当てて――そのまま、台の下の口に落とした。
炉の音がした。
「あの」
扉を開けて、声をかけた。
人形が振り向いた。顔にあたる部分に、細かな細工の目盛りが刻まれている。
「……本日の割当ては、終了しております」
「客ではないんです。あの列車の食堂で、料理を出していて」
「食堂」
人形の首が、かすかな金属音を立てて傾いた。
「では、なおのこと。当店に出せるものはありません」
「出していただかなくて大丈夫です」
わたしは、台の下の口を見た。
「……いま捨てたの、わたしには綺麗に見えました」
「〇・二ミリ、傾いておりました」
「それは、味に関わりますか」
人形は、答えなかった。
秒を刻む音が、また引きつるように高く鳴った。
コッペル、と名乗った。
この工房で、三代ぶんの型を受け継いでいるという。
「わたしは、焼けないのです」
彼は言った。作業台の縁を、指でなぞりながら。
「正しくは、焼けます。焼けますが、出せない。寸法を測ると、必ずどこかが外れている。外れたものは、規格外です」
「全部、あの炉に?」
「はい。次の鐘までに処分しなければ、街の拍が乱れますので」
彼の関節が、またきしんだ。
「近ごろは、鐘が鳴るたびに捨てております」
わたしは、店の壁を見た。
棚に、古い型がいくつも並んでいる。どれも磨き上げられて、ほこりひとつない。使われていない道具の、丁寧な並べ方だった。
「コッペルさん。いつから、そうなんですか」
「……いつから」
彼はしばらく黙った。
それから、いちばん端の、いちばん古い型を取った。銅が薄くなるほど使い込まれた、小さな丸型だった。
「これで焼いたものを、一度だけ、外の方に召し上がっていただいたことがあります」
「外の方?」
「この街の者ではありませんでした。列車で来られて、鐘二つぶんだけ滞在されて、行かれました」
コッペルの指が、型の縁をなでた。
「わたしが、初めて焼いたものでした。歪んでおりました。焦げもございました。……お恥ずかしい出来です」
「それを、その人は」
「笑って、召し上がりました」
店の中で、秒を刻む音だけがしていた。
「『うまい』と、おっしゃいました」
コッペルは型を棚に戻した。とても丁寧に、元あった角度のまま。
「もう一度、あの顔を見たいと思いました。ですから、腕を上げねばと。歪みをなくさねばと。焦げを出してはならぬと」
彼の手から、また油がにじんだ。
「そうして寸法を詰めてまいりましたが、……近ごろ、分からなくなりました」
「何がですか」
「わたしが、あの日より下手になっているのか、上手くなっているのか」
わたしは、何も言えなかった。
あの日のケーキは、歪んでいた。焦げていた。規格の外にあった。
――この人は、いちばん遠ざかりたかった場所から、出発している。
「コッペルさん」
わたしは言った。
「一皿、作らせてください。捨てなくていいものを」
厨房に戻った。
棚に、この街の食材が届いていた。定規野菜というらしい。籠から一本取り出して、驚いた。
どれも、寸分違わず同じ長さだった。太さも、曲がりも、同じ。並べると隙間が生まれない。
乳も届いていた。ぜんまい仕掛けの器で、正確な回数だけかき混ぜられたものだそうだ。
それから、棚の奥に目をやった。
ゴルダの鉄蕪がまだ少し残っている。ニィナの干物の包み。バハルの蜜の壺と、革の水筒。
どれも、大きさも形も揃っていない。鉄蕪は太くて不格好だし、干物は一枚ずつ反り方が違う。壺は口が欠けている。
――でも、この棚は、空っぽじゃない。
空っぽな手のひらだと思っていたものが、いつのまにか、不揃いなものでいっぱいになっていた。
わたしは、定規野菜を手に取った。
そして、わざと、ばらばらの大きさに切った。
大きいもの、小さいもの、厚いもの、薄いもの。包丁の入れ方も揃えなかった。
