第1話 錆鉄駅のポタージュ
「本日をもちまして、車内販売サービスを終了いたします」
そのアナウンスを最後に、わたしは七年ぶんの制服を脱いだ。
ボタンをひとつずつ外すたびに、ワゴンを押して歩いた通路の長さが指先によみがえる。揺れる床、ホットコーヒーの湯気、缶ビールの結露、「アイス、まだ硬いね」と笑うお客様の顔。――もう、二度と押さないワゴン。
最終勤務日の夜だった。
回送になった車両の隅で、座席に身を預けたまま、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。疲れていた。明日からの自分が何者でもなくなることに、心のほうが先に音を上げていたのだと思う。
目を覚ましたとき、窓の外に知らない星があった。
東海道の夜景ではない。ビルの灯りも、防音壁の灰色も、追い越していく対向列車の光もない。見たことのない数の星が、空のいちばん深いところまで敷き詰められていた。
車両は止まっている。なのに、車内の空気はかすかに揺れていた。走っているときの、あの細かな振動だけが残っているみたいに。
「……夢、にしては」
寒い。
頬に触れる空気が、冷蔵庫を開けた瞬間のように冷たかった。
「次は――」
声がした。
通路の真ん中に、それはいた。手のひらに乗るくらいの、銀色をした小さな人影。給仕の盆を抱えた、精巧なからくり人形のような――それが、ふわりと宙に浮いている。
「次は――、錆鉄駅。錆鉄駅です。お降りのお客様は、お忘れ物のないよう、ご注意ください」
車内アナウンスそのままの、抑揚。
わたしは自分でも驚くくらい冷静に、まず制服の襟を直した。脱ぎかけのジャケットの袖に、もう一度腕を通す。乱れた前髪を撫でつける。七年間、どんな異常時でも――急停車でも、酔客の絡みでも――まず身だしなみを整えてから動け、と叩き込まれてきた。体が勝手にそうしていた。
「あなたは?」
「チャイと申します」銀の人形がぺこりと頭を下げた。「この車両に宿る者です。長らくお待たせいたしました。あなたが乗ってくださるのを、ずっと」
窓の外で、ホームのランプがひとつ、灯った。
降りたホームは、赤錆の匂いがした。
古い鉱山町なのだとすぐにわかった。山の斜面に、止まったままの巻き上げ機が黒い影で立っている。トロッコのレールが蔦に飲まれ、選鉱場の屋根が半分落ちている。人の声はなく、灯りもなく、風が錆びた鉄板を鳴らしていた。
寒い。湯気のひとつも立たない、徹底的に冷えた駅だった。
ホームの端に、ひとりだけ人がいた。
背中の丸い、老婆だった。
灰色の制帽をかぶり、色のあせた駅員の上着を着て、誰も乗らず誰も降りない列車に向かって、深々と一礼している。土に近い肌の色をした、わたしの知らない種族の人だった。
足を止めた。
――観察、してしまった。職業病だった。
上着のボタンは、いちばん上まできちんと留まっている。改札ラッチは磨かれて鈍く光っている。足元のランプの油は、なみなみと満ちている。掲示板の時刻表は、消えかけた文字の上から、何度もなぞり書きされている。
誰も来ない駅を、毎日、完璧に、開け続けている人。
その背中を見たとき、胸の奥を何かが掠った。理由は、まだ言葉にならなかった。
「……乗りに来たんじゃ、ないんだろ」
老婆は振り向かずに言った。しわがれた、芯の通った声だった。
「この駅は、もう終わったんだ。鉱山が涸れて、みんな出ていった。降りる者も、乗る者も、もういない。あんたも――幽霊列車に間違って乗っただけなら、すぐに次へお行き。ここには、何もないよ」
諦めの言葉だった。
なのに、その人の上着のボタンはいちばん上まで留まっていた。
知っている。本当に諦めた人は身だしなみから崩れる。毎朝きちんと制服を着る人は、心のどこかでまだ「今日こそ来るかもしれない」と思っている。
「駅長さん」わたしは言った。「わたし、お腹が空きました」
老婆――ゴルダと名乗った――が、初めて振り返った。
車内に戻って、厨房を検めた。
もとは車内販売の準備室だった狭い空間に、いつの間にか小さな竈と流しがついている。チャイいわく、この車両は「料理を出す者」を待っていたのだそうだ。
肝心の在庫が、ない。
当たり前だった。今日は最終勤務日。売れるものはすべて売り切って、空のワゴンで終わるのが、わたしたちの矜持だった。棚を端から探って、見つかったのはたったひとつ。
賞味期限は、明日まで。コーンスープの素が、ひと袋。
「……これだけじゃ、何も出せない」
お湯で溶くだけのスープ一杯を、あの人に出すのか。七年やってきたわたしが?
