↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夏祭りの金魚  作者: 横田 真


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/17

第七章 県道が消える

 東口の階段を下りきったところで、ぼくは足を止めた。


 止めるつもりはなかった。勝手に止まった。


 目の前を、トラックが走っていったからだ。


 普通の、灰色の、荷台に何か積んだトラック。それが県道を、いつもどおりの速さで通り過ぎていく。

 その後ろから、軽自動車と、白いワゴンが続いた。


 道は、まだ道だった。


 でも、その道の両側に、屋台がびっしり並んでいた。



   ◇



 三時前だと、祭りはまだ始まっていない。


 拓海が「早い方がいい」と言い張ったのは、たぶん混雑を避けるためだったのだと思うけれど、結果としてぼくらは、めったに見られないものを見ることになった。


 屋台は、もう全部そこにあった。

 白いテントの骨組みが、道の端に沿って、どこまでも続いている。ぼくが立っている場所からは、その列の終わりが見えなかった。


 でも、まだどこも売っていない。


 鉄板に火は入っていない。氷の機械は止まっている。りんご飴は透明なケースの中で、まだ一つも減っていない。

 店の人たちは、パイプ椅子に座って新聞を読んだり、たばこを吸ったり、隣の店の人と何か喋ったりしていた。ぼくらのことなんて、誰も見なかった。


 それがなんだか、すごいことに思えた。

 この人たちは、これから始まるものを、始まる前から知っているのだ。


「まだじゃん」


 健太が言った。心底がっかりした声だった。


「三時からだって」

「あと二十分」

「長え」


 拓海がその場でしゃがみこんだ。健太も真似してしゃがんだ。

 美咲が「浴衣だから座れない」と言って、二人を見下ろしていた。



   ◇



 待っている間、ぼくは音と匂いだけを浴びていた。


 一番近くにあったのは、機械の音だ。


 屋台の裏に、四角い箱みたいなものが置いてあって、それが低く唸っていた。発電機、というものだと、あとで父に教わった。

 その箱からは、車と同じような排気の臭いがした。祭りの匂いの中で、これだけははっきりと臭かった。ぼくは後ずさりして、風下から外れた。


 でも、そこから二、三歩ずれると、もう違う匂いに変わる。


 ソース。

 鶏の脂。

 綿あめの、あの、鼻の奥が甘くなる感じ。


 あとから知ったのだが、あの道には店が四百軒くらい出る。両側だから片側二百軒。道の長さが一キロだとすると、五メートルに一軒だ。


 つまり、一歩か二歩進むごとに、匂いが変わる。


 目をつぶって歩いていても、自分がどこにいるかわかるんじゃないか。

 そんなことを、ぼくは本気で考えていた。


 遠くから、笛と太鼓が聞こえていた。まだずいぶん遠かった。



   ◇



 三時になった。


 青い服の人が何人か出てきて、道の両端にコーンを並べ始めた。オレンジ色の、あの三角のやつだ。


 最後の一台が通り過ぎた。


 白い軽トラックだった。窓を開けて、腕を出して運転していたおじさんが、こっちを見て何か言った。何を言ったのかは聞こえなかった。たぶん、ぼくらに言ったのでもなかったと思う。


 そして、道が空になった。


 一瞬、本当に、誰もいない一瞬があった。


 一キロの道が、端から端まで、何もない。車も人も乗っていない、ただの黒いアスファルトが、まっすぐ向こうまで伸びている。


 あの日のいろんなことがぼやけてしまったのに、あの数秒だけは、いまも目を閉じれば出てくる。

 からっぽの道。


 祭りというのは、あの一瞬に始まるのだと思う。

 屋台が並んだときでも、人が来たときでもなく、道が道であることをやめた、あの数秒に。



   ◇



「行っていいのかな」


 杏がそう言った。


 誰も答えなかった。

 でも、道の向こうの方で、誰か大人が先に歩き出した。それを見て、こっち側でも何人かが出ていった。


 拓海が「行こ」と言って、歩道から一歩、下りた。


 ぼくも下りた。


 スニーカーの底を通して、アスファルトの熱が伝わってきた。

 昼の間、ずっと日に焼かれていた道だ。触ったら熱いんだろうな、と思った。


 ぼくは、道の真ん中に立っていた。


 白い線をまたいで、車が走っていたはずのところに、両足で立っていた。


 変な感じだった、というのではぜんぜん足りない。

 ぼくの十歳の脳みそは、そのとき、こういうことを考えていた。


 いつも「危ないから出るな」と言われている場所に、いま自分は立っている。

 しかも誰にも怒られない。


 この道は、今日はぼくたちのものだ。



   ◇



 去年まで、ぼくはこの同じ場所を、母と歩いていた。


 同じ道で、同じ屋台で、たぶん同じ匂いがしていた。


 違うのは、手だ。


 去年のぼくの右手は、母の手の中にあった。人が増えるたびに握られる力が強くなって、ぼくはそれを少し恥ずかしいと思いながら、離そうとはしなかった。


 今年、ぼくの右手は空いている。


 だらんと下がっていて、何も握っていない。

 そのことを、ぼくは道の真ん中で、はっきり意識した。


 自由というのは、手が空いているということなのかもしれない。


 いま思えば、その空いた右手に、ぼくは数時間後、金魚の袋を提げることになる。

 そしてそれを、家に帰るまで、一度も手放さない。


 でもそれは、まだ先の話だ。



   ◇



「行こうぜ!」


 拓海が走り出した。


 健太が追いかけて、美咲が「走らないでって言われたでしょ」と叫んで、それでも下駄で早足になって、杏がその後ろについていった。


 ぼくも走った。


 もう道は空っぽではなかった。

 どこから湧いてきたのか、人が次々と歩道から下りてきて、道が埋まり始めていた。前を見ると、大人の背中と、頭と、日傘と、うちわしか見えない。


 五人が、その中に入っていく。


 ぼくの十歳の身長では、三歩も進むと、もう空が半分しか見えなかった。


 それでも、ぼくは笑っていた。


 ポケットの中の三枚と、目の前の一キロと、まだ五時間以上ある夕方。

 あのとき、ぼくの持っていたものは、全部これからのものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。