第2話 霧見湖駅の梅煮
「次は――」
チャイのアナウンスが車内に響いた。
「次は、霧見湖駅。霧見湖駅です」
窓の外は白かった。
霧だった。朝も昼も夜も見分けがつかないほど濃い霧が、湖の上にそのまま蓋をしていた。ホームに降りると、木の匂いと水の匂い、かすかに魚の匂いがした。
桟橋が霧の中に何本も伸びている。板張りの家々が桟橋の上に直接建っていた。漁村――それも、地面ではなく水の上に浮かぶ村だ。
湖面の底のほうで、青白い光がいくつも瞬いている。
「灯魚です」チャイが盆を傾けて教えてくれた。「霧の濃い夜、光って自分の居場所を仲間に知らせる魚だそうです」
沈黙した霧の底で、魚だけが小さく喋っている。そんな景色だった。
桟橋のいちばん奥、小さな小屋の前に、ひとりの娘がいた。
鱗のような光沢を持つ肌をした、半魚人の娘だった。しゃがみこんで、古い漁網の繕い針や浮き、木の柄の付いた銛を布で丁寧に磨いている。
足を止めた。
小屋の前には小皿が並んでいた。ひとつやふたつではない。十枚、二十枚――どの皿にも、ひとくちかふたくち分の煮汁が残っていて、味見をした跡がある。
娘の指先には、真新しい切り傷がいくつも走っていた。それでも彼女は味見をしては顔をしかめ、指先についた汁をぺろりと舐め、また首を振っている。
そして――磨き上げられているはずの銛の柄に点々と茶色い染みがついていた。煮汁の色だ。大事な漁具を抱えたまま、味見と調理を繰り返していたのだろう。
まだ何も聞いていない。
小皿の山と、指の生傷と、大事な漁具についた似合わない染み。
――悲しむ暇もないほど、この子は何かに追われている。舌からこぼれ落ちていく記憶を、指先だけで取り戻そうとしているような焦りだった。
「あの」
声をかけた。
娘が顔を上げた。目の縁が赤い。だが、泣いてはいなかった。何かを探している目だった。
「……食堂車?」
「はい。急に立ち寄って、すみません。何か、お困りではありませんか」
娘は、しばらくわたしを見つめてから、握りしめていた銛を、少しだけ胸に引き寄せた。
「わたし、ニィナ」小さく名乗ってから、絞り出すように言った。「お父さんの、味が」
「お父さんの?」
「灯魚漁の最中に、お父さん、帰ってこなかった。もう、ずいぶん経つ。わたし、お父さんの好きだった煮物をもう一度作りたいのに……味が、思い出せない」
「覚えているのは?」
「酸っぱくて、しょっぱかった。それだけ」
ニィナは足元の小皿を見た。
「何十回も作った。塩を足したり、酢を足したり。でも、違う。ぜんぶ、違う」
「――少し、預からせてもらえますか」
わたしは言った。「一緒に、探してみます」
厨房に戻った。
在庫は鉄蕪と岩塩。それに、ゴルダからもらったあの梅干しの壺。
チャイが窓の外の湖畔を指した。酸っぱい香りのする、小さな赤い実をつけた木が茂っている。
「霧見湖の畔だけに生える木の実です。酸味が強く、この土地の人々は煮物の隠し味に使うそうです」
灯魚は桟橋の下の生簀にいくらでもいる。発光する銀色の身は脂が乗って柔らかそうだった。
梅干し。木の実。灯魚。
酸っぱくて、しょっぱい――ニィナの記憶と同じ言葉。
灯魚を三枚におろし、粉をまぶして油で揚げる。梅干しをちぎって種を抜き、湖畔の実と合わせ、岩塩でととのえた漬け汁に灯魚を沈める。南蛮漬けだ。
酸味が魚の脂を切り、揚げたての衣がその酸を吸って、じんわりと柔らかくなっていく。