「お客様」チャイがそっと盆を傾けた。「この土地のものなら、ございます」
精霊が示したのは、ホームの脇の、誰にも収穫されないまま育ちすぎた畑だった。白い根菜が、地面から肩をいからせるように顔を出している。鉄蕪、というらしい。鉱山の地下水を吸って育つ、この土地でしか採れないもの。坑道の壁からは、薄桃色の岩塩が削り出せた。
ベースは、コーンスープの素。具は、鉄蕪。味の芯に、岩塩。
頭の中で、ワゴンの積み荷を組み替えるときの感覚が起動した。限られたものしか積めない。積めるものだけで、その日いちばんを出す。それが、車内販売員の仕事だ。
鉄蕪をひと口大に切った。
火を入れると、土くさかった根菜が、しんと甘い湯気を立てはじめる。コーンスープの素を溶いて、刻んだ鉄蕪を煮込み、岩塩でぎりぎりまで味を締める。仕上げに、坑道の冷気でうっすら凍りかけた岩塩のかけらを、指先で削って散らした。
――カチカチのアイスを、お客様の好みの硬さに削る。それがわたしの、たった一つの取り柄だった。
その指の力加減が、こんなところで役に立つとは。
白い湯気が、立った。
止まった町に、久しぶりに動くものが生まれた。
「……あったかい」
器を受け取ったゴルダの手が、震えていた。
一口すすって、それから長いあいだ何も言わなかった。湯気がその顔の皺を、ゆっくり撫でていった。
「わしはね」やがて、絞り出すように言った。「ずっと、待ってたんだ。誰も来やしないと、わかってた。それでも毎朝、駅を開けた。ランプに油を差して、ホームを掃いて、列車に礼をした。――馬鹿だろう。来ない客のために、毎日、こんな」
「馬鹿じゃ、ないです」
首を横に振った。
「いま、わたしが降りてきました。あなたが駅を開け続けてくれたから、わたしは、ここに降りられたんです」
ゴルダの目が大きく開いた。
その奥で、長い長い年月が音を立ててひっくり返るのが見えた気がした。
老婆は湯気の前で、声を上げて泣いた。子どものように、肩を震わせて。そうしてもう一口、ポタージュをすすった。
ことり、と車両の奥で、何かが灯る音がした。
「……燃料が」チャイの声が、わずかに揺れた。「燃料が、灯りました。満足の念です。……久しぶりです。この灯りを見るのは」
銀の人形は、ともった小さな火をまぶしそうに見上げていた。
「これでこの食堂車は、また走れます。――でも、覚えておいてください。満たせなかった日は、ここで止まる。次の駅へは、もう行けません」
誰かを満たせば、走れる。満たせなかった日は、動けなくなる。
チャイの言葉は半分しか飲み込めなかった。それでも、ひとつだけわかったことがある。
誰かに何かを「出す」ことしかできない、空っぽな手のひらだと思っていた。それが、いまはたしかに、誰かのために温かいものを持っている。
ゴルダは鉄蕪と岩塩を、運びきれないほど持たせてくれた。通貨が違うから、と。
「あの」チャイが、車両の床下をそっと指し示した。「ここに、忘れ物があるようです」
示された場所から取り出したのは、古びた壺だった。中に、しわしわの赤い実が詰まっている。
「あんたより先に、この車両にいた者の忘れ物みたいだね」ゴルダが壺を覗き込んで言った。「梅干し、というそうだ。見るからに酸っぱそうで、わしには食えんが……あんたなら、使い道があるだろう」
梅干し。
わたしのよく知る、日本の味だった。それが、こんな世界の片隅に残っていた。壺を抱える腕に、知らず力がこもった。
「駅長さん。わたし、また来ます」
「ああ」ゴルダはもう泣いていなかった。背筋を伸ばし、制帽をかぶり直した。「この駅は、もう終点じゃない。あんたが来るなら――わしは、駅長を続けるよ」
発車のベルが鳴った。
「次は――」チャイのアナウンスが車内に響く。「次は、霧見湖駅。霧見湖駅です」
動き出した窓の向こうで、ゴルダがいつまでも手を振っていた。
わたしは暖簾を一枚、厨房の入り口に掛けた。今朝まで何者でもなかった布に、墨で名前を書く。
――つばめ食堂。
終点のない線路。だったら、わたしはどこで降りればいいんだろう。
その問いは、まだ口に出さなかった。
答えのかわりに、暖簾をくぐる。終点のない線路の上で、わたしの二度目の仕事が始まった。




