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夏祭りの金魚  作者: 横田 真


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7/17

第六章 二時半、西口

 当日の朝、ぼくは六時前に目が覚めた。


 こんなに早く起きたのは、遠足の日以来だった。

 台所にはまだ誰もいなくて、外はもう明るくて、蝉が鳴き始めていた。


 やることは何もなかった。


 集合は二時半だ。あと八時間半ある。

 ぼくは居間の時計を見て、部屋に戻って、しばらくしてまた居間に行って、時計を見た。


 朝ごはんを食べた。歯を磨いた。何もしていないのに、何回も手を洗った。

 母が「そんなに落ち着かないなら、宿題でもやりなさい」と言った。ぼくは宿題を広げて、一問も解かなかった。


 いま思い返しても、あの日の午前中ほど長い時間を、ぼくはあまり知らない。



   ◇



 着ていくものは、前の日に決めてあった。


 といっても、一番新しいTシャツと、一番短い短パンというだけだ。

 鏡の前で一度着てみて、なんだか変な気がして脱いで、結局それをまた着た。


 持ち物は、財布だけ。

 千円札が一枚だけ入った、青いマジックテープの財布。開けると、びりびり、と大きな音がする。


 その音が少し恥ずかしくて、ぼくは何回も開け閉めして、音を小さくする開け方を練習した。


 一時を過ぎた頃、ぼくは玄関で靴を履いた。


「早すぎるでしょ」

「歩いていくから」

「そうよね」


 母がそう言って、そのあと、なんでもないことみたいに続けた。


「お母さんも駅まで行くから」


 ぼくは靴を履く手を止めた。


「なんで」

「買い物。西口のスーパー」

「今日じゃなくてもいいじゃん」

「今日がいいの」


 ぼくは食い下がった。かなり食い下がった。

 でも母は台所の電気を消して、財布と鍵を持って、もう玄関に立っていた。


 どう言えばよかったのか、いまでもわからない。

 友達の前に母親が出てくるのが、あの年頃の男子にとってどれだけ具合の悪いことなのか――それを説明する言葉を、ぼくは持っていなかった。


 結局ぼくらは、二人で家を出た。



   ◇



 母は自転車を押して歩いた。


 乗らなかったのは、ぼくに合わせたからだ。

 ぼくの自転車は、家に置いてきていた。祭りの日は停める場所がないから、と言われていた。


 幼稚園の頃、ぼくはこの自転車の前についた椅子に座っていた。

 小学校に上がった年に、その椅子は外された。それからは二台で並んで走るようになって、そして今年、ぼくだけが歩いている。


 同じ道を、乗せられて、並んで走って、いまは隣を歩いている。

 三段階あったのだと、いま数えてみて気がついた。


 二十分の道のりで、母はいろんなことを言った。


 水分をとりなさい。人の多いところでは走らない。お金は全部いっぺんに出さない。

 ぼくは「うん」「うん」と返事をしながら、頭の中では別のことを考えていた。


 拓海はもう来ているだろうか。

 一番最後に着くのはいやだな。でも、一番最初に着くのも、なんとなくいやだ。


 母は、その二十分をほとんど喋りどおしだった。


 ぼくは、その間、ほとんど何も聞いていなかった。

 あの中には、たぶん必要なことが全部入っていたのだと思う。何時にどこで、というのも、きっと入っていた。


 でもぼくの耳は、返事だけを自動で出す装置みたいになっていて、中身はどこにも溜まらなかった。



   ◇



 駅の西口に着いたのは、二時二十分だった。


 西口には、駅の入口へ上がる階段が二つ、ハの字にひらいている。

 その二つの階段にはさまれた足もとに、ベンチと、新しくてきれいな公衆トイレがある。屋根があって、日陰になっていて、待ち合わせに使うならここしかない、という場所だ。橋川の子どもは、たぶん全員がここで誰かを待ったことがある。