それを鍋に放り込み、乳を注ぎ、火にかける。
――大きいものは芯まで火が通るのに時間がかかる。小さいものは先にとろける。厚いものは歯ごたえが残る。
同じ鍋の中で、全部の火の通り方が違う。それでいい。
表面に焼き色をつけると、縁のほうから、ぐつ、ぐつ、と音がしはじめた。規則のない、勝手な音だった。この街に来てから初めて聞く、拍の合っていない音。
それから、プリンにかかった。
乳と、バハルの蜜。砂漠の花の蜜は水気が多い。混ぜて蒸すと、案の定、固まりきらなかった。
型を傾けると、ゆるりと寄る。皿には、出せない。
――出さなくていい。型のまま出そう。
スプーンを添えた。
表面がわずかな振動でふるりと揺れる。歯車の街の、規則正しい震動を受けて、そこだけが不規則に揺れていた。
卓に、二皿を出した。
コッペルはしばらく動かなかった。
それから――定規に手を伸ばした。
「測らないでください」
わたしは言った。
「測っても、意味がないので。全部、寸法が違います」
「……不良品ですか」
「いいえ。そう作りました」
彼はグラタンを一口すくった。
機械の人が食べるところを、わたしは初めて見た。口にあたる部分が開き、中で細かな音がして、ゆっくりと飲み下される。
その音が、途中で、変わった。
「……熱の通りが」
コッペルの声が、少し高くなった。
「一口ごとに、違います。いまかんだものは崩れました。次のものは、歯ごたえが残っております」
「はい」
「これは……計算ができません」
「できないほうが、たぶん、おいしいです」
彼はもう一口すくい、また一口すくった。
三口目のあたりで、体の中の音が変わったのが分かった。
あの引きつるような高い音が、消えていた。かわりに、なめらかな、低く連続した回転音がしている。まるで、長いあいだかみ合わずに擦れていた歯車のどこかに、油が回ったような。
彼はプリンの型を手に取った。
傾ける。中身が、ゆるりと片側へ寄る。
「……崩れます」
「崩れます」
「皿に、出せません」
「出さなくていいんです。型のまま食べてください」
コッペルはスプーンを入れた。
すくい上げたものは、スプーンの上でもう形を保っていなかった。ふるりと震えて、縁から少しこぼれた。
彼は、それを口に運んだ。
――秒を刻む音が、止まった。
一拍だけ。
それから、また動きはじめた。前より、ゆっくりと。
「……甘い」
コッペルが言った。
「甘いのですが、輪郭がありません。舌の上でほどけて、境目が、なくなっていきます」
「砂漠の蜜です。乾いたところで採れたものが、この街まで来ました」
「……遠い味が、いたします」
「はい」
「これは、失敗ではないのですか」
「失敗です」わたしは言った。「わたしが同じものを完璧に作ろうとしたら、たぶん、二度と同じにはなりません」
「それでは、商いになりません」
「ならないですね」
わたしは笑った。
「でも、いま、おいしいでしょう」
コッペルは、答えなかった。
答えないまま、二口目をすくっていた。
――そのとき、自分が何を言おうとしているのか、わたしはまだ分かっていなかった。
「コッペルさん。あの人が笑ったのは、たぶん、完璧だったからじゃないです」
彼の手が、止まった。
「歪んでたんですよね。焦げてたんですよね。それでも『うまい』って言ったんですよね」
「……はい」
「じゃあ、その人が食べたのは、完璧なケーキじゃないです」
言いながら、喉の奥が、変な具合につかえた。
「おいしいって、たぶん――」
わたしは、壁の手鏡を見た。
剥がれかけたテープ。色あせた三文字。
――スマイル。
わたしは、その鏡を、そっと伏せた。
「わたし、前の仕事で、笑顔に寸法がありました」
自分の声が、少し遠く聞こえた。
