第3話 砂時計駅の分け合う串
「次は――」
チャイのアナウンスが車内に響いた。
「次は、砂時計駅。砂時計駅です」
窓を開けた瞬間、熱が塊で入ってきた。
霧見湖の湿りが、一息で乾いていく。まぶたの裏まで焼けるような光。ホームに降りると、足の裏から靴越しに砂の熱が這い上がってきた。
駅は砂漠のまっただ中にあった。
線路の両脇に、色あせた天幕がいくつも張られている。荷を積んだ獣たちが繋がれ、縄をほどく音、値を言い合う声、量りの皿が触れ合う硬い音。人と獣と荷が、狭い日陰を奪い合うようにひしめいていた。
そして、ホームの真ん中に、それは立っていた。
わたしの背丈の三倍はある、大きな砂時計だった。
鉄の枠に嵌められたガラスの中を、白い砂が細く落ちている。上の砂は、半分ほどまで減っていた。
「この駅の決まりごとです」チャイが盆を傾けた。「列車が停まるのは、あの砂が落ちきるまで。上の砂がなくなれば、この食堂車は自動的に発ちます」
「……止められないの?」
「霊脈がそう決めております。それと、もうひとつ」
チャイは天幕のほうを見た。
「この駅の商いも、同じ砂で計るそうです。砂が落ちきるまでに話がまとまらなければ、その取引は流れる。次の砂までは、同じ相手と卓を囲めない習わしだとか」
落ちていく砂を、もう一度見上げた。
誰かを満たすまでに与えられた時間が、目に見える形でそこにある。それは、少しだけ、恐ろしかった。
天幕の列を歩いた。
どの店先でも商人たちが荷を広げ、量り、言い合っている。汗と、香辛料と、獣の匂い。
その喧騒の、いちばん端。
日陰の切れかけた場所に、ひとりだけ、誰とも話していない男がいた。
ラクダに似た顔立ちの獣人だった。背が高く、埃をかぶった外套を着ている。積み上げた荷の前にあぐらをかき、黙々と荷紐を解いていた。
足を止めた。
その紐が、異様だった。
一本の紐が、何重にも、複雑に結ばれている。ひとつ解けば次の結び目、その次も。ほどくのに、ずいぶん時間がかかっていた。誰かに手伝わせれば早いのに、周りに人はいない。呼ぼうともしない。
男は喉が渇いたのか、腰の袋から水筒を出して飲んだ。
すぐ横の店先には、旅人向けの水甕が置かれている。柄杓も添えてある。彼はそれを一度も見なかった。自分の水筒の水だけを、少しずつ飲んでいた。
それから――荷の間に埋もれていた、小さな天秤を取り上げた。
商売道具だろう。分銅がいくつか並んでいる。そのうちのひとつだけが、角の欠けた古いものだった。彼はほかの分銅には触れず、その欠けた一個だけを親指の腹でゆっくりと撫でた。何を計るでもなく、ただ、撫でていた。
……その仕草を、どう読めばいいのかは分からなかった。
ただ、誰にも紐を任せず、誰の水も口にせず、古びた分銅だけを撫でていた。
その背中は灼けた日向にいるのに、ひどく寒そうに見えた。
「あの」
声をかけた。
男が顔を上げた。目が、まず、わたしの手元を見た。次に足元、それから顔。値踏み――ではなく、何を持っているかを確かめる目だった。
「……見ない顔だ。どこの隊だ」
「隊は組んでいません。あの列車の食堂で、料理を出しています」
「食堂」
男は鼻から短く息を吐いた。
「悪いが、俺は買わない。物を売るなら、先に品を見せろ。俺は後だ」
「売り込みではないんです」
しゃがんで、目の高さを合わせた。
「差し出がましいことを言います。……お腹、空いていませんか」
男の耳が、わずかに動いた。
バハル、と名乗った。
この砂漠を三十年渡ってきた隊商の長だという。
「取引が、まとまらない」
水筒の口を締めながら、彼は言った。
「向こうの天幕に、サディクという男がいる。俺の乾燥肉と、あいつの香草を交換したい。数も釣り合う。品も悪くない。なのに、砂が三度落ちても、話がまとまらん」
「何が引っかかるんですか」
「あいつが、先に品を出さない」
バハルの指がまた、欠けた分銅に触れた。
「俺も出さん。先に出したほうが、持っていかれる」
「持っていかれる?」
「……昔、そういうことがあった」
そこで、彼は黙った。
言わないつもりだったのだろう。けれど、砂の落ちる音がやけに大きく聞こえるほど、その沈黙は長かった。
「ハキムという男がいた」
やがて、彼は言った。
「二十年、一緒に砂を渡った。俺の荷は、あいつの荷だった。あいつの水は、俺の水だった」
乾いた声だった。