鍋の中で灯魚がひとつ、またひとつと、光を失っていった。かわりに、甘酸っぱい湯気が細く立ちのぼる。
発車のベルが遠くで一度鳴った。
「――発車まで、あと少しです」チャイが囁いた。
手元を動かす速度が心なしか上がった。
漬け汁が味の芯まで染みたところで、手を止めた。
完成まで、あと一歩。このまま自分で仕上げれば、発車には確実に間に合う。それでも、指がほんの一瞬だけ迷った。ここから先を人に委ねたことなど、七年間で一度もなかった。それでも、皿と菜箸をニィナのほうへ差し出した。
「え?」
「仕上げは、ニィナがやって」
「わたし、料理なんて」
「大丈夫。ここまでの味はもうできてる。あとは盛るだけ」
ニィナは戸惑いながら、震える指で灯魚を一切れ皿に取った。汁を掛ける。もう一切れ。手の甲で目元をぬぐう仕草をした。
「……お父さん、いっつも、これくらい豪快に盛ってた」
ぽつりとこぼれた。
「わたしが上品に盛ろうとすると、『魚はもっと乱暴でいい』って笑って、ぐしゃっと」
ニィナの手が思い出したように動く。皿の上に、汁がすこし飛び散るくらい、乱暴に。
できあがった一皿を、ニィナは自分の手で口に運んだ。
噛んだ瞬間、大きく目を見開いた。
「――あ」
短い声だった。
「これ。これだ……」
酸っぱくて、しょっぱい。舌に触れた瞬間、記憶より先に何かが胸の奥で立ちのぼったらしい。ニィナの肩が震えはじめた。
「お父さんの手、いつも、こんな匂いがした。魚と、汗と、ちょっとお酢の匂い。船の上で、いつも笑ってた。わたし、今日ずっと同じ匂いを出そうとしてたのに……できなかったのに」
「今、できたね」
「……うん」
ニィナは皿を抱えたまま、自分の手のひらを見つめた。真新しい切り傷だらけの、荒れた手。
「わたしの手、いつのまにか、お父さんの手みたいにボロボロだ」
声が笑うような、泣くような形になった。
「お父さんも、いつも手が傷だらけだった。魚と喧嘩する仕事だから、って」
同じ場所に、同じ傷がある。
「あなたのお父さんの味は」
わたしは言った。
「あなたの手が、覚えてる」
荒れた指先に、温かな湯気がふわりと絡む。
ニィナはしばらく何も言わなかった。ただ、皿を胸のあたりに抱いて湯気を吸い込むように、深く息をしていた。
やがて、静かに漁具を取り上げ、銛の柄についた煮汁の染みを指先でそっと拭った。今度は、味見のためではなく――ちゃんと、しまうために。
「明日、漁に出る」
ニィナが言った。
「お父さんがいなくても、わたしがやる。この村の灯魚漁、絶やせないから」
その声に、迷いはもうなかった。
「持っていって」
ニィナは燻した灯魚の干物を山ほど抱えてきた。
「父さん譲りの腕で燻した、うちの村でいちばんの干物だから」
「ありがとう。大事に使わせてもらう」
発車のベルが二度目に鳴った。
「あの」ニィナが少しだけ声を落とした。「また、来る?」
「わからない。この線路、始発も終点もないから。でも――」
暖簾を撫でた。
「あなたが灯魚漁を続けている限り、いつかまた、この駅に光が灯ると思う」
ニィナは小さく笑った。今日いちばん、力の抜けた顔だった。
窓の外で、霧の底の灯魚たちがまた静かに瞬いている。
「次は――」チャイのアナウンスが響く。「次は、砂時計駅。砂時計駅です」
干物の入った包みを厨房の棚に並べた。
人に何かを手渡して、あとは黙って見送る。
それだけのことが、こんなに温かいなんて。七年間、車内販売をしていても知らなかった。