「口角の角度が決まっていて、乗務前に鏡で確かめるんです。定時運行で、一秒も遅れちゃいけなくて、どんなお客様にも同じ笑顔で立たなきゃいけなくて」
「……規格ですね」
「規格でした」
わたしは、うなずいた。
「七年間、一度も外れないようにやりました。上手になりました。……でも、ある日。鏡の前で口角を上げたとき、自分がいま何を感じてるのか分からなかったんです」
コッペルは何も言わなかった。
ただ、彼の体の中で、あの低い回転音が続いていた。
「嬉しいから笑ってるのか、そういう形になってるだけなのか。分からなくなって。……そのうち、会社が車内販売をやめました」
言葉が、勝手に出てきた。
「わたしは、規格の外に出されたんです。自分から出たんじゃなくて、外されて。それで、自分には何もないんだって思いました。人に出すことしかできない、空っぽな人間だって」
わたしは、伏せた鏡を、指で押さえた。
「でも――」
そこで、初めて気づいた。
いま、この人にかけている言葉を。
「規格の外にこぼれたものが、おいしいんです」
言った瞬間、喉の奥から熱いものが上がってきた。
削って、捨ててきたはずのものが、まだ全部そこにあった。
七年間、削り続けた。
削って、揃えて、寸法に収めた。収めきれなかったぶんは、こぼれた。
こぼれたぶんは、無駄だと思っていた。
――違ったのかもしれない。
「わたしが出すもの、毎回、寸法が違います」
声が、少し震えた。
「駅ごとに食材が違って、在庫も違って、同じものは二度と作れません。ぜんぶ、規格外です。……でも、それで、いいみたいなんです」
完璧じゃなくて、いいんです。
声に出した言葉が、わたし自身をゆっくりほどいていった。
コッペルが立ち上がった。
床のタイルを見て――目地から、少しずれた位置に立った。
直さなかった。
「椿さま」
「はい」
「わたしは、明日、歪んだものを焼いてみようと思います」
「炉に入れずに?」
「入れずに。売れるかどうかは分かりませんが……その不揃いな形を、少しだけ、いとおしいと思いながら」
「売れなかったら、わたしが食べます」
「次の鐘で、発たれるのでは」
「じゃあ、また来たときに」
コッペルの顔にあたる部分の、細かな目盛りが、わずかに動いた。
どう動いたのかは、うまく言えない。
ただ、それはきっと、どの定規でも測れない角度で――彼が初めて規格外の笑い方をしたように、わたしには見えた。
型に残ったゆるいプリンが、その振動で、ふるりと甘く崩れた。
鐘が鳴った。
コッペルは定規野菜を一籠と、乳の壺をわたしに持たせた。
「通貨が違うと伺いました。品でよろしいですか」
「じゅうぶんです」
「では、これも」
彼が最後に差し出したのは、あの古い丸型だった。
銅が薄くなるほど使い込まれた、いちばん端の、いちばん最初の型。
「いいんですか。それ」
「わたしは、もう、これに戻らなくてよいようです」
コッペルは丁寧に包んで渡した。
「歪んだものが焼けます。よく焼けます」
受け取った型は、思ったより軽かった。
縁が、ほんの少し、ひしゃげていた。
「次は――」チャイのアナウンスが響いた。「次は、終端なき分岐駅。終端なき分岐駅です」
窓の外で、歯車の街が遠ざかっていく。
全員が同じ拍で歩く通りの、菓子屋の前だけ、ひとつの影が拍から外れて立っていた。
わたしはもらった型を棚に置いた。
鉄蕪の隣。干物の包みの隣。蜜の壺と、革の水筒の隣。
どれも大きさが違って、形が違って、並べても隙間ができる。
――ぜんぜん、揃っていない。
棚の前で、少しだけ笑った。
今度は、鏡を見ないで笑った。
伏せたままの手鏡には、まだ、剥がれかけたテープが貼ってある。
捨てはしなかった。あれも七年ぶんの、わたしだ。
ただ、もう、乗務前に確かめなくてもいい気がした。
窓の外で、
線路が、ゆっくりと二手に分かれはじめている。




