第五章 あっち側
祭りの週の帰りの会で、先生が長い話をした。
道路には出ないこと。暗くなる前に帰ること。知らない人についていかないこと。お金は決められただけしか持っていかないこと。
教室の全員が、上の空で聞いていた。
この話が終われば帰れるということだけを、みんな考えていた。ぼくもだ。
先生は一通り言い終わってから、思い出したように付け足した。
「そうだ、町のお神輿に出る人、手を挙げて」
教室のあちこちで、手が挙がった。
四人か五人が手を挙げていた。
ぼくはそのうちのひとりに目を留めて、それから、目が離せなくなった。
小野寺遼が、手を挙げていた。
◇
小野寺遼というのは、教室でほとんど目立たない子だった。
うるさくもないし、静かすぎもしない。運動ができる方でも、勉強ができる方でもない。給食は好き嫌いがなくて、牛乳を一番最後にとっておいて、最後に一気に飲む。ぼくが遼について知っていたのは、そのくらいしかない。
同じ教室に一年以上いて、たぶん十回も口をきいていない。
いま気がついたのだが、ぼくは遼のことを、心の中でも「小野寺」としか呼んでいなかった。
拓海のことは拓海と呼び、健太のことは健太と呼んでいたのに、遼のことは最後まで小野寺だった。
それが、ぼくとあの子の間にあった距離の全部だったのだと思う。
「小野寺、神輿出んの?」
手が下ろされるより先に、拓海が声を上げた。教室の反対側から、平気で。
「出る」
「まじで」
「毎年出てる」
遼は、別に得意そうでもなかった。
自慢するでもなく、照れるでもなく、ただ事実として「毎年出てる」と言った。
その当たり前みたいな言い方が、ぼくには衝撃だった。
ぼくにとって、今年の祭りは特別だった。
去年までは母に手を引かれて歩いていた道を、今年は初めて自分たちだけで歩く。そのために二週間前から日を数えて、母と三日かけて交渉して、指を四本立てて、やっと手に入れた一日だ。
あの日のために、ぼくの七月は全部あった。
遼にとっては、毎年やっていることだった。
◇
ぼくも聞きたかった。
どんなことをするのか。重いのか。何時から何時までなのか。あの法被はどこでもらうのか。
聞きたいことは、いくらでもあった。
全部、口の中で組み立てるところまではできていた。
でも、ぼくは席から立たなかった。
立って、教室を横切って、遼の机の前まで行って、「あのさ」と言う。
その一連の動作を頭の中で再生してみて、途中でやめた。
拓海は、それを一秒でやってのけた。
いや、やってのけたというのも違う。拓海は、そこに何かがあるとすら思っていなかった。ただ声が出ただけだ。
電話と同じだ。
番号は持っている。指も動く。言うことも決まっている。それでも、ぼくにはかけられない。
距離というのは、そういうものらしい。
自分と相手の間にあるのではなく、自分の中にある。
◇
その日、家に帰ってから、ぼくは母に聞いた。
「うちって、神輿出ないの?」
母は洗濯物をたたんでいた手を止めずに答えた。
「うちは町内が違うから」
それだけだった。
「町内って?」
「お神輿を出してるのは、駅の向こうの、古い方の町。本町とか、下町とか。うちはこっちだから」
こっち。
ぼくらの家は駅の西側にある。田んぼを埋めて建てた、新しい家ばかりの一帯だ。駅の西口までは歩いて二十分。祭りの県道は駅の反対側だから、そこまで行くとさらに五分かかる。
自転車なら十分もかからない。
でも、その十分の外にいる、ということらしかった。
「小野寺くんは、本町の商店のとこでしょう」
「知ってるの」
「知ってるわよ。あそこのおうちは代々」
代々、という言葉を、ぼくはそのとき初めてちゃんと聞いた気がする。
遼は、生まれる前から、あっち側だった。
◇
その夜、ぼくは布団の中で、初めて気がついた。
祭りには、二種類の人間がいる。
祭りに行く人と、祭りをやる人だ。
ぼくはずっと、行く人のことしか考えていなかった。何を食べるか、いくら使うか、誰と回るか。祭りというのは、そういうものだと思っていた。
でも、あの道に四百軒の店が出て、提灯がぶら下がって、太鼓が鳴るのは、誰かがそれをやっているからだ。
法被を着て、綱を握って、汗をかいている人がいるからだ。
その人たちは、ぼくらが並んでたこ焼きを買っている間、ずっと働いている。
十歳のぼくは、そこまで筋道立てて考えたわけではない。
ただ、遼が急に、ずいぶん遠くにいる人に見えた。
同じ教室で、同じ給食を食べて、牛乳を最後にとっておく、あの小野寺が。
◇
次の日、下駄箱のところで遼とすれ違った。
ぼくは靴を履き替えていて、遼はもう履き替え終わって、外に出ようとしていた。
距離にして、一メートルもなかった。
ぼくは口を開けた。
言おうとしたのは、たぶん「がんばって」だったと思う。
あるいは「見にいくよ」だったかもしれない。
どちらにしても、五文字だった。
遼は、ぼくが口を開けたのに気づかずに、外へ出ていった。
夕方の光が、開いた扉から一瞬だけ入ってきて、また閉まった。
ぼくは口を閉じて、靴のかかとを踏んだまま歩き出した。
あのとき言っておけばよかった、とは思わない。
言ったところで、遼は「おう」とか「うん」とか言って、それで終わっていたはずだ。何も変わらなかった。
ただ、言おうとして言えなかった言葉というのは、言えた言葉よりずっと長く残る。
下駄箱の前で開いたままだった自分の口の形を、ぼくはまだ思い出せる。
祭りまで、あと三日。




