第七章 県道が消える
東口の階段を下りきったところで、ぼくは足を止めた。
止めるつもりはなかった。勝手に止まった。
目の前を、トラックが走っていったからだ。
普通の、灰色の、荷台に何か積んだトラック。それが県道を、いつもどおりの速さで通り過ぎていく。
その後ろから、軽自動車と、白いワゴンが続いた。
道は、まだ道だった。
でも、その道の両側に、屋台がびっしり並んでいた。
◇
三時前だと、祭りはまだ始まっていない。
拓海が「早い方がいい」と言い張ったのは、たぶん混雑を避けるためだったのだと思うけれど、結果としてぼくらは、めったに見られないものを見ることになった。
屋台は、もう全部そこにあった。
白いテントの骨組みが、道の端に沿って、どこまでも続いている。ぼくが立っている場所からは、その列の終わりが見えなかった。
でも、まだどこも売っていない。
鉄板に火は入っていない。氷の機械は止まっている。りんご飴は透明なケースの中で、まだ一つも減っていない。
店の人たちは、パイプ椅子に座って新聞を読んだり、たばこを吸ったり、隣の店の人と何か喋ったりしていた。ぼくらのことなんて、誰も見なかった。
それがなんだか、すごいことに思えた。
この人たちは、これから始まるものを、始まる前から知っているのだ。
「まだじゃん」
健太が言った。心底がっかりした声だった。
「三時からだって」
「あと二十分」
「長え」
拓海がその場でしゃがみこんだ。健太も真似してしゃがんだ。
美咲が「浴衣だから座れない」と言って、二人を見下ろしていた。
◇
待っている間、ぼくは音と匂いだけを浴びていた。
一番近くにあったのは、機械の音だ。
屋台の裏に、四角い箱みたいなものが置いてあって、それが低く唸っていた。発電機、というものだと、あとで父に教わった。
その箱からは、車と同じような排気の臭いがした。祭りの匂いの中で、これだけははっきりと臭かった。ぼくは後ずさりして、風下から外れた。
でも、そこから二、三歩ずれると、もう違う匂いに変わる。
ソース。
鶏の脂。
綿あめの、あの、鼻の奥が甘くなる感じ。
あとから知ったのだが、あの道には店が四百軒くらい出る。両側だから片側二百軒。道の長さが一キロだとすると、五メートルに一軒だ。
つまり、一歩か二歩進むごとに、匂いが変わる。
目をつぶって歩いていても、自分がどこにいるかわかるんじゃないか。
そんなことを、ぼくは本気で考えていた。
遠くから、笛と太鼓が聞こえていた。まだずいぶん遠かった。
◇
三時になった。
青い服の人が何人か出てきて、道の両端にコーンを並べ始めた。オレンジ色の、あの三角のやつだ。
最後の一台が通り過ぎた。
白い軽トラックだった。窓を開けて、腕を出して運転していたおじさんが、こっちを見て何か言った。何を言ったのかは聞こえなかった。たぶん、ぼくらに言ったのでもなかったと思う。
そして、道が空になった。
一瞬、本当に、誰もいない一瞬があった。
一キロの道が、端から端まで、何もない。車も人も乗っていない、ただの黒いアスファルトが、まっすぐ向こうまで伸びている。
あの日のいろんなことがぼやけてしまったのに、あの数秒だけは、いまも目を閉じれば出てくる。
からっぽの道。
祭りというのは、あの一瞬に始まるのだと思う。
屋台が並んだときでも、人が来たときでもなく、道が道であることをやめた、あの数秒に。
◇
「行っていいのかな」
杏がそう言った。
誰も答えなかった。
でも、道の向こうの方で、誰か大人が先に歩き出した。それを見て、こっち側でも何人かが出ていった。
拓海が「行こ」と言って、歩道から一歩、下りた。
ぼくも下りた。
スニーカーの底を通して、アスファルトの熱が伝わってきた。
昼の間、ずっと日に焼かれていた道だ。触ったら熱いんだろうな、と思った。
ぼくは、道の真ん中に立っていた。
白い線をまたいで、車が走っていたはずのところに、両足で立っていた。
変な感じだった、というのではぜんぜん足りない。
ぼくの十歳の脳みそは、そのとき、こういうことを考えていた。
いつも「危ないから出るな」と言われている場所に、いま自分は立っている。
しかも誰にも怒られない。
この道は、今日はぼくたちのものだ。
◇
去年まで、ぼくはこの同じ場所を、母と歩いていた。
同じ道で、同じ屋台で、たぶん同じ匂いがしていた。
違うのは、手だ。
去年のぼくの右手は、母の手の中にあった。人が増えるたびに握られる力が強くなって、ぼくはそれを少し恥ずかしいと思いながら、離そうとはしなかった。
今年、ぼくの右手は空いている。
だらんと下がっていて、何も握っていない。
そのことを、ぼくは道の真ん中で、はっきり意識した。
自由というのは、手が空いているということなのかもしれない。
いま思えば、その空いた右手に、ぼくは数時間後、金魚の袋を提げることになる。
そしてそれを、家に帰るまで、一度も手放さない。
でもそれは、まだ先の話だ。
◇
「行こうぜ!」
拓海が走り出した。
健太が追いかけて、美咲が「走らないでって言われたでしょ」と叫んで、それでも下駄で早足になって、杏がその後ろについていった。
ぼくも走った。
もう道は空っぽではなかった。
どこから湧いてきたのか、人が次々と歩道から下りてきて、道が埋まり始めていた。前を見ると、大人の背中と、頭と、日傘と、うちわしか見えない。
五人が、その中に入っていく。
ぼくの十歳の身長では、三歩も進むと、もう空が半分しか見えなかった。
それでも、ぼくは笑っていた。
ポケットの中の三枚と、目の前の一キロと、まだ五時間以上ある夕方。
あのとき、ぼくの持っていたものは、全部これからのものだった。