 そのベンチのところに、もう四人ともいた。


 一番最後だった。それだけで少し落ち込んだ。


 そして、女子二人が浴衣だった。


 美咲は紺色に、白い花の柄。杏は薄い水色。二人とも下駄をはいていて、髪を上の方でまとめていた。


 男子三人は、Tシャツと短パンだった。

 ぼくも、拓海も、健太も、まったく同じ格好といっていいくらい、同じ格好だった。


「なんで浴衣なの」


 拓海が言った。責めているのではなく、本当に不思議そうな顔をしていた。


「お祭りだから」

「暑くない?」

「暑い」

「じゃあ着なきゃいいじゃん」

「意味わかんない」


 美咲はそう言って、下駄をカラン、と鳴らした。


 いま考えると、あの日の温度差は、そのまま夜まで続くことになる。


 女子二人は、何日も前から準備をしてきていた。

 男子三人は、その日の朝に服を選んで、それで終わりだと思っていた。


 同じ祭りに、違う気持ちで来ていた。



   ◇



「みさきちゃん、久しぶり」


 母が声をかけた。


 ぼくは、地面が抜けるかと思った。


「あ、こんにちは。おばさん、お久しぶりです」


 美咲は、下駄をそろえて、きちんと頭を下げた。

 小学四年生が、あんなにちゃんと挨拶をするのを、ぼくはあまり見たことがない。


「しっかりしてるわねえ」


 母は感心していた。そして、たぶんそのまま気を許したのだと思う。

 いかにも世間話のついでという調子で、母はこう聞いた。


「今日は、おこづかいいくら持ってきたの?」


 美咲は、少しも迷わずに答えた。


「五千円です」


 時間が止まった。


 母の口が、半分開いたまま、動かなくなった。


「……五千円?」

「はい」

「五千円」

「はい」


 母がぼくを見た。

 ぼくは何も言えなかった。ぼくだって、いま初めて知ったのだ。


「……うちの子、千円なんだけど」


 母がそう言った。


 やめてくれ、と思った。

 言わなくていい。誰も聞いてない。せめて、みんなのいないところで言ってくれ。


「足りるかしら」


 母は、ぼくにではなく、美咲に聞いた。


 美咲は少し考えて、それから笑った。悪気は、まったくなかった。


「おばさん、千円じゃ何も買えないですよ」

「そう?」

「かき氷とたこ焼きで終わっちゃいます」


 拓海が横で「そうそう」と言った。健太が「からあげが六百円」と言った。誰も助けてくれなかった。



   ◇



 母は、自転車のかごに置いた鞄から財布を出した。


 人前で財布を開けるのを、母はあまり好まない。

 その母が、駅の階段の下で、ぼくらの目の前で、財布を開けた。


 千円札を二枚、抜いた。


「はい」


 ぼくの手のひらに、二枚が載った。


 もともと持っていた一枚と合わせて、三枚。


 三千円。


 ぼくは、その三枚をどうしたらいいかわからなくて、しばらく手のひらに載せたまま立っていた。

 自分の手にこんな金額があるのを、ぼくは生まれて初めて見た。


「足りる?」


 母が美咲に聞いた。ぼくにではなく、美咲に。


「じゅうぶんです」


 美咲はそう言った。


 ぼくは、恥ずかしかった。母が友達に金額を確認していることも、自分の家のおこづかいが少ないと知られたことも、全部恥ずかしかった。


 でも同時に、はっきり嬉しかった。


 三千円。


 この二つの気持ちが同じ胸の中に並んでいることを、ぼくはうまく処理できないまま、財布のマジックテープを、びりびり、と大きな音を立てて開けた。



   ◇



「じゃあね」


 母は自転車のハンドルを持ち直した。


「離れないでね」

「うん」

「暗くなったら特にだからね」

「うん」

「八時に、いつもの駐輪場だからね」


 母はそう言いながら、駅の上の方を指さした。

 改札の上を通って向こう側へ抜ける、あの通路の方を。


「わかってる」


 わかってる、と言った。


 三日前は「わかった」。今度は「わかってる」。

 言葉としては、ちゃんと聞いている方が自然に見える。でも実際は、その逆だった。


 わかってる、というのは、もう言わなくていい、早く行ってほしい、という意味だ。


 母は「じゃあ、気をつけて」と言って、自転車を押してスーパーの方へ歩き出した。


 ぼくは、その指を見ていなかった。


 ちょうどそのとき拓海が「行こうぜ」と言って、健太が「からあげ」と言って、美咲が「まだ二時半だし」と言っていた。ぼくはその中にいて、笑っていた。


 だから見ていなかった。


 母が指さしたのが、いま自分の立っているこの場所ではなく、あの通路の向こう側だったということを。


 あの指の先さえ目で追っていれば、ぼくはたぶん、あの夜に三十分立ち尽くさずに済んだ。


 母は言葉でも言い、手でも示した。

 ぼくは、その両方を受け取らなかった。


 十歳のぼくには、ほかに見るべきものが多すぎたのだ。



   ◇



「行こう」


 誰が言ったのかは覚えていない。


 五人で階段をのぼった。


 改札の上を通って、駅の向こう側へ抜ける通路。

 さっき母が指をさしたのと、同じ通路だった。


 ぼくはそこを、自分の足で歩いていた。

 歩きながら、何も思わなかった。


 通路の窓から、下のホームと、その向こうの町が見えた。

 下駄の音が二人分、天井に反射して、やけに大きく響いた。


 東口の階段を下りていくと、太鼓の音がだんだん大きくなった。

 そこから、まっすぐ三分。


 ぼくは一度も振り返らなかった。


 ポケットの中で、三枚の千円札が、汗で少し柔らかくなっていた。

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