第四章 電話番号
「行けるって」
次の日の朝、ぼくは教室に入るなり、拓海の席まで行ってそう言った。
自分から誰かのところに行って、自分から話しかけた。
ぼくにしてはめずらしいことだった。それくらい、言いたくてたまらなかったのだ。
「なにが」
「祭り」
「ああ」
拓海はそれだけ言って、消しゴムのかすを机の端から払い落とした。
「じゃあ行くじゃん」
三日かけて交渉して、二晩眠れなくて、指を四本立てて手に入れた許可が、拓海のところでは「じゃあ行くじゃん」の八文字で処理された。
拍子抜けした、というのとは少し違う。
なんというか、ぼくは自分の三日間が、そのくらい軽いものとして扱われることに、ほっとしていた。
大ごとにされないというのは、たぶん、ちゃんと仲間に入っているということなのだ。
◇
その週から、話は急に細かくなった。
何時に集まるか。どこに集まるか。何を持っていくか。
「二時半な」
「早くない?」
「早い方がいいんだよ。混むから」
「じゃあ二時半」
場所は駅の西口ということになった。ハの字の階段の下の、ベンチのところ。普段から待ち合わせといえばそこだった。
この「二時半、西口」を、ぼくは一度も間違えなかった。
当日まで一度も忘れなかったし、思い出そうとして詰まったこともなかった。
当たり前だ。学校で、休み時間のたびに何回も言われていたのだから。
拓海が言い、健太が確認し、美咲が「ほんとに二時半でいいの」と念を押し、また拓海が言う。ぼくの頭には、聞くつもりがなくても入ってきた。
いま思えば、これは残酷な対比だ。
学校で何十回も言われたことを、ぼくは正確に覚えていた。
家で一回だけ言われたことを、ぼくは覚えていなかった。
ぼくの頭は、そういう風にできていた。
◇
「電話番号、交換しとこうぜ」
ある日、拓海がそう言い出した。
交換、と言われて、ぼくは一瞬あわてた。番号なんて紙に書いてきていない。自分の家の番号は言えるけれど、それをどこに書けばいいのか。
でも拓海が引っぱり出したのは、年度のはじめに配られた、クラス全員の住所と電話番号が載っている紙だった。
なんのことはない。
ぼくらは最初から、全員の電話番号を持っていた。
「交換いらないじゃん」
「まあそうだけど」
健太が笑って、拓海も笑った。
でもぼくは、そこであることに気がついた。
番号は、最初から全員が持っていた。
持っていなかったのは、番号ではなかった。
◇
拓海は、誰の家にでも平気で電話をかける子だった。
あとから何回か、うちにもかかってきた。母が受話器を取ると、拓海はいきなり「あ、優真いますか」と言うらしい。名乗りもしない。母は「岡田くん、元気ねえ」と、なぜか感心していた。
美咲は、五人分の番号を全部そらで覚えていた。
誰も頼んでいないのに覚えていた。「なんで覚えてるの」と健太が聞いたら、「見たら覚えるでしょ」と本気で不思議そうな顔をした。
健太は逆で、自分の家の番号すら言えなかった。名簿を指でたどって「これこれ」と言っていた。
そして、ぼくだ。
ぼくは、人の家に電話をかけたことが、一度もなかった。
番号は読める。指も動く。
でも、かけたあとに起きることが、ぼくには耐えられなかった。
呼び出し音が二回か三回鳴って、受話器の向こうで大人が出る。
「はい、岡田です」
そこでぼくは、こう言わなければならない。
「もしもし、あの、佐久間ですけど、拓海くんいますか」
たったそれだけの文だ。
でもぼくは、その文を口から出せる気がしなかった。
まず、名乗るところで詰まる。佐久間です、と言うのか、優真です、と言うのか。同じクラスの佐久間です、と言った方がいいのか。
そして、名乗ったあとに必ずくるあの数秒。
「どちら様?」
あれが怖かった。
こちらは名乗ったのに、伝わっていない。もう一度言わなければならない。もう一度言っても伝わらなかったらどうするのか。
その数秒のことを想像するだけで、受話器がずっしり重くなった。
それに、うちの電話は居間にある。
かければ、母に全部聞こえる。
ぼくがどんな声で名乗って、どんな風に詰まるのかを、母がテレビを見るふりをしながら聞いている。
それがいやだった。
あの頃のぼくにとって、電話をかけるというのは、そのくらい大がかりなことだった。
◇
「じゃあ、なんかあったら電話な」
拓海は名簿をランドセルに突っ込みながら、そう言った。
「うん」
ぼくは言った。
その「うん」がどういう意味だったのか、自分でもよくわからない。
わかったという意味ではなかった。かけますという意味でもなかった。
たぶん、話が終わったという意味だった。
そしてこの日、ぼくの連絡手段はひとつに決まった。
学校で、口で聞いたことを、全部覚えていること。
それしかなかった。
そしてぼくは、人の話を最後まで聞くのが、あまり得意ではなかった。
◇
「わたしも、電話、苦手」
帰り道で、後ろから小さい声がした。
杏だった。美咲と一緒ではなく、めずらしくひとりだった。
「え」
「かけるの。なんか、怖くて」
杏はそこで少し笑った。ぼくが何も言えずにいると、杏は「じゃ」と言って、曲がり角の方へ行ってしまった。
なんで急にそんなことを言ったのか、いまでもわからない。
たぶん、名簿の場面でぼくが黙っていたのを、杏だけが見ていたのだと思う。
ぼくは嬉しかった。
ぼくと同じ人が、もうひとりいた。
拓海でも健太でも美咲でもない、四人目のところに、ぼくと同じかたちの子がいた。
でもぼくは、その嬉しさを何も言わなかった。
「ぼくもだよ」
その五文字を、曲がり角に向かって言うことすらできなかった。
◇
その夜、ぼくは居間の電話の前に立った。
母は風呂に入っていて、父はまだ帰っていなかった。誰にも聞かれない。
こんな夜は、そうそうない。
ぼくは名簿を持ってきて、机の上に広げた。岡田拓海の家の番号のところを、指で押さえた。
受話器を取った。
耳に当てると、つーっという音がした。
そのまま、五分くらい立っていた。
結局、ぼくは受話器を戻した。
番号は一つも押さなかった。
いま考えると、ぼくにはかける用事が何もなかった。
集合は二時半で、場所は西口で、それはもう全員が知っていた。話すことなんて何もなかったのだ。
だからあれは、練習だったのだと思う。
いつか本当に必要になったときのために、受話器を持ってみただけの、練習。
その練習が役に立つ日は、来なかった。
二週間後、ぼくが本当に誰かに電話をかけなければならなくなった夜、ぼくの手元には受話器も、名簿も、十円玉もなかった。




