第八章 全部やりたい
最初の一時間のことを、ぼくは全部覚えている。
順番も、値段も、誰が何を言ったかも。
これはたぶん、脳みその容量が、そこに全部使われてしまったからだと思う。あの一時間、ぼくは自分の外側で起きていること以外、何ひとつ考えていなかった。
歩くと、店が来る。
通り過ぎると、次の店が来る。
五メートルに一軒だから、それが延々と続く。
射的、輪投げ、たこ焼き、から揚げ、焼きそば、じゃがバター、りんご飴、綿あめ、かき氷、くじ、お面、水風船。名前を知らない店もあった。
全部やりたい、と思った。
文字どおり、全部だ。
一キロぶんの店、四百軒を、端から端まで、一軒残らず。
できないことくらい、十歳でもわかる。
わかっていても、そう思った。
◇
拓海がかき氷の店に並んだので、ぼくも後ろについた。
四百円。
拓海がブルーハワイと言ったから、ぼくもブルーハワイと言った。青い色をしていて、味は青い色の味がした。それ以外に言いようがない。
紙の財布から千円札を一枚出すとき、ぼくは少し手間取った。
三枚重なっているのを、一枚だけ抜くのがうまくできない。おじさんが待っているのがわかって、指が余計に動かなくなった。
おつりの六百円を受け取って、それを財布に戻して、マジックテープを閉じる。びりびり、と鳴った。
残り、二千六百円。
ぼくは頭の中でそう数えた。
こういうことをしていたのは、五人のうちでぼくだけだった。
拓海は財布を見もしないで金を出していたし、健太はポケットに小銭を裸で突っ込んでいた。美咲は――たぶん数えていた。あの子は数えていたはずだ。でも顔には出さなかった。
舌が青くなった。
健太が「うわ、見して」と言うので見せた。健太のはイチゴで、赤かった。二人でお互いの舌を見せ合って、なんでもないことで笑った。
◇
次は、健太が「たこ焼き」と言って歩き出したので、五人でそっちに行った。
六百円。八個入り。
紙の舟に入っていて、ソースと青のりと鰹節がのっている。鰹節が熱でうねうね動くのを、杏がしゃがみこんで見ていた。
「動いてる」
「動いてない。湯気で揺れてるだけ」
「動いてるよ」
美咲がそう言い切っても、杏は動いていると言い張った。杏がそんな風に引かないのを、ぼくは初めて見た。
一つ食べたら、中がまだ熱くて、口を開けたまま息を吸った。
そういう、みっともない食べ方をしても、誰にも何も言われない。
残り、二千円。
三千円のうち、もう千円が消えていた。
まだ一時間も経っていない。
「優真くん、ペース考えた方がいいよ」
美咲が横から言った。ぼくの財布を見たわけでもないのに。
「まだ二時間以上あるんだから」
「わかってる」
「わかってないでしょ」
「うるせーな」
答えたのは拓海だった。ぼくではなく。
拓海は笑いながら言ったので、美咲もそれ以上は言わなかった。
ぼくは、助かった、と思った。
自分で言い返さずに済んだことに、ほっとしていた。
◇
金魚すくいの店の前で、ぼくは足を止めた。
止まったのは、ぼくだけだった。
拓海と健太は、その少し先で射的の店をのぞいていた。美咲と杏は、反対側のりんご飴の前にいた。
四人とも、こっちを見ていない。
浅い水槽が、青いビニールを敷いた木の枠の中に置いてある。
その中に、金魚がびっしりいた。
赤いのと、まだらのと、黒くて丸いの。数え切れない。
水は薄く濁っていて、上から蛍光灯みたいな明かりが当たっていた。
四百円、と紙に書いてある。
ぼくは、金魚すくいをやったことがなかった。
去年までは、母のとなりで見ているだけだった。「やる?」と聞かれて、「いい」と答えていた気がする。あれはたぶん、失敗するのが嫌だったのだと思う。
でも、その日は、四百円を出した。
誰も並んでいない店に、ひとりで。
自分で決めて、自分で払った。
◇
おじさんは、金を受け取ると、紙のポイと白いお椀を黙って渡してきた。
ぼくは水槽の前にしゃがむ。
やり方は知らない。聞けば教えてくれたと思う。
でも聞かない。
見よう見まねで、ポイを水に入れる。
真上から、まっすぐ。金魚のいるあたりに、ざぶんと。
紙が破れる。
水に触れて、金魚が散って、真ん中に穴が空いている。
一匹もすくっていない。
四百円。
三秒。
耳のあたりが熱くなった。
◇
立ち上がって、破れたポイを差し出す。
すみません、とか、ありがとうございました、とか、何か言うべきだった。
口は動かない。
おじさんはポイを受け取って、水槽の横に置いた。
それから透明な袋を一枚取り、水を少し入れる。
網で、隅にいた小さいのを一匹すくって、袋に落とす。
口をねじって、輪ゴムで留めて、こちらに差し出す。
「はい」
「え」
「持ってきな」
おじさんは、もう次の子の方を見ていた。
ぼくは袋を受け取って、頭を下げた。
頭を下げただけで、その場を離れた。
あの日、ぼくが礼を言えなかった人は二人いる。
一人目が、このおじさんだ。
◇
袋は思っていたより重い。
持ち上げると下がぐっと沈んで、手のひらに食い込む。
中で金魚が一匹、ゆっくり向きを変える。
赤くもない。どちらかというとオレンジで、五センチもない。
「え、すくえたの?」
美咲が戻ってきて、袋をのぞきこんだ。
「うん」
ぼくは袋を少し持ち上げて、見せた。
美咲は「へえ」と言った。
それだけだった。
◇
「一匹だけかよ」
拓海が来て、そう言って笑った。
「うるさい」
「持って帰んの、それ」
「持って帰る」
「死ぬぞ」
拓海はそう言って、また射的の方へ行ってしまった。
死ぬぞ、と言われて、ぼくは初めて、この袋の中身が生きものであることを意識した。
それまでは、賞品みたいなものだと思っていた。
でも、これは動いている。ぼくが持ち上げるたびに、水の中で向きを変える。
右手に、重さがあった。
残り、千六百円。
そして、この日ぼくの右手は、もう空ではなくなった。
◇
四時をまわると、人が急に増えた。
さっきまでは前が見えていたのに、いつのまにか大人の背中しか見えない。歩くというより、押されて進む感じになってきた。
五人で固まって歩くのが、だんだん難しくなる。
「射的やろうぜ」
拓海が言った。もう決めた声だった。
「あれ絶対取れる。あの箱のやつ」
「並んでるじゃん」
「並ぶ」
健太は、から揚げの店の行列を見ていた。
「あっちの方、うまいらしい」
「どっち」
「あっち」
杏が、りんご飴の前で立ち止まっていた。買うわけでもなく、ただ、赤いのが並んでいるのを見ていた。
美咲は、どこも見ていなかった。
美咲だけが、ぼくら四人を見ていた。
ぼくは、どうしたかったのだろう。
いま考えても、思い出せない。
射的をやりたかったのか、から揚げが食べたかったのか、りんご飴を見ていたかったのか。
たぶん、どれでもよかったのだ。
どれでもよかったから、ぼくは何も言わなかった。
五人の視線が、四つの方向に散った。
いま思えば、ここが分かれ目だった。
あの一時間で終わっていれば、あの日は完璧な日として残っていた。