「ある年、砂嵐で隊が丸ごと足止めを食った。俺は別の街にいた。……戻ってきたら、俺の積荷が、そっくり無くなっていた。あいつが売っていた」
「どうして」
「隊の連中に、食わせるためだ」
バハルは、笑った。笑っているのに、目のあたりだけが、そのままだった。
「三十人いた。子供もいた。水も麦も尽きて、あと二日で全員死ぬところだった。あいつは俺の荷を売って、それを買った。……誰も死ななかった」
わたしは、何も言えなかった。
「怒れんのだ」
バハルは外套の裾の砂を払った。
「怒鳴ってやろうと思った。殴ってやろうと思った。だがあいつは、俺の顔を見るなり地面に頭をつけて、こう言った。『代わりに死ねと言うなら、いま死ぬ』と。……そう言われて、俺に何ができる」
「……」
「事情を聞けば、許すしかない。許してしまえば――」
彼の指が分銅の欠けたところで止まった。
「俺が受けた分は、どこにも行き場がなくなる。宙に浮いたまま、俺の中に残る」
だから、と彼は言わなかった。
言わなかったが、何重にも結ばれた荷紐と、誰の水も飲まない喉と、二十年ぶんの重さを持つ古い分銅がそこにあった。
深く関わらなければ、事情を聞かされることもない。
――たぶん、この人が守っているのは、荷ではない。
「バハルさん」
わたしは立ち上がった。
「一皿、作らせてください。取引の前に」
厨房に戻った。
棚を検める。ニィナからもらった、灯魚の干物。それに鉄蕪が少しと、岩塩。
チャイが窓の外を示した。天幕の裏手に、夜にだけ咲くという花の蜜が壺に溜められている。とろりと濃い、琥珀色。それと、水気をたっぷり抱えた多肉。この土地では、これを薄く切って生のまま齧るのだそうだ。
灯魚の干物を、火にかざした。
脂が滲んで、じゅ、と音を立てる。立ちのぼった煙の匂いに、一瞬、あの霧の湖が戻ってきた。桟橋の板の匂い。湿った空気。ニィナの、切り傷だらけの手。
――あなたが灯魚漁を続けている限り。
あの子が明日も船を出すから、この干物がいま、砂漠にある。
串を打った。
干物、多肉、干物、多肉。交互に刺して、蜜を刷毛で塗る。岩塩をひとつまみ。焼くと、蜜が焦げて甘い香りが立ち、その下から灯魚の塩気が追ってくる。多肉は熱を通すと、噛んだ瞬間に水が弾けた。
乾いた土地の甘さと、湿った土地の塩気。
二つの土地の味が、一本の串の上で交互に並んでいる。
残った蜜を、冷たい水で割った。
霊脈の冷気で冷やした壺に注ぐと、壁が汗をかいた。この駅で、こんなに冷えたものを飲む機会は、そう多くないはずだ。
器は、ひとつだけ用意した。
串も、皿一枚にまとめて盛った。
卓を、天幕の日陰に出した。
バハルを座らせ、それから、向かいの天幕へ行った。
サディクという男は、山羊に似た顔の、痩せた商人だった。話しかけると、やはり最初に、わたしの手元を見た。
「食事です。バハルさんと、同じ卓で」
「あいつと? 断る」
「取り分けません。皿は一枚、器もひとつです」
「……なんだと」
「品の話は、食べ終わってからにしてください」
サディクはしばらく黙っていた。
それから、荷の陰にいた小さな山羊人の子供に何か言い、渋々といった足取りでついてきた。
――ああ。この人にも、背中に乗っているものがある。
二人は卓を挟んで座った。
目も合わせない。バハルは腕を組み、サディクは指で膝を叩いている。
わたしは串を盛った皿を、二人のちょうど真ん中に置いた。それから、蜜水の器を、ひとつだけ。
「取り皿は?」
「ありません」
「……取り箸は」
「手で、どうぞ」
二人が同時にわたしを見た。
「わたし、前の仕事で七年間、走る乗り物の中で物を売っていました」
わたしは言った。
「席は指定席で、隣同士はだいたい他人です。誰も、一言も口をききません。……でも、同じところから同じコーヒーを買って、同じ揺れに一緒に耐えている。そうすると、降りる頃には少し違うんです」
二人が、黙って聞いていた。
「肘が当たったとき、謝る。窓の日差しが眩しそうだと、日よけを下ろす。それだけのことなんですけど」
串を、一本、皿の端に寄せた。
「同じものを口に入れた人同士は、ほんの少しだけ、他人じゃなくなる。……七年見ていて、それだけは本当だと思いました」
砂時計を見上げた。
上の玉の砂は、もう三分の一を切っていた。
「砂が落ちるまで、品の話はなしです。食べてください」
先に手を出したのは、サディクだった。
