第六章 二時半、西口
当日の朝、ぼくは六時前に目が覚めた。
こんなに早く起きたのは、遠足の日以来だった。
台所にはまだ誰もいなくて、外はもう明るくて、蝉が鳴き始めていた。
やることは何もなかった。
集合は二時半だ。あと八時間半ある。
ぼくは居間の時計を見て、部屋に戻って、しばらくしてまた居間に行って、時計を見た。
朝ごはんを食べた。歯を磨いた。何もしていないのに、何回も手を洗った。
母が「そんなに落ち着かないなら、宿題でもやりなさい」と言った。ぼくは宿題を広げて、一問も解かなかった。
いま思い返しても、あの日の午前中ほど長い時間を、ぼくはあまり知らない。
◇
着ていくものは、前の日に決めてあった。
といっても、一番新しいTシャツと、一番短い短パンというだけだ。
鏡の前で一度着てみて、なんだか変な気がして脱いで、結局それをまた着た。
持ち物は、財布だけ。
千円札が一枚だけ入った、青いマジックテープの財布。開けると、びりびり、と大きな音がする。
その音が少し恥ずかしくて、ぼくは何回も開け閉めして、音を小さくする開け方を練習した。
一時を過ぎた頃、ぼくは玄関で靴を履いた。
「早すぎるでしょ」
「歩いていくから」
「そうよね」
母がそう言って、そのあと、なんでもないことみたいに続けた。
「お母さんも駅まで行くから」
ぼくは靴を履く手を止めた。
「なんで」
「買い物。西口のスーパー」
「今日じゃなくてもいいじゃん」
「今日がいいの」
ぼくは食い下がった。かなり食い下がった。
でも母は台所の電気を消して、財布と鍵を持って、もう玄関に立っていた。
どう言えばよかったのか、いまでもわからない。
友達の前に母親が出てくるのが、あの年頃の男子にとってどれだけ具合の悪いことなのか――それを説明する言葉を、ぼくは持っていなかった。
結局ぼくらは、二人で家を出た。
◇
母は自転車を押して歩いた。
乗らなかったのは、ぼくに合わせたからだ。
ぼくの自転車は、家に置いてきていた。祭りの日は停める場所がないから、と言われていた。
幼稚園の頃、ぼくはこの自転車の前についた椅子に座っていた。
小学校に上がった年に、その椅子は外された。それからは二台で並んで走るようになって、そして今年、ぼくだけが歩いている。
同じ道を、乗せられて、並んで走って、いまは隣を歩いている。
三段階あったのだと、いま数えてみて気がついた。
二十分の道のりで、母はいろんなことを言った。
水分をとりなさい。人の多いところでは走らない。お金は全部いっぺんに出さない。
ぼくは「うん」「うん」と返事をしながら、頭の中では別のことを考えていた。
拓海はもう来ているだろうか。
一番最後に着くのはいやだな。でも、一番最初に着くのも、なんとなくいやだ。
母は、その二十分をほとんど喋りどおしだった。
ぼくは、その間、ほとんど何も聞いていなかった。
あの中には、たぶん必要なことが全部入っていたのだと思う。何時にどこで、というのも、きっと入っていた。
でもぼくの耳は、返事だけを自動で出す装置みたいになっていて、中身はどこにも溜まらなかった。
◇
駅の西口に着いたのは、二時二十分だった。
西口には、駅の入口へ上がる階段が二つ、ハの字にひらいている。
その二つの階段にはさまれた足もとに、ベンチと、新しくてきれいな公衆トイレがある。屋根があって、日陰になっていて、待ち合わせに使うならここしかない、という場所だ。橋川の子どもは、たぶん全員がここで誰かを待ったことがある。
そのベンチのところに、もう四人ともいた。
一番最後だった。それだけで少し落ち込んだ。
そして、女子二人が浴衣だった。
美咲は紺色に、白い花の柄。杏は薄い水色。二人とも下駄をはいていて、髪を上の方でまとめていた。
男子三人は、Tシャツと短パンだった。
ぼくも、拓海も、健太も、まったく同じ格好といっていいくらい、同じ格好だった。
「なんで浴衣なの」
拓海が言った。責めているのではなく、本当に不思議そうな顔をしていた。
「お祭りだから」
「暑くない?」
「暑い」
「じゃあ着なきゃいいじゃん」
「意味わかんない」
美咲はそう言って、下駄をカラン、と鳴らした。
いま考えると、あの日の温度差は、そのまま夜まで続くことになる。
女子二人は、何日も前から準備をしてきていた。
男子三人は、その日の朝に服を選んで、それで終わりだと思っていた。