串を一本取り、警戒するように匂いを嗅いでから、齧った。
目が、開いた。
「……甘い。いや、しょっぱい。……なんだこれは」
「甘くて、しょっぱいんです」
「妙な食い物だ」
言いながら、二本目に手を伸ばしていた。
バハルは、まだ動かなかった。
組んだ腕を解かないまま、皿を見て、サディクを見ていた。
――怖いんだろうな、と思った。同じ皿から食うのは、この人にとって、荷紐を他人に解かせるのと同じことだ。
わたしは蜜水の器を、そっと二人の間に置いた。
「ひとつしかないので、回してください」
「……おい」
「ひとつしかないんです」
サディクが、先に取った。ぐいと飲んで、ふう、と長く息を吐く。
「……冷たい」
彼は器をバハルのほうへ押した。押してから、しまった、という顔をした。回し飲みなど、するつもりはなかったのだろう。
器は、卓の真ん中で止まっていた。
バハルの指が、それに触れるまで、砂が少しだけ落ちた。
彼は、飲んだ。
喉が、大きく動いた。乾ききった砂の道を三十年渡ってきた喉が、冷たい甘さを一息に受け止めて、それからふっと力を抜いた。
「……甘いな」
バハルが言った。
それから、串を一本取った。手づかみで、蜜のタレが指を伝うのも構わずに、大きく齧りついた。ぼろ、と多肉の水が弾けて、外套に落ちた。彼はそれを払わなかった。
「うちの、末の子が」
串を口に運びながら、サディクが、ぽつりと言った。
「熱を出してな。この香草でないと、下がらん。だが俺の隊には、もう肉がない。……先に香草を出して、肉が来なかったら、俺は子供に何も食わせられん」
バハルの手が、止まった。
串を持ったまま、彼はしばらく動かなかった。毛羽立った耳が、力なく垂れていく。
――事情を、聞いてしまった。
聞いてしまえば、もう、ただの疑わしい相手ではいられない。
「……それを、先に言え」
絞り出すような声だった。
「言えるか。足元を見られる」
「見るか、俺が」
「見るだろう、商人なら」
二人はしばらく睨み合った。
それから、どちらからともなく、笑った。
乾いた、短い笑いだった。けれど、それは確かに、同じ卓の上で起きたことだった。
バハルが最後の串を取って、半分だけ齧り、残りを皿に戻した。
「食え。子供に食わせる前に、お前が倒れる」
「……いらん」
「食え」
サディクが、それを取った。
「商談の前に」
バハルが、初めて歯を見せて笑った。
「――まず、同じ皿を食おう。次からは、そうする」
砂時計の、最後の砂が落ちていく。
冷たい蜜水の器が、二人のあいだでまだ汗をかいていた。
取引は砂が落ちきる前にまとまった。
乾燥肉と香草が、それぞれの天幕へ運ばれていく。サディクは荷を担ぐ前に、一度だけこちらを振り返って、頭を下げた。
バハルは蜜の壺と乾燥肉の束をわたしに押しつけた。
「通貨が違うと聞いた。品でいいか」
「じゅうぶんです」
「足りん」
彼は荷の中から、水筒をもうひとつ取り出した。使い込まれた、革の水筒だった。
「砂漠を行くなら、水は二つ持て」
「……いいんですか。これ」
「一つは、人にやるためのものだ」
受け取った水筒は、まだ少し重かった。中身が入っている。
この人は、誰にも自分の水を飲ませなかった人だ。
「バハルさん」
「なんだ」
「ハキムさんとは、まだ」
彼は、答えなかった。
外套の砂を払って、荷紐を結び直しはじめた。今度は、二重だけだった。
「……砂の道は、長い」
それは、まだ許すという意味ではなかった。
けれど、道が長いということは、途中でどこかの卓に着く機会がまだ残っているということだ。
わたしは、それ以上聞かなかった。聞かないことも、たぶん接客のうちだった。
発車のベルが鳴った。
砂時計の上の玉が、空になる。
「次は――」チャイのアナウンスが響いた。「次は、時計塔駅。時計塔駅です」
窓の外で、天幕の群れが遠ざかっていく。
その端で、バハルが誰かと卓を囲んでいるのが、一瞬だけ見えた。相手が誰かは、砂埃で分からなかった。
蜜の壺を棚に並べ、もらった水筒を、その隣に置いた。
一つは、人にやるためのもの。
わたしは、いくつ持っているだろう。
人に渡せるものなら、ずっと数えてきた。ワゴンに何を積むか、何を切るか、七年間ずっと。
――でも、自分のために取っておいたものが、
ひとつでもあっただろうか。
その問いは、また口に出さなかった。
窓の向こうで、新しい歯車の音が、小さく鳴りはじめていた。