同じ祭りに、違う気持ちで来ていた。
◇
「みさきちゃん、久しぶり」
母が声をかけた。
ぼくは、地面が抜けるかと思った。
「あ、こんにちは。おばさん、お久しぶりです」
美咲は、下駄をそろえて、きちんと頭を下げた。
小学四年生が、あんなにちゃんと挨拶をするのを、ぼくはあまり見たことがない。
「しっかりしてるわねえ」
母は感心していた。そして、たぶんそのまま気を許したのだと思う。
いかにも世間話のついでという調子で、母はこう聞いた。
「今日は、おこづかいいくら持ってきたの?」
美咲は、少しも迷わずに答えた。
「五千円です」
時間が止まった。
母の口が、半分開いたまま、動かなくなった。
「……五千円?」
「はい」
「五千円」
「はい」
母がぼくを見た。
ぼくは何も言えなかった。ぼくだって、いま初めて知ったのだ。
「……うちの子、千円なんだけど」
母がそう言った。
やめてくれ、と思った。
言わなくていい。誰も聞いてない。せめて、みんなのいないところで言ってくれ。
「足りるかしら」
母は、ぼくにではなく、美咲に聞いた。
美咲は少し考えて、それから笑った。悪気は、まったくなかった。
「おばさん、千円じゃ何も買えないですよ」
「そう?」
「かき氷とたこ焼きで終わっちゃいます」
拓海が横で「そうそう」と言った。健太が「からあげが六百円」と言った。誰も助けてくれなかった。
◇
母は、自転車のかごに置いた鞄から財布を出した。
人前で財布を開けるのを、母はあまり好まない。
その母が、駅の階段の下で、ぼくらの目の前で、財布を開けた。
千円札を二枚、抜いた。
「はい」
ぼくの手のひらに、二枚が載った。
もともと持っていた一枚と合わせて、三枚。
三千円。
ぼくは、その三枚をどうしたらいいかわからなくて、しばらく手のひらに載せたまま立っていた。
自分の手にこんな金額があるのを、ぼくは生まれて初めて見た。
「足りる?」
母が美咲に聞いた。ぼくにではなく、美咲に。
「じゅうぶんです」
美咲はそう言った。
ぼくは、恥ずかしかった。母が友達に金額を確認していることも、自分の家のおこづかいが少ないと知られたことも、全部恥ずかしかった。
でも同時に、はっきり嬉しかった。
三千円。
この二つの気持ちが同じ胸の中に並んでいることを、ぼくはうまく処理できないまま、財布のマジックテープを、びりびり、と大きな音を立てて開けた。
◇
「じゃあね」
母は自転車のハンドルを持ち直した。
「離れないでね」
「うん」
「暗くなったら特にだからね」
「うん」
「八時に、いつもの駐輪場だからね」
母はそう言いながら、駅の上の方を指さした。
改札の上を通って向こう側へ抜ける、あの通路の方を。
「わかってる」
わかってる、と言った。
三日前は「わかった」。今度は「わかってる」。
言葉としては、ちゃんと聞いている方が自然に見える。でも実際は、その逆だった。
わかってる、というのは、もう言わなくていい、早く行ってほしい、という意味だ。
母は「じゃあ、気をつけて」と言って、自転車を押してスーパーの方へ歩き出した。
ぼくは、その指を見ていなかった。
ちょうどそのとき拓海が「行こうぜ」と言って、健太が「からあげ」と言って、美咲が「まだ二時半だし」と言っていた。ぼくはその中にいて、笑っていた。
だから見ていなかった。
母が指さしたのが、いま自分の立っているこの場所ではなく、あの通路の向こう側だったということを。
あの指の先さえ目で追っていれば、ぼくはたぶん、あの夜に三十分立ち尽くさずに済んだ。
母は言葉でも言い、手でも示した。
ぼくは、その両方を受け取らなかった。
十歳のぼくには、ほかに見るべきものが多すぎたのだ。
◇
「行こう」
誰が言ったのかは覚えていない。
五人で階段をのぼった。
改札の上を通って、駅の向こう側へ抜ける通路。
さっき母が指をさしたのと、同じ通路だった。
ぼくはそこを、自分の足で歩いていた。
歩きながら、何も思わなかった。
通路の窓から、下のホームと、その向こうの町が見えた。
下駄の音が二人分、天井に反射して、やけに大きく響いた。
東口の階段を下りていくと、太鼓の音がだんだん大きくなった。
そこから、まっすぐ三分。
ぼくは一度も振り返らなかった。
ポケットの中で、三枚の千円札が、汗で少し柔らかくなっていた。




